小林よしのりが「ゴーマニズム宣言」を書き始めた最初の頃、「差別論スペシャル」と題して「差別問題」を取り上げたことがあった。
蛙からはたくさんの疑問符のつく内容だったが、まだ「この頃」はそれ程の右旋回をみせてはいなかったと思う。
その後、西部邁や藤岡信勝などから持ちあげられたり、衝突をしたり、すったもんだがあったんだが、この辺りで小林は自分のことを「思想家」かなにかのように勘違いし、のぼせあがってしまったようだ。
この「差別論スペシャル」は随分以前に買って読んだのだったが、どこに行ったか、今は見当たらない。
この「本」の中で、組坂さんだったか小森さんだったかの話が取り上げられていた。
曰く、「スポーツの世界でも芸能界でも一流どころには出身者が大勢いる」と。
彼等はその「出自」を「ハンデ」として人一倍努力をして成功していったのだといった話だった。
他にも政治の世界でも国会をはじめ地方議会の議員や政令指定都市の首長などなど、数え上げればきりがないだろう。
ただ、彼等はその「出自」を自ら明らかにはしない。
蛙の主義からはそれでいいということになる。
蛙の祖父も父も「自身の力を付けていけば差別など恐るるにたりない」ということだったのだと思う。
それだから、蛙もその兄弟姉妹も、我が家の教育方針に従って「十分な力」をつけてもらうことはできた。
結局のところ、蛙は、それだけが理由ではなかったのだけれど、「差別」に出会って「潰れて」しまう。
二十歳の時のことだ。
今から思えば馬鹿げたことだが「カッコよく死ねたらいい」などと思って、折から盛り上がっていた「新左翼運動」の、機動隊との激突の最前線にいたりした。
「そこ」でも死にきれずに彷徨って時が過ぎていった。
ずっとムラから離れて暮らしていたが、「自身はなにものであるか」、原点に帰って、ということで蛙を育ててくれたムラに戻る。
27歳になっていた。