続・蛙独言

ひとりごと

あらためて新シリーズ 2

2012-09-29 14:37:22 | 日記
前回、<社会の総体は、例えていえば「大きな立体」であるが、それを「差別」という切り口で切って「平面」としてみれば、「被差別民」と「それ以外の人」ということになる>と言ったが、<・・「被差別・・」と「それ以外」・・>というところに眼目がある。
例えば、この「立体」を「性」という「切り口」で切ってみると、「男」と「女」という風になるかといえば、実はそうはならない。
詳しくは知らないが幾通りもの分類が可能であるようだし、その上、社会学的な〈ジェンダー〉バイアスがかかっていたりする。
それだから、「男」或いは「女」といったところで、それがどういうものであるかは「その社会が決める」のであって、〈「男」と「それ以外」〉〈「女」と「それ以外」〉は成立しても、それ程単純なものではない。
これもまた、「文化」の問題だろう。
それでは「被差別」とは何かということになるだろうが、蛙はその起源について云々することは実は大した問題ではないと考えている。
蛙の居住する地域は1500世帯もある神戸でも2番目に大きいものであるが、明治の初年には僅か20世帯くらいであった。神戸で最も大きい地域でも100世帯ばかりだったのだが、「都市の発展とそれに伴う人口集中」で3000世帯まで膨れ上がっている。
これはもう「歴史的に形成されてきた被差別民の集落」ではないことを物語るものだ。
「そこ」が「被差別」と名指されるのは「社会」がそのように「決めつけている」だけのことなのだ。
勿論、江戸時代から作られてきた経緯はある。
蛙の地域は、明石藩の街道沿いに放射線状に配置されている「」の形状から考えて、もともと「下級司法警察」としておかれたものであり、その「中心的役割」を担ったものであったようである。
現在ではそのような記憶は消え去って、ただ「被差別」であるという「認識」だけが「内側」でも「外側」でも受け継がれてきている。
同和対策事業以前は、極めて劣悪な環境の中に落としこめられていて、「同対審答申」がいうように、その劣悪な環境が「差別が再生産されていく」原因であった。
環境が改善されれば、確かにその「鎖」は断ち切られるが、そもそも「社会」が安定的に自存するために「差別の対象」を「外部」に持とうとする構造には手はつけられなかったから、いまだにその悪弊は存続している。
支配的な階級からは「被支配層は分断して対立を持ち込む」ことが目指されてきたのだから、彼らにとっては大きな意味があった。
現在では、「差別」は中心的なものではなくなって、例えば「この間」の「生活保護バッシング」で見られるようなものや「在日外国人」などなど、「社会の分裂支配」の内容は複雑化し多様化してきている。
人々が「そのこと」に気付き、「差別構造全般」の廃絶にむけた道筋を見つけ出す、そういう作業が是非とも求められているということだろう。

あらためて新シリーズ 1

2012-09-26 13:07:29 | 日記
自分の考えを整理するためにということでブログを開設して随分時間が経った。
なにかしら、まとまった「考え」に至ったかといえば、整理がつかないままに一層混乱してしまったようではある。
Niftyのフォーラムから数えれば15年以上になる。
「差別とは何であるか」「その解決はあり得るのか」といったようなことが主要なテーマだった。
周囲では様々に論ぜられてきていると思うが、納得のいくような解答にも出会っていない。
現実に差別の事例は枚挙に暇は無いのだけれど、さて「差別とは何か」とか、そもそも「とは何か」「民とは誰か」ということさえ、明解な答えを見いだせていないのではないかと思う。
しばしば「民とはこの〈私〉だ」といった言説さえあるわけで、これはもう「居直り」に近いと蛙には思われる。
この辺りはまた別稿で考えてみたいと思う。

それで、思いつくままにこれまで考えてきたことを連続して書いていきたい。

社会の総体は、例えていえば「大きな立体」であるが、それを「差別」という切り口で切って「平面」としてみれば、「被差別民」と「それ以外の人」ということになる。
一時期、「差別問題に中立ということはない。被差別の側に立つか『差別者側』に立つかしかないのだ。」という立論が主張されたことがあったと思う。
こうした主張に対して、日共からは「『解同』は以外の人々を敵視している」というような非難があった。
その非難が当たっている事例も勿論あったのだけれど、概して、「ハク(以外の人)は皆、敵やッ!」などといった主張をした者は「未熟」だったというほかない。
これは「論理」の問題であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
そういう主張は分からないわけでもない。
蛙の父親がどれ程酷い差別を受けてきたか、それも「よく知っている男」からだったけれど、聴き知ってからは胸の内に憎悪の念がどうしても湧き上がってきてこらえ切れない想いもしたものだ。
また、「敵」と名指された相手方には、なんとかしてそうでなくなるような努力を求める「呼びかけ」でもあっただろうと思われる。
最近では、そのような主張は影をひそめて、「周辺の人々との共同行動を通しての人権の街づくり」という風に変化してきているようだ。
蛙の考えでは「そういう努力も必要だろうが決定打ということにはならないだろう」ということになる。
全体、問題は「この社会の『文化』の作り変えが目指されなければならない」と考えているからだ。
産まれたばかりの赤子が初めから「差別意識」を持っていたりするわけではない。
(人間はそもそも差別するものとして存在しているという主張もあるが、これは次回に検討しよう)
人は、その成長の過程で、「ことば」を獲得し、そのことによって社会的規範などをも受け取る。
この過程にこそ差別が受け継がれていく原因があるのであるから、「ここ」が撃たれなければならないと蛙は思う。
言ってみれば「文化大革命」ということだ。

社会を「大きな立体」と考えると、その「切り口」は無数にある。
例えば、「障がい者問題」。
「切り口」の平面上には「障がい者」と「健常者」があるわけだが、フツー「健常者」の思考の過程には「障がい者」は省かれてしまう。
これもまた、「文化」の問題であるだろう。
例えば「都市と農村」。
都市住民は、その生活を農村に支えられてあることを意識することがまずない。

奈良の山下さんたちは「問題は既に喫緊の課題ではなくなった」ということを言われている。
解放運動の中では「差別をはじめとする様々な差別問題を・・・」という言い廻しが言われてきた。
蛙は思うのだけれど、の人間が「差別問題」を中心に据えるのは至極当然のことであって、「障がい者」ならば「障がい者差別」が「喫緊の課題」であり続けるし、「『障がい者』差別をはじめとする様々な差別問題の解決を・・・」というのは自然なことではないだろうか。
また、沖縄だったら、「本土」による「沖縄差別」ということが「喫緊の課題」であり続けている。
それだから、問題を立てる時には、「主体」の条件がよく吟味され、その解決に向けて、どのように「連帯の輪」を拡げていくべきかということにならなければならない。

で、蛙にとっては、「差別」問題が「解決」されるまで、いつまでも中心の課題になり続けるということだ。

苦悩の日々

2012-09-16 14:11:35 | 日記
あまりに酷い状況は続いて蛙は言うべき「ことば」を失ったまま。
全ては「アメリカの顔を伺う」だけの政治家連ばかりであることもあるし、それを許してきた自身を含めての「反権力の側」の「無責任」ということであるのかも知れない。

沖縄にこれまでもたいへんな犠牲を強いてきて、なお一層「オスプレイ配備」などという暴挙でもって応える「本土」とはなんであるのだろう。
まるで「福島原発事故」など無かったかのように、大飯再稼働から三つの建設途上の原発を計画通り進めるとか、「もんじゅ」の扱い、「核燃料サイクル」の推進などなど、正気の沙汰とも思えない政府の対応。
「福島第一・4号炉」の危機的状況は明らかにされないまま。
最悪の場合、北半球の壊滅的破壊がもたらされるという警告さえ無視されたまま。
あいかわらずの「政争」に明け暮れていたりする、政治の状況。
19兆もの巨額の「復興予算」も「被災地」とは無関係なところに使われているということも報道されている。

「憲法9条」を葬り去るための石原の挑発はものの見事に成功し、日中関係は最悪の事態に立ち至っている。
言ってみても仕方がないが、石原が「尖閣」購入を持ちだしたときに政府が取るべき対応は、それを強権的に押しとどめ、粘り強い外交折衝で問題の解決を目指すということ以外に選択肢は無かった。

マスコミもまた、「大本営発表」に後戻りしてしまった。
本来、批判的精神こそ報道者の魂でなければならなかったというのに。
「万朝報」が日露戦争反対を降ろして権力に屈服した時、幸徳秋水らは「平民新聞」
を立ち上げたのだったが、今、そのような骨のある人間は皆無に近い。
(東京新聞とか、沖縄の琉球新報、沖縄タイムスなどなど、抵抗はあるが、蛙はこれを購読していない)
新聞・テレビなどでの「橋下・維新」の扱いなどを見ていると反吐さえ出る。
こんな馬鹿げた、論理もへったくれもないゴミ虫をなんで持ちあげたりするのか。

ただ、これほどにも閉塞感に囚われている状況では、かくのごときファシストへの同調はありうることかも知れない。
恐ろしい限りだ。

11月11日には「反原発100万人集会」が企画されている。
先が全く見えないが、「この日」には東京に出向いてみようと思う。

NHK スペシャル

2012-09-14 09:10:07 | 日記
先日、NHKの番組、夜中に再放送されてたの、蛙は録画しましたが、「復興予算」の行方を追ったもの。
フェイスブックで拾ったのをUPしておきます。

是非、観てください。

コメント欄からジャンプしてちょうだい。

http://v.youku.com/v_show/id_XNDQ4NjM2ODg0.html

9月1日

2012-09-01 14:52:30 | 日記
蛙ンチの庭にはラクウショウの相当大きな木があって、毎年、夏には根元に無数の穴があけられる。
これは現認したのではないが、明らかにセミが抜け出た穴だ。
ざっと数えたら120くらいはあった。
幾度か強い雨の日があったから、今は大方が埋もれてしまっている。
クマゼミやアブラゼミもそろそろ終わりのようで、ツクツクボウシに代わってきている。
幼虫は、7年ばかり土の中で暮らすと聞いたことがある。
他にもホルトとかサクランボの木もあるけれど、もっぱらラクウショウの根元に集中をしているから、これがセミの好物なんだろう。
明石公園の西側の櫓の下にもラクウショウの大木があるが、この木の根元にも同じような穴がたくさんあった。

季節は移ろいゆくが、時代は一層、暗い様相を深めていくようだ。
沖縄・高江も緊迫している。
大飯原発差し止め訴訟も始まるようだ。

少しづつでも、体を動かして行かなければならない。

子どもたちの未来も大切だが、蛙は「人間以外のすべての生きとし生けるもの」もまた、大切にされていかなければならないと思う。