続・蛙独言

ひとりごと

絶不調

2012-11-28 10:58:07 | 日記
今月は「最悪」だった。
前にもゆうたんだけど、風邪はひかない方だったんだ。
ほいでも、今回、殆ど一カ月近く咳と痰が酷くて、「引きこもり」状態だった。
市連協の会議とか、「脱原発・明石たこの会」の取り組みなど、どうしてもはずせないものには参加して来たけれど、すっかり活動レベルは底に落ち込んでいた。
一日も酒は欠かしたことが無かったのに、「飲めない日」だってあったんだからなぁ。

「週刊朝日」の件で、少しはブログにも書いてきたけど、もっと書きたいことはあったんだが。
「新シリーズ」も止まったままだし。

もう12月になろうとしている。
体調が戻れば、元気を出していきたい。

それにしても、蛙も最悪な日々だったが、外界も鬱陶しい状況は続く。

福島は忘れ去られてしまったかのような「政治状況」。

あきらめず、自分なりな方法で、頑張っていかなければなどと考えている。

「週刊朝日」のこと 5

2012-11-16 21:10:04 | 日記
現役時代は「風邪」で仕事をやすむようなことはなかった。
概して、風邪はひかないタイプだったと思うのだけれど「暇人」になったせいか、齢(よわい)70も近付いてきて体力とか免疫力とかがグンと落ちてきたせいか、今回のはちょっと回復が遅い。
咳とか痰とかが酷くて気分は落ち込んでいる。まぁ、それ程「重篤」ってことでもないが無理はできないなぁなんて考えていて「お家人間」を決めこんでいる。

http://publications2.asahi.com/index.html

上記アドレスから、「報道と人権委員会」の「見解」とか、それを受けての「週朝」のコメント、また、佐野眞一氏の「見解とお詫び」を読むことができる。あまりに長いものであるから、モニタで一読しても「なんだ、こりゃッ」って具合だったから、プリントアウトして何遍も読み返したりしている。(コメント欄からは直接クリックでいけるので、読んでおいていただけたらありがたい。)
この「文書」に対する蛙の「想い」は、またの機会にするが、小林健治さんがFBの方に以下の記事を上げておられていて、優れたものであると思うので、いささか長いけれど、以下にコピペしておく。

それと、本日発売の「週刊金曜日」も、今回の問題で「特集記事」が組まれていて、これも既に読んでいるが、こちらの方も、よくできているので、参照していただきたいと思う。

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小林健治
連載「差別表現」第67回

 今週も引き続き『週刊朝日』(10月26日号)問題について書く。前回、この事件をめぐるジャーナリズムおよび“朝日新聞的有識者”の見解について述べた。さらに今回は、週刊誌記事発売後に出された論評やコメントについて、問題点を指摘しておきたい。
 11月12日に朝日新聞社の第三者機関「報道と人権委員会」から『週刊朝日』問題についての「見解」と「経緯報告書」および「見解」を受けての朝日新聞出版代表・篠崎充氏と執筆者・佐野眞一氏の「見解とお詫び」が出された。
「見解」と「経緯報告書」には若干の誤解と事実認識のズレがあるものの、おおむね「了」とできる内容である。しかし、執筆者・佐野眞一氏の「見解とお詫び」には誠意が感じられない。このことについては、次号でふれたいと思う。
 今回は、第64回で上原善広のコメントを批判した中に、1965年の「同和対策審議会答申」について記したが、もう少しくわしく説明してほしいという声があったので、まずその質問に答えておきたい。

■同和対策審議会答申――差別は単なる観念の亡霊ではない
 第64回で、「……同和問題とは心の問題であり、精神の問題なのです」という上原の発言に対し、「1965年に出された国の『同和対策審議会答申』以下の、無知そのもの」と書いた。
「同和対策審議会答申」とは、1965年、佐藤栄作内閣の下に出された国の同和問題についての基本指針のこと。1960年から5年間にわたって審議されたこの「答申」は、前文に同和問題を「人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる課題である」と認識し、「その早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題である」と宣言した、画期的な内容を持っている。
 そして、「第一部 同和問題の認識」のなかで、次のように述べている。
「いわゆる同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においても、なおいちじるしく基本的人権を侵害され、とくに近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題である。」
「すなわち同和問題は、日本民族、日本国民のなかの身分的差別をうける少数集団の問題である。地区は、中世末期ないしは近世初期において、封建社会の政治的、経済的、社会的諸条件に規制せられ、一定地域に定着して居住することにより形成された集落である。」
 このように同和問題の本質を明らかにしている。そうして、次のように続けている。
「実に差別は、半封建的な身分的差別であり、わが国の社会に潜在的または顕在的に厳在し、多種多様の形態で発現する。それを分類すれば、心理的差別と実態的差別とにこれを分けることができる」
「心理的差別とは、人々の観念や意識のうちに潜在する差別であるが、それは言語や文字や行為を媒介として顕在化する。たとえば、言語や文字で封建的身分の賤称をあらわして侮蔑する差別、非合理な偏見や嫌悪の感情によって交際を拒み、婚約を破棄するなどの行動にあらわれる差別である。実態的差別とは、地区住民の生活実態に具現されている差別のことである。」
「このような心理的差別と実態的差別とは相互に因果関係を保ち相互に作用しあっている。すなわち、心理的差別が原因となって実体的差別をつくり、反面では実態的差別が原因となって心理的差別を助長するという具合である。そして、この相関関係が差別を再生産する悪循環をくりかえすわけである。
 すなわち、近代社会における差別とは、ひとくちにいえば、市民的権利、自由の侵害にほかならない。市民的権利、自由とは、職業選択の自由、教育の機会均等を保障される権利、居住および移転の自由、結婚の自由などであり、これらの権利と自由が地区住民にたいしては完全に保障されていないことが差別なのである。」
「以上の解明によって、差別は単なる観念の亡霊ではなく現実の社会に実在することが理解されるであろう。」
(『同和対策審議会答申』1965年8月1日)
「答申」においては、心理的差別と実態的差別を単純に割り切っていて、社会システムとして、つまり構造的差別の分析にまでは至っていない弱さを持つものの、この「答申」を闘いの武器として、戦後の解放運動が燎原の火のごとく燃え拡がったのである。
 ここに明言されているように、「差別は単なる観念の亡霊ではない」のである。つまり、「心の問題であり、精神の問題」などという「心の持ちよう」の問題ではなく、現実の社会に、意識(主観)とは独立して、客観的に「実在」する社会的差別なのである。

■有識者の困惑
 次に、『週刊朝日』の記事を支持ないし擁護した、少なくない有識者の困惑について書いていきたい。
「今回の件でジャーナリズムが萎縮し、被差別問題をタブーにしてはいけない」
「野中広務や松本治一郎の人物像を描くときも被差別問題にふれることはダメというのか」
「出版・言論・表現の自由の抹殺につながる危惧を持つ」
 このような意見が、支持・擁護する人たちに散見されるが、これらの考え方の誤謬(ごびゅう)について見ていこう。

○誤謬その<1> 「今回の件で被差別問題がタブーになってしまう」
 はじめに断っておくが、永い間、問題(差別)をタブーにしてきたのはマスメディアの方であって、なにか書いたり表現したときには、たいてい“悪の代名詞”的に「特殊」などの差別語とともに語られ、記事化され、表現されてきたという歴史的事実を忘れてはならない。
 多くの場合、解放同盟の抗議・糾弾によって、記事や報道の差別性が明らかになり、その取り組みによって、1970年代にやっと差別の実態が可視化され、記事になり、報道されてきたのであって、その逆ではない。
 週刊誌に限って言えば、戦後、最初に問題を取り上げ、特集を組んだのは連載第63回でも書いたように、奇しくも『週刊朝日』(1956年9月)の「を解放せよ――日本の中の封建制」である。
 たしかに嚆矢(こうし)ではあったが、この特集にしても、その年(1956年)の1月に起きた朝日新聞本紙差別表現事件糾弾(*)を受けてのことであった。
  (*1956年1月、小説家の石上玄一郎が本紙文化欄に書いた「文壇には、特殊的偏狭さが満ち満ちている」と記述した)

 自主的に問題を誌面化したのは、当時100万部の発売数を誇っていた『週刊ポスト』の「差別 許すまじ!」(89年9月22日号)の特集であったことは、関係者の知るところである。
 その後、1990年代に『週刊ポスト』のみならず『週刊現代』、『週刊文春』そして、月刊誌上でも、幾度も問題が取り上げられている。もちろん、その間にも差別表現事件で各社とも抗議を受けているが、上記の週刊誌の積極的な姿勢は、現在も続いている。
 当然のことであるが、問題(差別)を真面目に取り上げ、記事にし、報道しても、賞賛されこそすれ、抗議されることはない。他方、今回の『週刊朝日』や上原善広のように、差別記事を書けば抗議・糾弾され、社会的制裁を受けるということである。
 要は、なにを書いても“タブーに挑戦”として許されると考えている一部のジャーナリスト、さらに有識者の知力の低下と思想的劣化にこそ、問題の本質がある。
「今回の問題で、ジャーナリズムが萎縮して問題にふれられなくなってしまう」というのは、杞憂にすぎないし、現に多くのメディアが今回の問題を取り上げ、積極的に紙(誌)面を提供している。

■『週刊朝日』差別記事事件によって、あらわになった「知識人」の思想的劣化
 今回の事件で特徴的なのは、『週刊朝日』の記事の評価をめぐって、一部の文化・知識人とジャーナリストの思想的劣化が、逆に“現象化”し、“可視化”されたことだろう。
 その特徴的な出来事が、上原が2011年『新潮45』に書いた差別記事「『最も危険な政治家 橋下徹研究』 孤独なポピュリストの原点」に“編集者が選ぶジャーナリズム賞”が与えられたことだ。
 問題や差別の現実を、特定の地区や個人の名前をあげつらうことなく、一般的に書くことは、いくらでもできる。個別具体的に地区名や個人名が特定される場合には、格段の配慮をもって、まずは当事者に直接取材し、その許諾を得て記事にし、報道すべきなのは、差別問題、人権問題を対象とする場合、当然の取材姿勢だろう。手抜きしたり、手続きを踏まえない安易な報道、それも“差別を商う”かのごときの感覚で、誌(紙)面化すれば、社会的な指弾を受けるのは避けられない。
 くり返し言っておくが、今回の事件で問題がタブー視されることはない。それは浅薄なジャーナリストと有識者なる人のたわごとにすぎない。より真っ当な記事と報道は現にふえていることが、それを証明している。
[以下次週]


「週刊朝日」のこと 4

2012-11-05 15:26:59 | 日記
「強くなければ生きてはいけない。優しくなければ生きる値打ちはない。」

読んではいないけれど、レイモンド・チャンドラーのハードボイルドに登場するフィリップ・マーロウという探偵の台詞らしい。
蛙は、確か、高倉健の何かのコマーシャルで、この台詞に出会ったように思う。
以来、随分気にいっているわけだ。

「人の値打ち」というものは、「彼」が「何を言うか」ではなく「何をするか」で判断されなければならない。
橋下徹という男は、実際、「中身が空っぽ」だと思うが、ただ、「機を見るに敏」であるから、この「鬱屈した世情」の中で「何を言えば人気が取れるか」ということが「よく分かっている」し、「中身が空っぽ」だからこそ「変わり身」もまた素早い。

この男をどんなに口汚く罵っても、褒められた話ではないが是とすべきだろうと思われる。
だとしても、この際、何を思って「その出自」を引き合いに出したのか、多分、週刊朝日も佐野眞一も「」の「何たるか」を皆目理解していないばかりか、重大な偏見を抱いているという、紛れもない証左なのであろう。

橋下批判は多くの人々によって語られてはいるが、蛙はそれらについて一々目を通してはいるわけではない。
腐りきったマスコミ連中が「売れたら万々歳」といった体でもてはやしているに過ぎないのであるから、さして生産的でもなかろうと思っているからだ。
最近、読んだところでは香山リカの「『独裁』入門」(集英社新書)は精神科医という専門的な立場からする批判でもあり、この男を理解する上で心得ておくべき内容を明らかにしてくれていて随分参考になると思った。

「週朝 10・26号」の「緊急連載」は、そのセンセーショナルな売り込みにもかかわらず、橋下からの抗議に屈するという形で、唯の一回で「中止」ということになった。
これは異例のことなのだそうだ。
反吐が出そうな記事を目にしなくてもよいという意味では「よし」としなければならないが、このままでは「について発言するのは危険だ」という、いかにも馬鹿げた趨勢を残してしまうことになるのであるから、今後の「取り組み」は極めて重要な課題になるだろうし、そうでなければならないだろう。

同盟中央からは「抗議文」が出されて、最新の「解放新聞」にも掲載されているが、この後、どう言う風に取り組むかは今のところ明らかにされてはいない。
浦本さんからは「公開質問状」が出されたが、回答には「時間を貸してほしい」という段階なのだろう。
小林健治さんがfacebookで書かれている記事は注目に値するので、是非、読んでほしいと思う。

「週朝」の側は、「連載中止の決定」と「不適切な表現があった」ことに「謝罪」を表明したわけだが、朝日社内の「報道と人権委員会」という学識経験者で構成された組織に「検討を依頼する」ということで、「逃げ」をうってきている。
主体的な取り組みの放棄ということであるから、許し難いと言わざるを得ない。

そもそも、この「顛末」は、小林健治さんが言う通り「新潮45」の上原善広の論稿がもたらした結果であるわけだが、その後の「週刊新潮」「週刊文春」の問題記事にもきちんとした批判がなされず、曖昧なままに放置されてきたことに起因している。
蛙にも一端の責任はあろう。
佐野と「週朝」は、「そうであるが故に」、こういう企画も「稀代の悪役を吊るしあげる正義の論陣」として評価されるとでも考えたのではなかろうか。

小林さんは「上原は糾弾されなければならない」と主張されている。
蛙にも異議がある訳ではないが、上原の誤謬が奈辺にあるかは考えてみる必要があるのではないかと思う。

「蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘る」ということばがある。
人は誰でも自身の「立ち位置」からしか「ものを観る」ことができないということが往々にしてある。
蛙も「そういうこと」を自身への「警句」としておいておかなければならないと常々考えているのだ。
上原の場合、「差別が裏に回って陰湿に地下に潜り込むよりは、今回の『週朝』の記事のように表だって論じられることはよいことだ」という風な考え方なのだろう。
確かに一理はある。
あるにはあるが、「被差別民」の全ての人々に、上原などと同じような等質性が保たれているのかといえば、そんなことはあり得ない。
解放運動に積極的に関わり、或いはそうでなくとも、潰れそうになりながらでも「それ」を撥ね返し、その中で鍛え抜かれてきた人間ばかりなら、上原の「理屈」は通るかも知れない。
そうではないのだ。
「被差別民」と、そうでない人でも「」に好意的な言動を為して「そうであるかのように看做される」人々は、「いつでも、どこでも」差別に遭遇する、実際の世の中では、そのようであるのだが、圧倒的多数は、「何故差別されるのか」が分からず、理不尽な処遇にあって潰されてしまうことがあるのであり、極端な場合、自死ということに結果することさえあるのだ。
それでも上原は「差別が振り撒かれることがあるとしても裏に潜ってしまうよりはいいことだ」と言うのか!

自身の「立ち位置」からしか「ものごと」を考えることができない典型的な事例というべきだろう。

「サンデー毎日」の11・11号が今回の問題で「被差別問題を読み解く」と題して4頁にわたる記事を掲載している。
浦本さんが取材を受けての記事ということで読んでみた。
だいたい、週刊誌など、あまりに低俗過ぎると思っていて買って読むなどということは殆ど無いのだけれど、この記事では「現にある『差別』の事例の紹介と、『差別はいけませんよ』と『声を上げ続ける』しかないのでは」といった内容で、実に詰まらないものでしかなかった。
ブログ「ストーンリバー」でもこの記事への不満が綴られていた。
「」が語られる場合、マイナスイメージばかりが強調され過ぎている、もっと積極的で清新な取り組みは現実にあるのであるから「問題解決に向けたメッセージ」が報道されるべきではないかというようなことだった。
それには全く異議ない。
ただ、豊中や大阪の幾つかの事例はそうなのだろうけれども、神戸もそうだが、全国的に見ても、その「旧態依然」たる活動スタイルでさえ思うに任せぬ進み具合なのだということもあるのではなかろうか。

苦悩は深い。

それでも、と、蛙は思う。

「強くなければ生きてはいけない。優しくなければ生きる値打ちはない。」

誰もがそのように思うのであればどんなによいだろう、と。