続・蛙独言

ひとりごと

新連載 2

2015-05-30 09:54:43 | ひとりごと

蛙が尊敬をしている人の一人に花崎皋平さんがいる。

Wiki記事は以下の通り。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B4%8E%E7%9A%8B%E5%B9%B3

 

もう84歳になられるのだから、最前線での活動からは身を引かれているのだろう。

どの程度の規模かは分からないが、畑作をしながらの質素な生活を送られているらしい。

時折、さっぽろ自由学校「遊」での勉強会のチューターなどもやられているようだ。

「遊」の取り組みはとても素敵なので、蛙も年3000円を払って、賛助会員になっている。

ここの取り組みは勉強になることが多い。

「通信」を送っていただいているが、何せ、北海道は遠いから、一度もお邪魔したことがなく、とても残念に思っている。

花崎さんは「遊」の設立に大きく関わっていて、アイヌの人権問題が中心に据えられていたり、キューバ映画の上映運動など、彼の思想の影響が、多々、見てとれる。

花崎さんの著作もたくさん読んでいるが、その活動履歴からして「問題」と出会うことがなかったようで、直截、「問題」を論じられているようなことはない。

ただ、「アイデンティティと共生の哲学」からは多くのことを学ばせてもらった。

この本はただ今、貸し出し中で、どこにそんなことが書いてあったか、表記できないが、例えば「マイノリティとマジョリティの関係が非対称であること」とか「差別の挙証責任をマイノリティの側に求めることは理不尽である」といった文章があって、このことは蛙の「問題についての考え方」の根底に据えられることになったと思う。

 

いつだったか、辛淑玉さんと話していた時に、「花崎さんのオツレアイはアイヌの人なんだよねぇ」と聞いたことがあった。

本人に確かめたことではないけれど、色々の情報から蛙が勝手に想像している話を書いておく。

彼が若かった頃、付き合っていた女性から「あたしはアイヌなんです」と告白されて、「そんなこと、なんでもないんじゃないか」と答えたところ、彼女に泣かれてしまった。

そこから、彼はアイヌが置かれている現実をつぶさに考えさせられ、自身の不明を恥じることになる。

伊達火力発電所建設反対闘争には多くのアイヌの人々も立ち上がってきていた。

こういう話が彼のその後の闘いの方向を決めることになったようだ。

 

付き合っている相手から「自分は出身なんだ」と告げられて、「そんなことが何か問題にでもなるのか?」という応対はよく聞く話だが、これは告白した側には耐えがたい苦痛をもたらすということは理解をされることがない。

勿論、そのまま二人が幸せな結婚ということになることもあるが、この後、手ひどい結婚差別事件に至ることも少なくはない。

「一緒」になれてからも、お互いに「問題」の理解がないがしろにされたままであれば、何度も「差別」に関わる齟齬が立ち現われてくる。

 

蛙の場合、「結婚」という「制度」そのものが破壊されなければならないなどと、とんでもない過激思想の持ち主ではあるが、そんなことを思う人は殆どいないだろう。

 

今日はここまで。

 

 


新連載 1

2015-05-27 13:10:48 | ひとりごと

これまで書いてきたことの繰り返しになるだろうけれど、蛙にとって一番大切な闘いは「なんとしても差別をなくしていかなければ」ということであるが、思いつくままにそこいらへんを書いていこうと思う。

 

まず最初に「名前」の話から始めよう。

 

40年以上前、「ベトナム反戦」と「日韓条約反対」を課題に「反戦青年委員会」運動というものがあって、これに参加をした折に、その組織内での「コードネーム(暗号名)」として「田所蛙治」を名のってきていて、今も「それ」を使っている。

「田んぼは蛙が治める」という具合で、「ベトナムはベトナム人の手に」というスローガンを下敷きにしてのことだ。

当時はこの名前でも郵便局で口座を開設できたりしている。

 

「蛙」には幾つもの思い入れがある。

その中でも「特別重い」意味は、芥川龍之介の「河童」で、河童の世界では「お前は河童じゃない。蛙だッ」と宣告されて、「俺は蛙なんだろうか?」と重い悩み、終には衰弱死してしまうというくだりだ。

芥川の言いたいことは、この人間世界では「とんでもない厚顔無恥な者」でものうのうと生きながらえ、大きな顔をしていることに対する皮肉なのだが、現在形でいえば安倍とか、東電の幹部で高額の退職金を手にして、関連会社の役員に天下り、家族ともどもドバイあたりに「避難」しているような連中が、それにあたるだろう。

高校生だった頃に読んだのだったが、蛙はちょっと違った読み方をしてしまった。

この「人間世界」では、どうやら自分は「」と呼ばれているらしい。それならば、その「」という名前を引き受けてやろうではないか。そのように呼ぶことがどんなに馬鹿げたことであるか、自分の生き方で証明してみせてやろう。

そんな意気込みを持っていたわけだ。

 

「解放」というアポリアは、未だその解決の方向性を見出し得ていない。

 

現在、喫緊の課題として「沖縄・辺野古新基地建設」を阻止する闘いが挙げられなければならないが、この闘いと「解放」の闘いは切れたままだし、「ヘイトスピーチ」など、「在日」を直截の標的にする排外主義との闘いや、フクシマを「なかったことにする」という趨勢との闘い、脱原発闘争、或いはアイヌ民族にかけられている攻撃との闘いなどなど、残念ながらそれらが今のところ「統一的に闘われる」という状況にはなっていない。

 

蛙には「それらのこと」が「権力の側からしつらえられた分断政策」が見事に成功しているように見える。

全ては「ひとつこと」なのだ。

 

引き続き、蛙の考えていることを書いていこうと思う。