このブログを読んでいただいている方には、蛙が酷く「常識外れ」なのは御理解されておられるでしょうから、少しは「まぁ、そういうのも分からんでもないか」と受け止めていただけるかも知れません。
「領土問題」について、蛙が思うことの第一は、「てめぇがこさえた土地じゃなかろうがッ!」ってことですね。
それに「沖縄」だって「北海道」だって、もともとは「日本国」でなかったんだ、これは明らかに「略取」したもんだってことも思います。
「沖縄」は立派な「琉球王国」としての歴史がある。
「琉球処分」と言われているけれど、明治時代に暴力的に「王朝」を廃し、「日本国」に取り込んでしまったんだ。
「北海道」の場合、萱野茂さんは「われわれのアイヌモシリ(人間の大地)を、あなた方に貸した覚えも売った覚えもない」と言われている。
アイヌには「土地の私的所有」などという概念が初めから無い。
この「大地」は、人間と、山川海、鳥獣魚虫、草木、それぞれの神(カムイ)との共同生活の場所だったのだから、和人が入って来て勝手に「我がもの」としただけのことなのだね。
網野義彦さんによれば、「日本国」の成立は7世紀頃のことなのだが、この時点で「国の範囲」はごく限られたものであったわけで、現在の「日本国」は東北・関東・出雲・九州などなど、全て「侵略戦争」の末に統合された結果として成立をしている。
アメリカ合衆国にしたって、もともとの先住民を虐殺して成立をしているんだ。
この国がまっとうな「正義の国家」に復帰できるとしたら、その「血塗られた歴史」を真剣に反省することからでしかない。
「ハワイ」王国を侵略し強奪した「百年目」の年に「下院」で「謝罪決議」が可決されるということがあったが、実効あるものではなく、ただの「宣言」、一枚の紙切れに過ぎないようなものだった。
「尖閣」にしろ「竹島」にしろ、蛙は「1次史料」を見ているわけではないが、色々、「論説」を読んでいて思うことは、実に「曖昧」な話だということだ。
基本的には、相互が冷静に話し合いで解決を図るべきだろうが、多分、それで決着がつくようには思われない。
それぞれが譲歩して、「相互開発」を図ることで、信頼関係を構築し、将来の解決に委ねるべきだろうと思う。
日本側の「竹島」の領有権主張の根拠は、1905年の「島根県編入」であるようだが、1895年の閔妃暗殺事件から「日清戦争」を経て「日露戦争」、1905年の「韓国保護条約」、1910年「韓国併合」といった歴史の文脈の中で考えてみれば、「侵略行為」と受け止められてもしょうがないのではなかろうか。
少なくとも、1905年以前は「我が国の領土」でなかったことだけは確かなことのようだ。
それで、現在、何が目指されているのかという話だが、この国の、特に「財界」としては「日中・日韓」の関係が冷え込むことを望んではいないだろうし、ましてや「限定的な局地戦争」なども慮外なことだろう。
確かに現況は「開戦前夜」を思わせる程の状況なのだけれど。
蛙は、石原や阿部の策動は、「憲法・9条改訂」「軍隊の創設」を目指してのことのように思える。
「領土問題」を持ち出して、「国論」を大きく右側へ旋回させようという話なのだろう。
だいたい、「国家」というものは「国民・国軍・領土」を前提に成立するのだろうから、石原や阿部の方が、蛙などよりもずっと首尾一貫しているということはあると思う。
ただ、先の戦争の反省に立って、「我が国」は紛争の軍事的な解決は行わないと誓ったのであり、「憲法」は長く支持されてきた。
そういう視点では、都知事とか国会議員には「遵法」の義務があろうから、彼らは、その主張を貫きたければ、まず、今の職を辞して個人の立場で、そのように発言すればよいのであり、都民の税金で「竹島」問題に関わるようなことなど、許されるべきものではない筈ではないか。
「領土問題」について、蛙が思うことの第一は、「てめぇがこさえた土地じゃなかろうがッ!」ってことですね。
それに「沖縄」だって「北海道」だって、もともとは「日本国」でなかったんだ、これは明らかに「略取」したもんだってことも思います。
「沖縄」は立派な「琉球王国」としての歴史がある。
「琉球処分」と言われているけれど、明治時代に暴力的に「王朝」を廃し、「日本国」に取り込んでしまったんだ。
「北海道」の場合、萱野茂さんは「われわれのアイヌモシリ(人間の大地)を、あなた方に貸した覚えも売った覚えもない」と言われている。
アイヌには「土地の私的所有」などという概念が初めから無い。
この「大地」は、人間と、山川海、鳥獣魚虫、草木、それぞれの神(カムイ)との共同生活の場所だったのだから、和人が入って来て勝手に「我がもの」としただけのことなのだね。
網野義彦さんによれば、「日本国」の成立は7世紀頃のことなのだが、この時点で「国の範囲」はごく限られたものであったわけで、現在の「日本国」は東北・関東・出雲・九州などなど、全て「侵略戦争」の末に統合された結果として成立をしている。
アメリカ合衆国にしたって、もともとの先住民を虐殺して成立をしているんだ。
この国がまっとうな「正義の国家」に復帰できるとしたら、その「血塗られた歴史」を真剣に反省することからでしかない。
「ハワイ」王国を侵略し強奪した「百年目」の年に「下院」で「謝罪決議」が可決されるということがあったが、実効あるものではなく、ただの「宣言」、一枚の紙切れに過ぎないようなものだった。
「尖閣」にしろ「竹島」にしろ、蛙は「1次史料」を見ているわけではないが、色々、「論説」を読んでいて思うことは、実に「曖昧」な話だということだ。
基本的には、相互が冷静に話し合いで解決を図るべきだろうが、多分、それで決着がつくようには思われない。
それぞれが譲歩して、「相互開発」を図ることで、信頼関係を構築し、将来の解決に委ねるべきだろうと思う。
日本側の「竹島」の領有権主張の根拠は、1905年の「島根県編入」であるようだが、1895年の閔妃暗殺事件から「日清戦争」を経て「日露戦争」、1905年の「韓国保護条約」、1910年「韓国併合」といった歴史の文脈の中で考えてみれば、「侵略行為」と受け止められてもしょうがないのではなかろうか。
少なくとも、1905年以前は「我が国の領土」でなかったことだけは確かなことのようだ。
それで、現在、何が目指されているのかという話だが、この国の、特に「財界」としては「日中・日韓」の関係が冷え込むことを望んではいないだろうし、ましてや「限定的な局地戦争」なども慮外なことだろう。
確かに現況は「開戦前夜」を思わせる程の状況なのだけれど。
蛙は、石原や阿部の策動は、「憲法・9条改訂」「軍隊の創設」を目指してのことのように思える。
「領土問題」を持ち出して、「国論」を大きく右側へ旋回させようという話なのだろう。
だいたい、「国家」というものは「国民・国軍・領土」を前提に成立するのだろうから、石原や阿部の方が、蛙などよりもずっと首尾一貫しているということはあると思う。
ただ、先の戦争の反省に立って、「我が国」は紛争の軍事的な解決は行わないと誓ったのであり、「憲法」は長く支持されてきた。
そういう視点では、都知事とか国会議員には「遵法」の義務があろうから、彼らは、その主張を貫きたければ、まず、今の職を辞して個人の立場で、そのように発言すればよいのであり、都民の税金で「竹島」問題に関わるようなことなど、許されるべきものではない筈ではないか。