続・蛙独言

ひとりごと

追加

2009-11-30 22:50:11 | 日記
前稿、UPした後で、ブログ「ストーンリバー」

http://burakusabe.exblog.jp/

をチェックしたのだけれど、「狭山」に関して、読んでおいていただきたい文章が書かれていた。
また、27日の集会での、石川一雄さん・幸子さんの「発言」もビデオでUPされていた。

是非是非、ご覧ください。


「狭山」

2009-11-30 22:16:35 | 日記
埼玉県狭山市で女子高校生殺害事件が起こったのは1963年(昭和38年)5月のことだった。既に46年と6ヶ月が経過する。
杜撰な警察の対応で犯人を取り逃がして後、被差別を狙い打ちに見込み捜査が集中され、アリバイの不確かな青年が絞り込まれていく。
この経緯は、鎌田慧さんの「狭山事件」で詳しく分析をされているので、中身についてはそちらを参照されたい。
結局、石川一男さんが「微罪」で別件逮捕され、「女子高校生殺し」については一ヶ月にも渡って否認し続けたのだけれど、警察の悪辣な対応で、とりわけ「お前が頑固にやってないというなら、兄の六造を逮捕するぞッ!」というのが「決め手」になるのだが、そして「男と男の約束だ。やったと認めれば10年で刑務所から出してやる。」という台詞に騙されて、遂には「嘘の自白」ということになってしまう。
当時の新聞報道を省みれば、極めつけの差別報道のオンパレードで、誰もが「真犯人に違いない」と思い込まされてしまうようなものだったのだ。
それだから、当時、同盟もまた、「石川犯人説」に乗せられていた。
ごく少数の人々が「これはおかしい」ということで「取り組み」を始め、それと気づいた新左翼系の若い人たちの「浦和地裁占拠闘争」という行動が「鏑矢」となり、「二審」で石川さん自身が「私はやってない」と叫んだところから、重大な闘いになっていく。

蛙はこの時18歳で、京都の大学に進学したばかりだった。
だいたい、新聞など読んだ記憶がないし、ずっと「勉学に勤しんでいた」(?)ものだから、この辺りの話を知るのは10年後、解放運動に参加して後のことになる。

「二審・高裁・寺尾判決」の欺瞞性や「最高裁」での「無期判決確定」など、詳細に書けばきりが無いことになる。
現在、「再審」を求めて「第三次」という段階だ。
この冤罪事件の困難は、石川さんが警察・検察の謀略で「一審判決」まで「自白を維持し続けた」という点にある。
差別の故に「警察とは何であるか、検察とは何であるか、裁判とは何であるか」、そのようなことの一切を石川さんは理解することができなかったのだ。
小学校すらキチンと就学することができなかったのだから、勿論、「読み書き」も満足にできはしない。
それに、の人間は「男と男の約束」などと言われたら「納得」してしまうことがよくあるのだ。そういうので「不幸のどん底」に突き落とされてしまったケースを蛙も幾度と無く目にしてきている。

石川さんが刑務所に収監されて、それでも「10年で出られる」と思い込んでいたのを、務所仲間が「お前は騙されてる」と言ってくれたこと、そして何よりも、彼の無実を信じてくれた刑務官に出逢え、「しっかり字を覚えて『無罪』を訴える上申書を書けるようにしろッ!」と励まされ、孤独な苦学の末に「字」と、それだから、「智慧」とを「取り戻す」ことができたことは重大であった。
この出会いが無ければ「死刑のままにそれが既に執行されていて不思議でない」と思えば、空恐ろしい気持ちになるのは蛙ひとりではなかろう。
彼は30年以上も獄につながれ、その間にふた親ともが亡くなったのであるが、どんなに無念であったろうか。はかり知ることもできない。

この27日、「再審」を求める「緊急市民集会」が日比谷野音で開催され、蛙も参加をしてきたのだが、それに先だって、午前中、東京高裁に「証拠開示と事実調べ」の要請、高検にも「証拠開示」を求める要請をおこなわれた。
双方とも「聞き置く」と言うことでしかなかったのだけれど、東京高検の態度は許し難いものだった。
この日、「要請行動」のアポが取られていたにも拘らず、責任者の全てが「会議中」であるとして、若い事務官が二人、それもロビーで対応するというようなものだったのである。
皆が皆、怒り心頭に、というところだったけれど、考えてみれば、「再審要求・新百万人署名の達成」など、おおきな運動の前に、「検察側」は、それ程、窮地に追い込まれているということであるのだろう。

12月中旬に予定されている「三者協議」に向けて、運動の側は一層強く、頑張っていかなければならないのだろうと思った。