続・蛙独言

ひとりごと

「ことば」 1

2009-11-07 18:11:32 | 日記
「ことば」について色々と考えたり、田中克彦さんの著作を読んで却って訳の分らぬ迷路に迷い込んだりしているのだが、「差別」について、或いは「何ごと」についてでも、深く考察する場合、「ことばとは何か」という疑問を自らの〈横〉に常在させておかなければならないと思うようになった。
「深層構造」などとチョムスキーは言っているが「ひと」は「ことば」を「使う」能力を持って生まれてくる。最近の「脳科学」の進展は目を瞠るものがあるけれど、ウェルニッケ野とかブローカー野とか「言語を直接につかさどる大脳皮質の部位」を特定してみても、またfMRIなどという先進の技術を使ってする「ことばと脳の運動」の研究がどんなに進んできても、今のところ「その秘密」が解き明かされてきたわけでもないようだ。
「ことばとは何か」という疑問に立ち向かうに、問われるべき「ことばを以ってする」以外に方法がないというあたりにもこのアポリアの難しさがある。
例えば蛙が何ごとかを考えるとして、それは〈日本語〉を既に〈使用〉しているのだけれど、それだけで既に〈日本語とは何か〉〈それは誰が作ったものか〉という疑問をすっ飛ばしておいて「考えを進める」といったことになる。
また〈日本語〉と言った途端に〈日本って何?〉って話もすっ飛ばされる。
それだから何時でも「話」は酷く限定的に話されなければならないことになるし、その「限定」以外、「話の枠組みの外」についても充分意識を払いながらということになるのだろう。
蛙が使う「ことば」について考えてみる。
勿論、〈これ〉は自分が独力で作り上げたものではない。
まず最初には「生まれ落ちた」その「家族」から「ことば」を受け取ることになるが、その「家族」もまた長い数珠つなぎの連鎖の中で「ことば」をつないできている。
また「被差別」という「現実」の中で、「ムラことば」というものがある。
「ムラ」では長く「通婚」は「被差別者側」どうしに限定されてきた。神戸のの場合、見渡してみて岡山辺りから奈良くらいまでは「通婚圏」はあるようだが、そこで話されている〈ムラことば〉は極近隣といくぶんか違う。
これを「閉鎖性」と呼んでマイナス評価するきらいがあるが、それは間違いだ。「使用されることば」に価値基準があるわけではなく、その僅かな「違い」を差別者側が採りたてて「価値基準」を持ちこもうとするだけのことなのだ。
蛙が学校の授業で「古文」などというのに接するようになって初めて気付いたことは「古語辞典」の中にしかない、詰まりは現在では既に「死語化」しているような「ことば」が「ムラ」では生き生きと息づいて流通しているという事実だ。
(つづく)