彼岸だというのに、まだまだ寒い日は続く。
地震の被災地は「寒の戻り」に震えながら、なお一層の苦悩が増すばかりのようだ。
それはそうだろう、僅かな希望の在り処さえ見えないというのであるから…
村井君たち、被災地NGOの先遣隊は、いつものことだけれど、一番に現地に入って「何が求められているか・何ができるか」そういう情報を収集中ということであるらしい。
一報では「宮崎・新萌岳」の火山爆発の被害を受けた地域の農産物を「多くの人々に買ってもらって」そいつを地震被災地に送り届けようというプロジェクトが始動しているようだ。
思うことはあまりに多すぎる。
蛙自身は「反原発運動」に直接的に関ってはこなかったが、多くの友人たちがこれまで随分な努力を払ってきたことはよく知っている。何十年も前から「地震国たる我が国」に「原発がどれ程危険なものであるか」は言われ尽くされてきている。
そして、そのことは、はしなくもこの度の地震によって「証明」をされてしまった。
「悲憤慷慨」というところか。
「真実」が必ずしも「全人」に支持されるとは限らない。
なんとなれば「情報の根幹」を握っているのは「支配階級」の側であるからだ。
東電にしろ関電にしろそれぞれの電源会社が「原発」について、これまで「全ての情報」を開示してきたかのかどうか、蛙は知らない。
今回の話では「想定の範囲以上」などといわれるが、スマトラ沖地震など、「震度9以上の地震」とか「とんでもない津波被害」は頻発をしていたのだから、IAEAからはその「想定の範囲」自体に疑問が付され、「対地震・津波対策」の「この国の対応策の不備」が強く指摘をされてきている。
今は、言ってみても始まらない「批判」や「非難」をおいておいて、とりあえず「求められる行動」に集中をしながら、中長期的なスタンスで「為すべき課題」について、これまでの「反原発運動」の踏み越えられなかった「限界」を「どのように超えていくか」、熟慮が求められているのだろうと蛙は思う。
基本は「原発はもう止めよう」ということ、それが「全人民的な理解」として「納得される」、そういう状況を作れるかどうかということ、目指されるべきことはそういうことであるのだろう。
思うことはあまりに多すぎる。
北アフリカについても、確かにあまりに長く続いた「独裁体制」が「崩壊」していくことは「理の当然」ということはあるだろう。
けれども「今」の「流れ」が正当なものであるかどうか、蛙には「それ」が分からない。
一般的にいって、「民衆の蜂起」は蛙の支持するところではあるが、アメリカを初め欧州の帝国主義的動向がこれらの事態を主導しているのではないかという疑念は拭えない。
「一切」が明らかになるには、更なる「時間」がかかるのではなかろうか。
いづれにしろ犠牲になるのはいつも圧倒的な民衆であるということに暗澹たる想いを禁じ得ない。
黒川みどりが新しい「本」を出したので読んでみたが、とりたてて注目すべきものではなかった。
明治から現在までの「被差別」に係わる諸問題を概括整理するという点では一定評価できるかも知れないが、藤田啓一の評価など、疑問な点は多くある。
彼女に対する批判というよりは、それを「きっかけ」として、現時点での「解放運動」について、これまでの「蛙の見解」の展開を繰り返すという形で、この後、すこし「シリーズ」として何本か書いておこうと思う。