続・蛙独言

ひとりごと

暑いです。

2014-07-23 12:16:21 | ひとりごと

当分、更新ができておりませんが、ご心配をおかけする程、体調が悪かったわけではありません。

暑さに負けて、というところです。

「狭山」の映画上映会のお手伝いとか、その他、ごそごそとはやってはいるのですがね。

20日の日曜日には大阪まで出かけて「仲パレ」サウンドデモを終いまで歩いたり。

ちょっときつかったですけど。

とても楽しかった。

 

友人たちにも会うことができましたし。

 

主には「ヘイトスピーチ」を許さないということが主題だったのでしょうが、「あらゆる差別 反対」ということでしたから、同盟の荊冠旗があってもよさそうに思うのですが、一切、そういうのはありませんでした。

 

大阪府連と京都府連の友人の参加はありましたが、これも「個人参加」ということですね。

勿論、兵庫県連からは唯の一人も参加は無し。

 

蛙が見たところでは、ということですから、或いは、どなたかは参加されていたのかも知れませんが。

 

「同盟の運動の質」について、大いに疑問に感ずるところです。


「どこ」から来て「どこ」へ行くのか 6

2014-07-04 00:46:17 | ひとりごと

この「エリートとして育つ」というのが「クセモノ」なのだ。

解放運動でもそうだが、一般に社会的に「力を持った人間」は、そういうのが多いわけだが、大概、人間として最低というのが多い。

「フツー」の人々の怒りや悲しみを理解しようとはしない。

「苦しさ」は「自己責任」、「努力が足りなかった」くらいにしか考えることができない。

蛙にも、ともすれば「そういう傾向」があるように思えるが、厳に自身を戒めてきたと考えてはいる。

まだまだ、ということはあるかも知れないが、常に「自分の考えは正しいか、間違ってはいないか」、謙虚に自身に問い続けることは大切なことなのだ。

 

話を続けよう。

小学校を卒業して中学に進学をするのだが、ムラの子どもたちが行く中学ではなく、兄が先に行っていた中学に行くことになる。

「越境」ということだが、この時、家族もろともに、隣の市に中古の住宅を買って、そこに住所を移している。

「本籍」を含めて。

 

この時、教師から「井の中の蛙大海を知らず」ということを言われ、大きな希望をもって蛙は進学をする。

ここでもずっと成績はトップクラスだった。

友人から「お前、ホンマはムラなんやろ。怖ないんか?」などと言われたりした。

「何が怖いことあるねん。皆、わしのようなもんや。」などと返している。

 

ムラの子どもたちが決められた中学に進学していって、その時、初めて「外」の子たちと一緒に学ぶことになるのだが、その子たちや教師からもあからさまな差別に出会うのだから、学校は荒れに荒れる。

新聞でも大きく取り上げられたのだが、蛙は「そんなこと」には一向に関心がなかったようだ。


「どこ」から来て「どこ」へ行くのか 5

2014-07-02 10:50:12 | ひとりごと

だいたい、いつ頃に「」であることを感得するのか、そんな統計がある訳も無いのだから、「あてずっぽう」ということになる。

子どもであるからして、「」とか「差別」とか、そういう概念がまだない時機である。

蛙の場合は小学校低学年の頃から「自分のムラが他所の人から忌避排除されているらしい」ということは分かっていた。

家族から言われたことではないから、友人から得た情報だったと思う。

印象に残っている言葉がある。

「お前、ムラ、丸出しやなぁ!」

しっかりした考えがあってのことではなかったろうが、小さいながらも蛙は自己の存在に自信を持っていた風で、「誰からも後ろ指差されることなど何ひとつない」、それだから自身の居住地域を隠そうなどと思ったことがなかった。

友人がどういう風にしてそういう意識を持つようになったかはさだかではないが、「外」では「隠さなければならないこと」と考えていたようだ。

友人たちの家は、いかにも貧しい、生活も苦しい状況であったから、そんな意識に囚われていたのも考えれば無理からぬことだったのかも知れない。

 

ツレアイに聞いた話では、親戚中が寄り集まって談話する場面で、「どこそこの誰々が結婚差別にあって厭な想いをしたようだ」ということが、それとなく、子どもの折から聞かされて育ったという。

 

その時代にあっては「大金持ち」ではなかったが、それなりに裕福な家庭で育っている。

テレビなどもまだ一般的に普及する前の時代で、ムラでは何台か、僅かに所持されていて、プロレスの力道山の試合中継などの時は、蛙のウチは米屋だったから、店先に出してたくさんの人が観にきていたものだ。

 

蛙が通学した小学校は、の子だけが通う、所謂「部落学校」で、この時期では、全国的にも珍しく、西宮とウチだけだった。

小学校時代は学校図書館の本を全部読んでしまおうかという具合だった。

同級生はそもそも勉強をしようという環境になかったようだから、勿論、首席ということになる。

蛙は「ムラのエリート」として育ったのだ。

ずっと後になって、古い成績表を見ることがあって、父親や母親もまた、尋常小学校で首席だったことが分かった。