続・蛙独言

ひとりごと

「どこ」から来て「どこ」へ行くのか 4

2014-06-27 11:01:41 | ひとりごと

小林よしのりが「ゴーマニズム宣言」を書き始めた最初の頃、「差別論スペシャル」と題して「差別問題」を取り上げたことがあった。

蛙からはたくさんの疑問符のつく内容だったが、まだ「この頃」はそれ程の右旋回をみせてはいなかったと思う。

その後、西部邁や藤岡信勝などから持ちあげられたり、衝突をしたり、すったもんだがあったんだが、この辺りで小林は自分のことを「思想家」かなにかのように勘違いし、のぼせあがってしまったようだ。

この「差別論スペシャル」は随分以前に買って読んだのだったが、どこに行ったか、今は見当たらない。

この「本」の中で、組坂さんだったか小森さんだったかの話が取り上げられていた。

曰く、「スポーツの世界でも芸能界でも一流どころには出身者が大勢いる」と。

彼等はその「出自」を「ハンデ」として人一倍努力をして成功していったのだといった話だった。

他にも政治の世界でも国会をはじめ地方議会の議員や政令指定都市の首長などなど、数え上げればきりがないだろう。

ただ、彼等はその「出自」を自ら明らかにはしない。

蛙の主義からはそれでいいということになる。

蛙の祖父も父も「自身の力を付けていけば差別など恐るるにたりない」ということだったのだと思う。

それだから、蛙もその兄弟姉妹も、我が家の教育方針に従って「十分な力」をつけてもらうことはできた。

結局のところ、蛙は、それだけが理由ではなかったのだけれど、「差別」に出会って「潰れて」しまう。

二十歳の時のことだ。

今から思えば馬鹿げたことだが「カッコよく死ねたらいい」などと思って、折から盛り上がっていた「新左翼運動」の、機動隊との激突の最前線にいたりした。

「そこ」でも死にきれずに彷徨って時が過ぎていった。

ずっとムラから離れて暮らしていたが、「自身はなにものであるか」、原点に帰って、ということで蛙を育ててくれたムラに戻る。

27歳になっていた。


「どこ」から来て「どこ」へ行くのか 3

2014-06-18 13:07:26 | ひとりごと

蛙が考え違いをしているのかも知れないが、「明治」以前、民衆の命がけの抵抗闘争はいくらでもあった。

むしろ旗を掲げての百姓一揆などなど、首謀者は死を覚悟の上で闘ったのだろう。

「明治」以降、大衆的な闘いもあったにはあったが、この「死を覚悟の上」ということは一度もなかったのではないだろうか。

例えば「60年安保」にしたところで、指導部にそんな「覚悟」はなかったし、あの「血のメーデー事件」などでも、そもそも「指導部」などというものがなかったようにさえ思われる。

「明治」以降は、大衆の抵抗闘争の牙が打ち砕かれる時代だったのだ。

「それ」は「何によって」可能となったか。

あきらかに「学校教育」がその役目を果たしたのだ。

戦前では「教育勅語」を筆頭に、教育とはおよそ似つかわしくない「身体そのもの」を含めての「洗脳」が行われたのだったし、戦後にしたところで、「民主教育」とは名ばかりの「画一化」が目指されてきただけのことだったのだ。

どこの世界に子どもたちに「軍服」を着せてする「学校教育」などというものがあっただろう。

「学生服」とか「セーラー服」とは「軍服」に他ならなかったのに、おおよそ「そのこと」に疑問を挟む教育者はいなかったのではないか。

「丸刈りは厭だ」とか「服装の自由化」とか、部分的にはそういうこともなかったわけではないが、それは全体化することはなかったし、第一、「それ」が国家の教育統制への反抗と考えられることは殆どなかった。

「8月15日」を「終戦記念日」と呼び、天皇と軍部と民衆の「戦争責任」をはぐらかしてきた結果という外ない。

蛙は、現実的展望など皆目無いけれど、これまで、「学校は解体されなければならない」と言ってきたことは、そういうことだ。

 

そのような「学校教育」のなかで、小中高と、蛙はどこでも「トップクラス」の成績を修めてきたことを苦渋の想いをもって振り返っている。

自分にはそんなつもりはなかったように思うのだが、どうしても「他者を見下ろす」ような姿勢が自身の内に培われてきたように思えて仕方がない。


「どこ」から来て「どこ」へ行くのか 2

2014-06-12 10:50:51 | ひとりごと

祖父についての記憶はほとんど無い。

奥の座敷で、ずっと寝込んだままだったように思う。

前稿でゆうたように「それなりに裕福な家と『無産の民』の二層分解」があったように思われるが、祖父の家はムラ内では大きな方だった。

長屋も持っていたようで、蛙は祖父の家の裏側の長屋で生まれている。

1945年の4月のことだから「戦中派」かもだが、勿論、戦争についての記憶などありようもない。

近くに「川崎航空機」の工場があったから空襲も6月、7月には相当厳しいものがあったらしい。

何遍も聞かされた話だが、防空壕の中で大きな声で泣くものだから、祖父が「Bに聞こえるやないかッ!」と怒って叩かれたりしたのだそうだ。

同級生の中にはこの時の空襲で二親を亡くした子もいた。

祖父は蛙の父親を筆頭に五人の子どもを育て上げた。

生業は商売で、酒・煙草などの専売品と野菜とか豆腐とか、惣菜などを扱っていた。

祖父がどんな苦労をしたのか、聴けてはいない。

蛙が小学校に上がる頃、父はムラの本通りに居を構えて、「米屋」を始めている。

「食管法」の時代だから、「米穀通帳」などの管理もしていたから、「ヤミ米屋」と違って経営は難しいこともあったのではないかと思う。

「米」の他に「薪炭」とか「氷屋」もやっていたりした。

小学校の高学年くらいから「配達」も蛙の仕事になった。

今ほど車が多い時代でなかったから、「配達」は、中学くらいには無免許でバイクに乗ってしたりもしている。

ウチの手伝いをしていて、いつも人に頭を下げていなければならない「商売人」には決してなるまいと思ったものだ。

 

父は、弟たちが立ちいくように、二男には「清涼飲料水(ラムネとかアップルとか)」の製造・販売を、三男には祖父の代からの酒屋・八百屋を、四男は川重の社外工をさせたりもしている。

皆、それぞれ苦労をしたのだろうが、死んでしまったので話が聞けていない。

 

蛙が解放運動に関わる様になってから初めて聞いた話がある。

二男が継いだ「清涼飲料水」の製造・販売はもともと父が始めたのだったが、商売敵から「エッタの水が飲めるかいッ!」などとふれ回られて、近所では商売ができず、随分遠くまで「運搬」と呼んでいた自転車で、販路を求めなければならなかったという。

 

親の苦労など露知らず、蛙は勝手気ままに成人をしていった。


「どこ」から来て「どこ」へ行くのか 1

2014-06-04 14:25:10 | ひとりごと

蛙の住んでいるムラは1500世帯ほどもある大層大きな「被差別」なのです。

これまでも書いてきましたが、昔からこれほど大きかったわけではありません。

「明治」の初年には30世帯くらいだったようです。

それが50倍になっている。

神戸で一番大きなは番町ですが、ここも「明治」の初年には100世帯くらいだったのが30倍くらいに膨れ上がりました。

「ものの本」によれば、おおよそ中国・四国あたりの「被差別」からの流入と考えられているようですが、それなら「その方面」の「」の顕著な人口減が確認されてもよさそうに思います。実際にはそのような話はない。

「明治」の初め、この国の人口はおおよそ3000万でしたが、現在1億2000万くらいでしょうか。4倍くらいなものですね。

それだから、とても「自然増」ということにはなりません。

資本主義の「発展」にともなってする「人口の都市集中」という以外に考えることはできません。

神戸はそのように「人口」を吸収してきたのです。

それだから、もともと「」身分であった人間は極めて少数なはずです。

蛙の場合、4代くらいまで遡れるので、「生粋」の「民」なのでしょう。

ウチのムラを起点に放射線状に「」ムラが配置されていますが、これは江戸時代、明石藩の下級「司法警察」機関として置かれたものと考えられます。

支配者側の都合のいいように「治安」保持を担ったのですから、近隣の人々から疎まれたのは想像に難くない。

ムラの人々は誇りをもって任務に励んだのでしょう。

蛙は自身のムラの歴史を丹念に調べ上げるつもりはありません。

確認をしておきたいことはムラと近隣地区との対立関係がずっと尾を引いたということだけですね。

資本主義の発展に伴って「零落」した人々がムラに吸収されていき、それなりに裕福な層と「無産の民」との二層構造ができあがったようです。

「大正」末期から「昭和」初年にかけて、「水利権」を巡って大きな闘いが取り組まれました。

当時、人口増に伴って、明石市が急増する水の需要を賄うために「井戸」を掘削したのでしたが、それまで豊かな水量を保っていた蛙のムラの井戸が全部干上がってしまうということがあったのです。

当時、ムラの主だった人々が中心になって、この「水利権」の補償を求めて闘ったわけですが、京都大学の地質学者を招聘しての裁判闘争になった。

「井戸が干上がった」原因は明石市の水源地用井戸・掘削にあるとして闘われたわけで、裁判は和解に持ち込まれました。

この時、井戸が干上がったのはウチのムラばかりではなく近隣のいくつもの村落もまた被害を受けていたわけで、こちらの方は金銭の補償で決着しています。

ウチのムラは、近隣の決着を横目になお粘り強く闘いを継続し、永続的な「水の補償」を勝ち取って「簡易水道」を敷設させるという完全勝利を勝ち取ったのでした。

上限はありましたが、ムラの人たちは生活に必要な水を長く「タダ」で使うことができました。

これを解消したのはごく最近のことで、解決一時金として「一億円」を明石市から出資させ、現在、「基金」として管理しているところです。

この闘いの「顕彰碑」が公民館にありますが、蛙の祖父も名を連ねています。

ここでは確認しておかなければなりませんが、ウチのムラでは「差別に負けて悲惨な生活を余儀なくされている」という状況ではなく、行政と対等に戦える智慧と勇気と力を持つ人々がいたということです。

ただ、この時期は、運動が大きな力を持っていた時代だったわけで、神戸は全体として「融和主義」的な運動でしたから、蛙のムラの勝利も「運動から隔離する」ための妥協であったのではないかと蛙は想像しています。


古い記事 再録

2014-06-03 10:06:22 | ひとりごと

「続・蛙独言」をUPし始めて5年ばかりになるのだが、「無料」で提供されているブログなので、古い記事を読むのはたいへんなんだ。

で、一番古い記事を再録しておこうと思う。

特に『名前』については、最近、読んでくれている方には、是非、ご理解をお願いしたいからだ。

 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「田所蛙治」宛で郵便物は届いていたのだけれど、「郵便事業自由化」ということで、宅配の業者の参入ということになって、こちらのは「送り主」に返送されてしまうようになった。
「札幌自由学校『遊』」の「準会員」になってるんだけど、これは「クロネコ便」を使ってて、「本名」の方も併記して「○○方」っていう具合にしてる。
「ここ」の取り組みはとても素敵で、勉強になるんだけど、まさか神戸から札幌にはおいそれと行くわけにいかない。
残念なことだけどね。
「ここ」から送られてくる「資料」は随分勉強になるから、年間3000円の会費で「準会員」登録するのはお薦めだ。

2004年の12月、旧ブログ開設の折に「名前について」ということでUPしたのを再録しておこう。

 ぼくが「田所蛙治」という名前を名乗ったのはもう30年以上も前のこと。

 当時、ベトナム戦争は凄惨な状況を極めていた。

 ぼくは為す術もなくウロウロしているばっかりだったけれど、そして結局何かができたわけではないけれど、「考え得ること」はやってきたと思う。
 立ち止まったことは一度もない。

 その頃の中心メンバーのひとりだった吉川さんのHPは

http://www.jca.apc.org/~yyoffice/

 今も現役の最前線でご活躍中だ。

 チェ・ゲバラは「第2、第3のベトナムをッ!」って叫んでいた。

 この時のスローガンに「ベトナムはベトナム人の手にッ!」というのがあった。

 今なら「アフガンはアフガンの人々の手にッ!」「イラクはイラク人の手にッ!」ということになる。(民族問題など複雑な状況もあるから単純にはいかないかも知れないけれど)

 「田所蛙治」はこのスローガンの翻訳ということだ。
 「田んぼは蛙にッ!」ってわけ。

 「蛙」についての「思い入れ」が、ぼくにはあった。

 芥川龍之介の「河童」では、河童は「お前は蛙だッ!」という「差別的言辞」を吐かれて、悩み苦しみ、ついには「死」に至ることになる。
 高校生の時に読んだのだ。

 当時のぼくにとっては「蛙」は「エタ」に当たる。

 「そこ」を突き抜ける「思想」が若かったぼくには必要だった。

 うまく「想い」は表現できないが、「田所蛙治」という名前は、ぼくにとっては相当重い意味がこめられている。

 サッカー人気の中で、小中生の中には韓国プレイヤーの名前も浸透してきている。
 今では、在日の3世・4世が「二つ名前を持っている」ことについて、若い世代に「かっこいいじゃんッ!」という雰囲気もあると聞いた。

 けれども、当事者にとって「本名を名のる」ことは今でもたいそう重い。

 「アイヌモシリ」でも「ウチナー」でも「チョソン」でも、「名前」は「日本国」の権力によって奪われてきた。
 「名前」を取り返すこと、「文化」を奪い返すこと、それらは重要な課題であるだろう。
 「千と千尋」でも、支配は「名前を奪われる」ことで貫徹をされ、「名前」を取り戻すことによって「自由を奪い返す」ことが可能だったというテーマも重要な伏線として置かれている。

 それだから、「ハンドル」とか「ペンネーム」などと「ヤワ」な話は「やめてくれッ!」ということも分からないではない。

 けれどもちょっと待って欲しいとぼくは思う。

 「名前」とは何だろうか。

 親は我が子の誕生を言祝(ことほ)ぎ、その生涯に「幸多かれ」との「想い」を込めて「命名」をするのだろう。

 けれども、それは「戸籍」に登録をされ、「支配の枠組み」に組み込まれていくことでもある。

 「名前」なんて「識別記号」に過ぎないとぼくは思う。

 昔、「幼名」というものがあって、「元服」の折に「名乗り」があったのではないかとぼくは思っている。

 それだから、誰もが、自由な意志で「自分の名前を選んでいく」、そういう風になればどんなにいいだろうと思うのだ。