続・蛙独言

ひとりごと

子ども

2011-09-28 15:22:30 | 日記
歳を取るごとに、分からないことがどんどん増えてくるという感じだね。
例えば、人は何故「二足歩行」なんだろうかって、今、考えていたりする。
ロボット工学なんかでも、「アシモ」っていうんだったか、開発には相当苦労をしたようだ。
孫のアオイちゃんが、そろそろヨチヨチ歩きを始めたところだけど、「子ども」の「育ち」を丁寧に観察できるのはありがたい。
三十数年前に、確かに二人の子どもの「育ち」を観てきたはずなのに、皆目、記憶が無い。
「ひと」以外に恒常的に「二足歩行」をする動物はいない。
「狼に育てられた子」という話があるが、どうやら、それは「虚偽」であるらしい。
赤ちゃんは、放っておいても「自然に」、二本の足で歩くようになるのだろうか。
実験で確かめるわけにはいかない話だけど。
「人類の起源」も様々な研究があって確定的なことは言えないようだが、おおよそ三百万年前くらいからアフリカを出発して全世界に移動していったということであるらしい。
てぇことで、多分、遺伝子のところで、「二足歩行」はプログラムされているのだろうと思われる。
「二足歩行」は「手」を自由にするのだから、「そのこと」が「大脳皮質」の発達を促すのだろう。
今のところ、ほとんど「喃語(なんご)」の段階だが、この段階からどんどん発達し始めるのだろう。
「ことば」を獲得していく過程を傍で観ていくのは、随分、勉強になると思われる。
「人間とは何か」、「子ども」の「育ち」は多くのことを教えてくれるに違いない。

ムスメがブログで「子育て日記」を書いているので、コメント欄にアドレスを貼り付けておこう。お暇な折には「訪問」をお願いしておきます。

なかなか更新が...

2011-09-25 15:10:56 | 日記
毎日、メールチェックはしているし、webページもあちこち覗いたり、facebookも読んでいたりするのだから、ブログの更新もコマメにできなくはなかろうと思うのだけど、また、自身も「話したいこと」は山ほどあるというところなのだけれど、いざ、「書く」段になってみると、「ことば」に詰まってしまうのだね。
「何か」について「書いてみたい」と思っても、その「何か」について、肝心なことが「分かっていないのではないか」という風に思われて、「思考停止」みたいな状態になってしまう。
そんなに肩肘を張らずに「軽い気持ち」で書きゃいいんだけど…

考えていることは、例えば「世界とこの国の政治的・経済的動向」とか、「物理学・生物学、ことに脳科学の現在」とか、「宗教について」とか、要するに「ありとあらゆること」、「人間とは何か」という風に言えば「ひと言」で済むような具合なんだろう。

17日のことだけど、伊丹で「ネパール・ダリット女性の反差別の闘いの報告」を当事者から詳しく聞く機会があった。
「困難な状況に置かれたダリット女性の現実」や、その中で20年近く闘ってきて、大きく前進を勝ち取ってきた話だったわけで、たいへん感慨深いものだった。
参加者の感想として、「差別に抗して闘う私たちに大きな勇気を与えてくれた」ということは全くその通りだったろう。
蛙は「三つの質問」をさせてもらった。
第一は「報告者の話されている<ことば>は何語なのか」ということで、これは「ネパール語」ということだった。
第二には「ダリット男性もまた同じように闘っておられるのか」だが、「勿論、共同で闘っている」という解答だったが、詳しくは語ってもらえなかった。
第三だけれど、「カースト差別はヒンズー教の教義に基づいているのだから、それとの闘いはどうなのか。例えば、インドでは『仏教への改宗運動』があるようで、ダリット出身のアンベトカルさんはガンジーの宗教的見地を批判しながら、国政レベルでも「インド憲法」の制定に力を尽くされたり、重要な活躍をされたと聞いている。彼の仕事では『仏教改宗運動』も大きなものだったようで、それを引き継ぐ形で、日本人の佐々井秀嶺さん、インド国籍を取られて現地名<アーリア ナーガルジュナ>といわれるそうだが、この『改宗運動』は重要な意味を持つと思うが、ネパールでは、ヒンズー教から仏教、或いはキリスト教・イスラム教などへの改宗運動などはあるのだろうか」という話。
通訳の方が、うまくこちらの想いを伝えていただけたかどうか、ということも思うが、答えはいたって簡単、「仏教者も女性差別・ダリット差別はするのだから『改宗運動』に大きな意義はあるとは思えない」ということだった。

その後、色々なことを考えていたりしたのだが、第一、「ネパール」という国について、蛙は皆目、何も知らないということを思った。
Webで調べられる限りのことは、調べてみたけれど…
それに、キリスト教にしたところで、「おんな」は「おとこ」の骨から作られたことになっているのだし、仏教だって、「女人禁制」という話もあるし、最も「女性差別」から縁遠いと言われる親鸞にしたところで、「六角堂参籠」での夢の告知で、救世観音が現れて「お前がどうしてもというなら、私が美しい女となって犯されてやろう」と言ったというのだから、これはもう「女性差別」の塊というほかない。なんで「犯す」ということになるのか。
だいたい、「歴史」が「文字」で書き記されるようになった時点からは、「文明」とか「文化」とかは、既に「男」が権力を独占してきたということなのだろうと思われる。

それにしても「ヒンズー教」は是非、やめにしてほしいと蛙は思うのだけれど…

2011-09-20 11:42:50 | 日記
ウチの方もたいへんな雨だけど、和歌山や奈良など、こないだの12号から受けた被害もまだ癒えぬ内のことだから、もの凄く心配だよね。
何よりも大切な「人の命」が失われることが無いように、ただ、祈るほかない、蛙にできるのはそれくらいのこと。
この国では、この時期、どうしても避けられない「台風被害」だけど、「被害を最小限に食い止める」という思想が、これまで「間違ったまま」きたのではないかと蛙は思う。
その昔、戦国大名とか江戸時代の各藩では「国を治める」一番の大事は「治山治水」だった。それらは「海・山・川」を含めて「総合的な視点」で考えられてきたと思う。
「信玄堤」は有名だし、今は思い出せないが、その時代の「先駆的な事業」の数々の記録をずっと以前に読んだことがあった。
「遊水池(地)」などという考え方は、狭い我が国であることから、捨てられてしまったのではなかろうか。
「人が住んではいけない」ところはあるのではないかと蛙は思う。

明治以降、「国富」と「欧化」が優先され、「経済効率一辺倒」で、この国の「自然」は荒廃してきた。
山は「建築資材」の供給ということで「不自然な人工林」になり、川なども「ダム」建設や「コンクリート」で固められてしまったり、とにかく「降った雨は効率よく素早く海に流してしまおう」ということだったんだろう。
ゼネコンだけが大儲けをする仕組みだった。
この国の支配層には「民衆の命」を思いやることなど、かけらすらない。

「自然災害」とは「上手に付き合う」、それ以外の手はない。
「上手に」付き合えば、それは「天の恵み」にさえなるはずだと蛙は思う。
「この国」ほど、「水資源」に恵まれた国はないのだし、手入れの行き届いた「里山」は、すべての生き物を豊かに守り、人々の心を安らいでくれるのだから。

にしても「人為」とは恐ろしいということを今回の「原発事故」では思い知らされた。
推進派に最も重大な責任があることは間違いないが、蛙を含めて、この国の全ての人もまた「大本営発表」のままに「それ」を差し止めることができなかったという意味では「罪無し」というわけにはいかない。

雨は、「海を汚す」ことにはなるが、「放射能」を洗い流し、大地を清める、そのために降っているのだろうか。

昨日の日曜日は...

2011-09-12 20:35:56 | 日記
昨日の日曜日は大層忙しかったです。
11時から「メリケンパーク・さよなら原発神戸アクション」に行きまして、2時からの「解放講座・上杉聡さんのお話」って学習会に参加、ここまでは単独行動でしたが、4時半くらいからムスメと孫のアオイちゃん(1歳1カ月)と一緒に「神戸アクション」のパレードに参加って具合でした。
午前中には河野太郎さんのお話も聞けましたし、「反原発・明石たこの会」のメンバーとも出会って、10・15の企画「ミツバチの羽音・・・」映画上映の取り組みの宣伝も協力をしてきました。
河野さんも言っておられましたが、「イベントに参加したりデモを行ったりするだけではたらない。一人ひとりの力を結集して、政治を変えて行かなければ・・」ということなのでしょうね。
上杉さんの話は、蛙が主張してきたことと大いに重なるところですが、やっぱり「問題」を「」を中心に据えてってことでしたから、彼の「本」を読んで、ちっと批判めいたことも書いておこうかなぁと思っているところです。
浦本君が、世界経済の現状とかこの「国」の「全体的な」視点で、とりわけ「若者の失業の状況」とかの辺りで、FBに色々書かれていたりしますが、蛙からは「ちょっとしたニュアンスの相違」はあるにしても、問題を「世界史の現実」の中に位置づけて考える、そういう態度には志を同じくするという想いはありますね。
まぁ、それがなかなか難しい話なのではありますが….

話すことは難しい

2011-09-10 17:40:51 | 日記
先週の土曜には、今回の東北大震災について考えてみようという趣旨で持たれたある集会の「分科会」で、「1.17 阪神淡路と結んで」という形で、2時間ばかり話させてもらったのだけれど、ICレコーダーで録ってきたのを聞き返してみて、「思うこと」の半分も「言うことができなかったなぁ」と、ちょっと落ち込んでいた。
これまでの経験から、百人を超える聴衆を前にして「あがる」というようなことはないのは分かっていたんだが、「講演形式」で話すことに慣れていない。
色々な集会に出て、色々な人の「講演」を聞いてきたが、例えば、辛淑玉さんなんかは、聴衆を「泣かせたり笑わせたり」、随分魅力的なお話をされる、ほかにも色んな人で、たいそう上手に講演をこなされるわけだけれど、やっぱり、背景に「どれだけ活動してきたか」、その「分厚さ」というものが、蛙の場合、決定的に不足しているということだろうか、など、思う。
人間としての「大きさ」かなぁ。
酒を酌み交わしながらじっくり腰を据えてってことなら、蛙の話も「なかなか『いいこと』を言うじゃない」って具合になると思うんだけど…
今回の場合、1.17と決定的に違うのは、その「範囲の広さ」(1対8くらいかな)であるだろうし、それに「津波」と「原発事故」が重なったから、たいへん困難な状況になっている。
「阪神・・」では、最初の2カ月で100万人、2年で140万人くらいボランティアが「救援活動」に当たってくれて、それだから「ボランティア元年」ということも言われたのだけれど、今回、半年を経過して20万人くらいだと言われている。
「講演レジュメ」に「全国都府県別人口・人口密度」の「表」をいれていたのだけれど、この「差」は、被災地の背景に当たる「地域」の人口の少なさもあっただろうし、何よりも「東北」へのアクセスの悪さにも起因しているのだろう。
この「表」はまた、「東京一極集中」などといったりするけれど、この「国」の「在り様」が、どれほど差別的構造を内包しているものであるかを物語るものでもある。
「原発立地」もまた、「それなしには立ち行かない」ような「地方」を生み出してきた「差別政策」の結果を露わに示している。

既に秋風は吹き始めているが、「ここ」の「冬」はどういうことになるのだろうか。
思う程に、身の凍りつくような不安に襲われるのは蛙だけではあるまい。