続・蛙独言

ひとりごと

一から始める蛙の部落解放理論 5

2009-10-30 18:22:02 | 日記
生意気な言い方だけど、にしろ解放同盟にしろ、蛙は一度も「差別」を本質的に捉える「理論」を獲得することはなかったし、それだから「完全解放の道筋」を一度も提示できなかったと考えているのだね。
勿論、蛙にだって「できる」話ではないのだけれど、「そうなのだ」って自覚は大切だと思っている。
それでも、にしても同盟にしても「存在意義」はあったんだ。
何よりも、圧倒的な「量」である「差別者集団」(『敵手』は『全体』なんだから)に抗して、「吾等の団結だけが『それら』に抵抗していく威力(ちから)なのだ」という共通認識。
これは重要なことだったんだ。
人間、「一人ぼっち」って「感覚」ではとてもじゃないが「やってられない」よ。

「被差別・民」以外は知らないだろうけれど、「この地域」に生まれおちた「人間」は、まず最初に「訳の分からぬままに」自身が「そのように呼ばれる民」であることを「思い知らされる」のだね。
そしてそれは、「自分のムラ」だけが「特別視」されているかのように「思わされる」し、そのようであるからして、「多分、こんな感覚を抱かされたことを親・兄弟姉妹にゆうたら、きっと悲しい想いをさせるに違いない」って思うから、ずっと「胸の内、奥深く」にしまって置こうという風に反応するんだ。
長じて「解放運動」に「出会った者は幸いである」と言える。
でなければ、「鬱屈する想い」は消えることが無い。

「出会った人間」は、まず、「この問題」が「自分のムラ」だけじゃないんだ、全国に「これだけ多くの『同じ想い』を持った仲間がいるんだ」ってことに気付かされる。
69年に天理市で「全国奨学生集会」が開催されて、ここに参加した出身高校生達が「次代」の中心的な「活動家」に育っていったのだろうと蛙は考えている。
40年前になるのだから、このメンバーは、「その時の感動」を腹の底に据えて「一つの時代」を作ってきたし、「彼ら」の果たしてきた役割の評価も大いなるものであったのだけれど、蛙は、「この後の展開」に大きな「疑問符」を感じている。
「自分ひとりじゃない、大勢の仲間がいるんだ」ということは勇気にはつながるが、そこのところからの「一歩」を、今のところ、誰も「指し示してくれてはいない」のだから。

蛙にだって、よくは分かっていない。
ただ、「分かっていない」ということを「認識」することは大事なんだと思う。

本年3月の同盟の大会で、「派遣村に荊冠旗は立っていたのか」という質問をされた方がいた。
納得のいく回答はなかったが、「この時代・この局面」で同盟が「何をなすべきか」、もっと全般的な視野の中で、手探りでもいい、頑張っていくことが「楽しい」、そういう「闘い」を構築していかなければならないのだろうと蛙は思うのだね。

一から始める蛙の部落解放理論 4

2009-10-29 17:21:08 | 日記
話し始めると支離滅裂で、あっちこっちに飛んで行ってしまうのだけれど、商売でやってるんじゃないから、読む人の迷惑を顧みずってことで続けていこう。
ごめんなさいね。

差別―被差別の「非対称性」については「旧ブログ」でも書いていたのだけれど、頭に来ていたのは「両側から超える」という「文言」が「解放運動」の一部でもてはやされていたからなんだ。
藤田敬一氏などは、「は実体概念ではなく関係概念である」などと言いながら、「両側」などということを言っているのは、自身、「自爆している」のに全然気づいていないんだろうと蛙は思う。
「両側」という規定は差別者だけがそのように認識するのだと蛙は考える。
花崎さんからの引用でも、そのようになるだろう。

は「実体」としては「無い」、藤田氏に倣えば「関係性の中にしか無い」、蛙の言では「他称語」でしかない、というのであれば「両側」などという「概念」は成立しない。
「両側から超える」ということを言う人は、多分、差別者も差別はやめなければならないが、被差別者も「誤った考え」や「克服すべき弱点」もあるのだから、双方が「きっちり」しなければってなことなんだろうか。
差別者も被差別者も「正道を歩まなければならぬ」なんて意味なら、当たり前な話なんであって、それを殊更、かっこつけて言うようなことでもなかろうに。
藤田氏はご丁寧に「同盟」の内部の「間違った考え」の事例を数え上げてご教示してくれているが、それは誰よりも「同盟」の内部で誠実に運動を進めようとしている少なからぬ人びとが歯噛みする想いで考えていることなのだ。
例えば奈良などでは、不幸な「運動の分裂」などがあるようだけれど、藤田氏は一方の側に「肩入れ」をしているように蛙には見える。
蛙は「事情を知らない」から、ただただ誠実な努力の積み重ねで「再統一」の一日の早いことをと祈るばかりだが、「分裂」の「裂け目」を更に深くするだけのような行為はやめてもらいたいものだと思う。

ついでに、以前にもゆうたことを再度言っておきたい。
藤田氏は、朝田善之助らとの酒席で杯がまわってくる時、「震えがとまらなかった」と言い、それが「自身の成育歴の中で、ことに家族から受け取った差別意識のせいだった」とし、その後「の人びととの交流を通じて差別意識が氷解した」というようなことを言っている。
蛙には皆目理解できない話だ。
なぜ「震え」なきゃなんないんだ!
「の人間」と仲良しになったら「差別意識」はなくなるんか?
蛙には、藤田氏について「自分自身を問う」深い思索が全く感じられない。
それだから、今でも藤田氏の「ものいい」の態度がいかにも「人を馬鹿にしたような」風になるのだと思うのだ。
蛙は、なによりも「謙虚さ」ということが、誰にとっても大切なことだと思うのだけれど。

一から始める蛙の部落解放理論 3

2009-10-28 09:20:54 | 日記
花崎皋平さんの「アイデンティティと共生の哲学」(平凡社ライブラリー)から引用しよう。

差別は被差別者の特性や固有性とほとんど無関係である。つまり、その標識は恣意的にえらばれる。差異をあげてその価値づけを理由にするのは、「差別」の仕組みそのものをみえなくさせるための差別者側のワナである。「差別」の本質は、特定のカテゴリーの人びとの「排除」にあり、「排除」の目的にかなえばその標識はなんでもよいのである。女性が男性から差別されるのは、女性としてのあれこれの特性によるのではなくて、男性でないからである。同一性に対して非同一性のカテゴリーに位置づけるのである。
この場合、重要なのは差別する側がカテゴリーを設け、それに命名する権利を独占しているという非対象の関係である。差別する者と差別される者との関係は、名づける者と名づけられる者、区分する者と区分される者という関係である(p218)

花崎さんはもう78歳になられるから蛙とは一世代以上も違うことになるが、直接的でないけれども「書かれたもの」を通じて40年以上も前からの「お付き合い」になるわけで、似たような発想になるのだろう。
もっとも、蛙の生き方など中途半端そのものだから、その「思想」とその具体的な「日常生活」の徹底的な一致を目指された彼の生き方とは較べるべくもないけれど。
彼の場合、日常的には「アイヌ問題」との直接的な関わりということになる。
引用を続ける。

「差別の論理」を支えるこの関係は完全に一方的であるから、区分の特徴は恣意的であって差しつかえない。また、差別する側は自分については自明であるから名づける必要がない。すなわち、差別者のカテゴリーは無徴性であり、被差別者のそれは有徴性である。そのさい、あたかも被差別者側の「実在的な差異」が有徴性の根拠であるかのように関係を指定するのである。ここからあれこれの差別がなぜ不当なのかを理由づける挙証責任を被差別者側に押しつけるという転倒がおこる。この関係そのものの不当性と非対称性を暴露し、問題はカテゴリー権の奪還にあることをあきらかにすることが「反差別」の論理である。(p219)

この後、「要するに多数者の自己定義は『差異ある者(アイヌ)を除いたあとの、それ以外のわれわれみんな』というかたちをとっているのである。」(p220)といった展開になっている。

蛙は、一般的な「差別の論理」と特殊「差別の論理」とは「集合の全体と一要素」の関係のように捉えていて、その具体的な「在り様」を考えていこうと思うのだ。

一から始める蛙の部落解放理論 2

2009-10-26 18:27:29 | 日記
「福山全研」は、もともと大きな期待を持っていなかったから、「まぁ、こんなものかね」ってことだった。
メインスローガンとして「差別・貧困・格差を打ち破る・・」があげられていたが、その三つの語句が「並列」されること自体に蛙は酷い違和感を覚えるのだが…

それはともかく、始めたシリーズを続けよう。

前稿にジゲ戦記のブーさんからコメントがあって、その「ブログ」を読ませていただいたが、
「差別は何事も根拠のある『ちがい』をめぐる事柄であり・・」
という辺り、蛙の考え方を少しく書いておこうと思う。

「被差別」とそれ以外との間には「何の違いもない」ことは強調されなければならない。

随分以前になるが、全解連の機関紙「解放の道」の記事で、滋賀大の梅田修氏の講演と聴衆の反応を読んだことがある。
氏は「解同の『問題理解』は観念論である」と言い、聴衆からは大きな拍手があったというような記事である。
日本共産党とそれから派生した「共産主義を標榜する」各種「党派」の間では、「観念論である」というレッテルを貼りさえすれば「敵手」を「片づける」ことができ、自らを「科学的党派」=「正義と真実の護り手」と宣言することになるといった馬鹿げた話が通用している。
これをしも「俗流唯物論」という。
これらの人々は、一度もマルクス主義の原典を読んだことがないということを、自身で証明しているようなものだ。
マルクスもエンゲルスも「観念論と唯物論」については、ただ、「物質的存在が第一義」だと言っているだけで、「観念」についても重要な分析・考察を繰り返し論じてきている。

さて蛙が言おうとするところであるが、「差別は、この『国』の人々の『観念世界』の中にしか存在しない」ということだ。
これは、同盟の「考え方」にも背反する。
30年乃至40年前の「被差別」の現実は「万言を以ってしても言い尽せぬ」程の厳しいものであったので、同盟は「差別は、人々の中にある、遅れた『観念』だとすることは間違いである。差別は、現にある『実態』そのものなのであるから」とし、その「改善」、「格差解消」を目指して運動を進めてきた。
その成果は、大きく評価しなければならないが、仮に「格差」が「完全解消」されたとしても、なお、「差別」は無くなりはしない。
蛙は最初に「ボタンの掛け違え」があったと考えている。

最重要な問題は、人々の間に「骨の髄まで沁み込んでいる『天皇制』」だろう。
蛙は、その克服無しには「目的」は達せられないと考えている。
全ての「非合理主義・神秘主義」の淵源はここにある。

蛙がウロウロしている「サン地下」などでも「1街区」から「10街区」まで商店が立ち並ぶが「4街区」と「9街区」は無い。ホテルや病院などでも「4階・9階」が無かったりすることはよくある。「4」が「死」を「9」が「苦」をイメージさせるというのだろうが、「死」や「苦」を「忌み嫌う」文化は馬鹿げていよう。
「ひのえうま」についても以前、言及したことがある。
あれこれ、挙げればきりが無いが、この「国」の文化の総体が「差別」を生み出していく構造を持っているのであるから、目指されるべきは「文化大革命」ということになるだろうと蛙は思う。
「文化」とは民衆の「観念」の総体であり、その徹底的な批判の中からしか、展望は開かれない。

再度言うが、「被差別には『差別されて然るべき根拠』など何もない。」
「被差別」とそれ以外には何の違いも無いのである。

一から始める蛙の部落解放理論 1

2009-10-23 17:58:54 | 日記
明日から三日間、広島県は福山市で「解放全国研究集会」ってのがあるんで、ブログの方は「お休み」ということになる。
常時使っているのは「ノート」なんだから、持っていってもいいんだけど、1キロを超える荷物はやだからね。
この「集会」、最近、あまり面白くないというか、そんなに「収穫があった」ってこともないんだけど。

さて、「被差別は存在しない」というのであれば、「解放運動」などというものは「意味無いんじゃない」ってことになるかって話をしておこうと思う。

「被差別」と「呼ばれる」地域には、内在的に「差別されて然るべき根拠」は無い。
にも拘らず、この地域に暮らす、或いは、この地域の出身者である人々に対して、「」とか「四つ」などなどという「差別言辞」が投げつけられ、「忌避・排除」ということになる現実はある。
「ならば」その「現実」を「引き受けて行こうではないか」、「そして」そのような「現実」を「白日の下に晒して」、それがどれほどの悪辣な「犯罪的行為」であるかを万人に知らしめていく「徹底糾弾」の闘いを「推し進めていこうではないか」、これが「解放運動」なのだと蛙は考えている。
「」の「意思」も「ここ」にあった筈だ。

「宣言」は、当時、想像を絶する「残虐・冷酷・非道」なものであった「差別」に抗して、「団結して闘おう」という「呼び掛け」であったし、その「現実」を主体的に引き受けて、なお、その先の「吾等は必ずや勝利するに違いない」という「希望」を「指し示した」ものであったのだから、全ての「大衆」を鼓舞し勇気づけたのだ。
それは「言葉にならぬ」程の感動をもって受け止められた。

ただ、と蛙は考える。
「その意気やよし」ということはあるが、「時代」は大きく変わったのであるから、今、必要とされているのは、この「時代」に相応しい新しい「解放宣言」なのではなかろうか。
何事も「歴史的な制約」ということはあるのだ。

「宣言」には「解放の理論」の裏付けは無い。

蛙が一番厭な「台詞」は「であることを誇り得る時がきたのだ」ってところだ。
これは「その時代」には「大衆」を大きく鼓舞し、勇気づける「アジテーション」として多大な有効性を持ったことは間違いないが、この「台詞」のせいで、今でも「民としての誇り」などという発想が通用しているのは「いかがなものか」と思う。
蛙は、差別に抗して生き抜いてきた「我が父・母」を誇りに思っているし、「ここ」まで「闘い」を導いてきてくれた先達を「誇り」に思っているけれど、それは「民の誇り」などではなく、「人間としての誇り」ということなのだ。
ここのところは、友井さんと話していて、「完全に一致する」ところだということも書いておこう。