「人権」とか「問題」とかのテーマでfacebookの方の「やりとり」があって、浦本さんが以下のように書かれていたのですが、蛙の考えと同じようなので引用をします。
( )内は蛙が追加したものです。
<私は(差別問題について大切なことは)知ることだと思います。ようするに族でも、種でもなんでもいいけど、要するに具体的に知ることです。
例えば、私は民ですけど、のルーツなんか知らないし(部落史研究者でありながら)全く関心がない。なぜかと言うと、私の中でというのは、あくまで自分が生きてきた人生であって、歴史や文化、あるいはイデオロギーじゃないからです。僕にとっては、ものすご〜く具体的な自分の体験であり、自分の人生の思い出の一つ一つなんですね。だから、それが遡ったらどうだこうだとか、そもそもルーツは何だとか、全くどうでもいい。ただ、自分がこれほど具体的に係わってきたものを、少なくとも踏みつけられたくないし、軽く無視もされたくない。なぜって、そうされたらそれは私の人生そのものの根本的な否定だから。
人間って、一人一人違うでしょう? 同じ人生は一つとしてないですよね?
だから、私たちは違うんだってことをもっと大切に考えなくてはいけないと思うし、全ての人生について、学ぶんだ、知るんだ、っていう気持ちをなくしたらダメなんだと思うんです。「全てのものは違う。そして、およそこの世にあることで、『知らない』と言ってすましてよいことなんかただの一つもない」というのが、私が48年間生きて来て得た最後の結論ですね。>
「差別」という言葉は仏教用語からきていて、その場合は「シャベツ」と読むようですが、その意味では「森羅万象、全て存在するものはそれ自身として輝いている独立した存在である」ということになります。
コインの裏表というような関係で「平等」というのがあって、「真理に照らしてみれば、それらは皆、同等に大切な存在なのである」ということになる。
金子みすず風にいえば「みんなちがって みんないい」って話になるのかなぁ。
蛙も浦本さんと同じく「被差別民」なわけですが、彼の場合「連続大量差別はがき事件」という本を読んでいただくとどれほど凄まじい差別攻撃がなされ、どのように解決が目指されてきたかが分かります。
一般に、それぞれの「民」にとって「差別と出会う」場面にはおおきな軽重の差がありますが、その「個人」にとっては、やりきれない程に、とても重いものなのです。
蛙の場合、今思えばたったそれだけのことで、などと思ったりもするのですが、やっぱり「死のう」と思った日がありました。
当時は「問題」についてしっかりした考えもなく、ただただ、うろたえるばかりでした。もう半世紀も前になりますが。
差別する側は、「何も知らないで皆がそう言っているから」くらいなのです。
「こんな悪いことをするのは民に違いない」などと考えて、酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)事件の少年Aやオームの麻原なども、実際には何の関係もないのにが引き合いに出されたりもしました。
結局のところ、人がお互いを尊敬しあい、お互いを大切にしていく、そういうことが当たり前なこととして生きていく態度に皆がなれば、差別問題など雲散霧消するに違いありません。
それが何故、そのようにならないか、引き続き、このブログで考えていきたいと思っています。
( )内は蛙が追加したものです。
<私は(差別問題について大切なことは)知ることだと思います。ようするに族でも、種でもなんでもいいけど、要するに具体的に知ることです。
例えば、私は民ですけど、のルーツなんか知らないし(部落史研究者でありながら)全く関心がない。なぜかと言うと、私の中でというのは、あくまで自分が生きてきた人生であって、歴史や文化、あるいはイデオロギーじゃないからです。僕にとっては、ものすご〜く具体的な自分の体験であり、自分の人生の思い出の一つ一つなんですね。だから、それが遡ったらどうだこうだとか、そもそもルーツは何だとか、全くどうでもいい。ただ、自分がこれほど具体的に係わってきたものを、少なくとも踏みつけられたくないし、軽く無視もされたくない。なぜって、そうされたらそれは私の人生そのものの根本的な否定だから。
人間って、一人一人違うでしょう? 同じ人生は一つとしてないですよね?
だから、私たちは違うんだってことをもっと大切に考えなくてはいけないと思うし、全ての人生について、学ぶんだ、知るんだ、っていう気持ちをなくしたらダメなんだと思うんです。「全てのものは違う。そして、およそこの世にあることで、『知らない』と言ってすましてよいことなんかただの一つもない」というのが、私が48年間生きて来て得た最後の結論ですね。>
「差別」という言葉は仏教用語からきていて、その場合は「シャベツ」と読むようですが、その意味では「森羅万象、全て存在するものはそれ自身として輝いている独立した存在である」ということになります。
コインの裏表というような関係で「平等」というのがあって、「真理に照らしてみれば、それらは皆、同等に大切な存在なのである」ということになる。
金子みすず風にいえば「みんなちがって みんないい」って話になるのかなぁ。
蛙も浦本さんと同じく「被差別民」なわけですが、彼の場合「連続大量差別はがき事件」という本を読んでいただくとどれほど凄まじい差別攻撃がなされ、どのように解決が目指されてきたかが分かります。
一般に、それぞれの「民」にとって「差別と出会う」場面にはおおきな軽重の差がありますが、その「個人」にとっては、やりきれない程に、とても重いものなのです。
蛙の場合、今思えばたったそれだけのことで、などと思ったりもするのですが、やっぱり「死のう」と思った日がありました。
当時は「問題」についてしっかりした考えもなく、ただただ、うろたえるばかりでした。もう半世紀も前になりますが。
差別する側は、「何も知らないで皆がそう言っているから」くらいなのです。
「こんな悪いことをするのは民に違いない」などと考えて、酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)事件の少年Aやオームの麻原なども、実際には何の関係もないのにが引き合いに出されたりもしました。
結局のところ、人がお互いを尊敬しあい、お互いを大切にしていく、そういうことが当たり前なこととして生きていく態度に皆がなれば、差別問題など雲散霧消するに違いありません。
それが何故、そのようにならないか、引き続き、このブログで考えていきたいと思っています。