続・蛙独言

ひとりごと

アイヌと沖縄と①

2020-07-31 16:06:25 | ひとりごと

「一知半解」という言葉があるが、蛙の考えなど、まさにそんなものかも知れないねぇ。

アイヌとか沖縄のこと、よく知っているつもりでいるけど、怪しいもんだ。

飛行機代が高いから小学生の間に行っておこうと思って子どもたちを北海道と沖縄に連れて行ったのは30年くらい前のこと。

沖縄のことは次回。

 

マナミさんから「『ウポポイ』が国立で出発するようだけど、『リバティ』がお終いになること、蛙さんはどう思とってん?」って問われたんで、なんか書いておこうと思ったんだ。

「ウポポイ」についての情報に接する前に、たまたまのことだけれど、萱野茂さんの「アイヌ歳時記(ちくま学芸文庫)」を読み始めていた。

 

その前に知里幸恵の「アイヌ神謡集・序」を読んでいただきたい。

 

アイヌ神謡集 序

http://www.nextftp.com/y_misa/sinyo/sinyo_jyo.html

 

2006年に萱野さんが亡くなられて14年が経つ。

この本の「あとがき」にある日付は「平成12年6月」で、西暦で2000年、平凡社新書に書かれたものだ。

蛙が今、読んでいるのは「ちくま文庫」で2017年「第1刷」となっているから、萱野さんが亡くなられているし、後にあげた「2008年先住民族サミット」アイヌモシリよりも後ということになる。

解説「記録から保持、復興へー萱野茂のアイヌ文化研究」を書かれたのは北原次郎太さんで(アイヌ名「北原モコットウナシ」)、東京生まれの 40代の研究者だ。

 

http://amanakuni.net/Namaenonai-shinbun/Namae151-misa.html

http://db.csri.for.aichi-pu.ac.jp/journal/2-90.pdf

 

2020年 に「ウポポイ」は出発することになったが、その経緯を蛙はよく知らない。

ただ、長い年月にわたって多くのアイヌと彼らを支援するシサムたちの努力があったのだろうと思う。

「アイヌ歳時記」に書かれたアイヌの生活の在り様は、猖獗を極める「新自由主義」=人類滅亡の奈落への行進をあからさまに非難し、その本質を照らし出している。

また、「ウポポイ」の情報に接して、レイシストたちは無残極まりない破廉恥なコメントを発したりしているが、それはこの国の腐り方が尋常でないことを物語っているだろう。

 

子どもたちと一緒に30年前に二風谷に行ったのは、ひとつには萱野さんに会いたかったし、アイヌの歴史を子どもたちに伝えたかったからだ。

実際には、その時、萱野さんは二風谷を留守にしておられて会えなかったのだが、後に「解放全国研究集会」で萱野さんが講演された折に挨拶だけはすることができた。

                                     


真宗教団の部落差別

2020-07-08 21:37:39 | ひとりごと

落合誓子さんの「女たちの『謀反』」の巻末に補論として「『王舎城の悲劇』

はなぜ起きたのか?」(伊勢谷功)と「真俗二諦について」(比後孝)が収録されている。

同盟広島県連が提起している問題の意味が「これら」を読んで、特に後者は難解だったが、理解できたような気がする。

浄土三部経の内、観無量寿経に「王舎城の悲劇」が語られている。 

 

http://mujintou.net/dharma/shinshu/kangyou.htm

 

この話は真宗信徒には有名ならしいが、蛙は父親が「坊主嫌い」だったこともあって、これまで知らなかった。

阿闍世が父親の頻婆娑羅王を幽閉し、父を救おうとした母親の韋提希を殺そうとして家来に止められるのだが、観無量寿経の中で「母親殺しなどという恐ろしいことをするのは旋陀羅の所業」という表現がある。

「旋陀羅」とは日本の「エタ」を意味しているのではないかと、の時代、松本治一郎さん、井元 麟之さんは問うてきた。

東西両本願寺は善処方を約束してきたのではなかったか。

 

小森龍邦さんは、「約束は果たされていない」として、改めて問い直していて、広島県連の重要な取り組みになっている。

全国大会でも広島県連は何度も提起してきているが、中央にしろ各府県連にしろ、同盟全体として、この問題に取り組んでいるようには見受けられない。

真宗札幌別院差別事件は、アイヌ民族に対する差別と重なっていて、アイヌ自身の問題として取り組まれたので有名だから「ヤイユーカラ」を引用しておく。

 

http://www13.plala.or.jp/yayyukar/bno/bno54/bno54_gomame.html

 

その後も東西両派では相変わらず「差別事件」は相次いでいる。

ごく最近に、ウチのムラの寺も差別事件の対象になっている。

親鸞を宗祖としながら、教団に差別が相次ぐのは、蛙には理解がいかないが、同盟の運動にも問題があるように思われる。

 

「旋陀羅問題」と「真俗二諦」の問題を、教団も同盟もしっかり考えていかなければならないのではないだろうか。

兵庫教区では1962年に組画の変更が議され、1982年から1985年新組画発足と記されているが、旧組では寺院は一般寺院から排除されていたのだろう。

真宗寺院の坊さんで明石で教員をされていたT氏が「この排除は差別だ」と主張されたのが、この組画変更の始まりだったと蛙は聞いている。

事程左様に、教団は差別まみれだったのだ。


女性差別について

2020-07-04 21:32:11 | ひとりごと

ヒントブックスさんが本を届けてくれましたから、調子が今一つで読みづらかったのですが、落合誓子さんの「女たちの『謀反』」、読んでいました。

浄土真宗大谷派乗光寺坊守で1946年生まれと奥付にあります。

児玉さんがFB友達だそうです。

珠洲市の反原発運動の関係で児玉先輩とつながっておられたのでしょう。

蛙は、同盟広島県連が問題にしている「旋陀羅(センダラ)」について、考えてみたくて、この「本」を注文したのでした。

たいして勉強はしていなくて、ただ、我が家の宗派が真宗本願寺派だったこともあって、親鸞について書かれた本を何冊も読んではいました。

高校生の頃に「出家とその弟子」を読んでいますが、どんな話だったか、皆目、中身をおもいだせません。

チェ・ゲバラとかジョンレノンとかと同じような具合の「親鸞ファン」でした。

阿弥陀仏の48願の内、第18願、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば救われるというあたりは、とても気に入っていました。

 

落合さんは「女性差別」の観点から主張を展開されていて、なかなかよい話でしたが、ヒンドゥー教の「マヌの法典」の「女性差別」が経文の中に持ち込まれ、48願の内、第35願をどう受け止めるかによって「女性差別からの解放」が考えられなければならないと言われているようです。

 

しかし「女性差別」は、仏教内、或いはアジアに限ったことではないわけですから、世界大で問題は考えられなければならないはずです。

 

蛙の考えでは、「女の股から産まれ、性欲に貫かれている『男性性』が支配者であり得ようはずがないことの自覚・不安」が女性差別を成り立たしめているのだということになります。

 

考えがまだまだ至らないわけですから、もう一度、読み直してみなければなりません。

 


「本」

2020-06-18 09:32:25 | ひとりごと

この歳になって「本」を読むことが随分苦痛になってきた。

もともと、「本」を読むのはすきだったし、スピードもはやかったのだけれど。

この頃は、目がよく見えなくなってきて、「ルビ」は小さ過ぎて読めないことが多いし、「パ」と「バ」の区別がつかなくなってきた。

最近、「世界屠畜紀行」を読み終えて、なかなか面白かったし、続けて娘が図書館で借りてくれていた中村哲さんの「アフガニスタンの診療所から」を読んだりしていた。

中村さんは凄い人だと前々から思っていたけど、これまで一冊も読んでいなかった。

これは読めてよかった。

その後、孫と本屋に行って、小学生に人気の「サバイバルシリーズ」を2冊、買ってあげたのだ。

その時、目についた「鏡の国のアリス」を読んでみようかななんて突然、思いついたりしたものだから、別の日にジュンク堂に行った折に、角川文庫の「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」をはずみで買ってしまった。

ちょうどその日にヒントブックスさんが頼んでいた本を届けてくれたので、当分、読書三昧だな。

「アリス」はよく知っている話なんだが、これは子供向けって感じがしない。

それで、wikiとかその他、「アリス」に関する情報を収集していた。

邦訳はこれまでたくさんあったようだが、この角川文庫版の河合祥一郎訳というのはごく最近のもののようだ。

原作が「韻」を大事にあつかっているので、それを尊重する形で訳しているようで、かえって日本語として読みづらいものになっている。

これが、もう40年前なら早速原著を読んでみようとなるところだが、今はそんな元気がない。

蛙がよく知っているのは、子ども向けにリライトされたものとか、ディズニーのアニメなんかだ。

Youtubeで前後半30分ちょっとづつでみることができる。

 

「アリス」以前、子ども向けのお話は、教訓とか、こんなとんでもない話はなかったものだから、これが型破りということで以降、支持されるようになったらしい。

蛙は「レンタル上がり」のDVDでジョニー・デップのAlis in WonderLandも持っている。

これは7歳の時に行った世界に13年後、再び舞い戻るという設定になっている。

 

洋書の子ども向け本は「マザーグース」を下敷きにしているものが多いと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=Bkr2GOhANYM

 

 


保存のために 3

2020-06-05 17:46:27 | ひとりごと

保存のために

「続・蛙独言」 3

一から始める蛙の解放理論 3

花崎皋平さんの「アイデンティティと共生の哲学」(平凡社ライブラリー)から引用しよう。

差別は被差別者の特性や固有性とほとんど無関係である。つまり、その標識は恣意的にえらばれる。差異をあげてその価値づけを理由にするのは、「差別」の仕組みそのものをみえなくさせるための差別者側のワナである。「差別」の本質は、特定のカテゴリーの人びとの「排除」にあり、「排除」の目的にかなえばその標識はなんでもよいのである。女性が男性から差別されるのは、女性としてのあれこれの特性によるのではなくて、男性でないからである。同一性に対して非同一性のカテゴリーに位置づけるのである。
この場合、重要なのは差別する側がカテゴリーを設け、それに命名する権利を独占しているという非対象の関係である。差別する者と差別される者との関係は、名づける者と名づけられる者、区分する者と区分される者という関係である(p218)

花崎さんはもう78歳になられるから蛙とは一世代以上も違うことになるが、直接的でないけれども「書かれたもの」を通じて40年以上も前からの「お付き合い」になるわけで、似たような発想になるのだろう。
もっとも、蛙の生き方など中途半端そのものだから、その「思想」とその具体的な「日常生活」の徹底的な一致を目指された彼の生き方とは較べるべくもないけれど。
彼の場合、日常的には「アイヌ問題」との直接的な関わりということになる。
引用を続ける。

「差別の論理」を支えるこの関係は完全に一方的であるから、区分の特徴は恣意的であって差しつかえない。また、差別する側は自分については自明であるから名づける必要がない。すなわち、差別者のカテゴリーは無徴性であり、被差別者のそれは有徴性である。そのさい、あたかも被差別者側の「実在的な差異」が有徴性の根拠であるかのように関係を指定するのである。ここからあれこれの差別がなぜ不当なのかを理由づける挙証責任を被差別者側に押しつけるという転倒がおこる。この関係そのものの不当性と非対称性を暴露し、問題はカテゴリー権の奪還にあることをあきらかにすることが「反差別」の論理である。(p219)

この後、「要するに多数者の自己定義は『差異ある者(アイヌ)を除いたあとの、それ以外のわれわれみんな』というかたちをとっているのである。」(p220)といった展開になっている。

蛙は、一般的な「差別の論理」と特殊「差別の論理」とは「集合の全体と一要素」の関係のように捉えていて、その具体的な「在り様」を考えていこうと思うのだ。

 

一から始める蛙の解放理論 4

2009-10-29 17:21:08 | 日記

話し始めると支離滅裂で、あっちこっちに飛んで行ってしまうのだけれど、商売でやってるんじゃないから、読む人の迷惑を顧みずってことで続けていこう。
ごめんなさいね。

差別―被差別の「非対称性」については「旧ブログ」でも書いていたのだけれど、頭に来ていたのは「両側から超える」という「文言」が「解放運動」の一部でもてはやされていたからなんだ。
藤田敬一氏などは、「は実体概念ではなく関係概念である」などと言いながら、「両側」などということを言っているのは、自身、「自爆している」のに全然気づいていないんだろうと蛙は思う。
「両側」という規定は差別者だけがそのように認識するのだと蛙は考える。
花崎さんからの引用でも、そのようになるだろう。

は「実体」としては「無い」、藤田氏に倣えば「関係性の中にしか無い」、蛙の言では「他称語」でしかない、というのであれば「両側」などという「概念」は成立しない。
「両側から超える」ということを言う人は、多分、差別者も差別はやめなければならないが、被差別者も「誤った考え」や「克服すべき弱点」もあるのだから、双方が「きっちり」しなければってなことなんだろうか。
差別者も被差別者も「正道を歩まなければならぬ」なんて意味なら、当たり前な話なんであって、それを殊更、かっこつけて言うようなことでもなかろうに。
藤田氏はご丁寧に「同盟」の内部の「間違った考え」の事例を数え上げてご教示してくれているが、それは誰よりも「同盟」の内部で誠実に運動を進めようとしている少なからぬ人びとが歯噛みする想いで考えていることなのだ。
例えば奈良などでは、不幸な「運動の分裂」などがあるようだけれど、藤田氏は一方の側に「肩入れ」をしているように蛙には見える。
蛙は「事情を知らない」から、ただただ誠実な努力の積み重ねで「再統一」の一日の早いことをと祈るばかりだが、「分裂」の「裂け目」を更に深くするだけのような行為はやめてもらいたいものだと思う。

ついでに、以前にもゆうたことを再度言っておきたい。
藤田氏は、朝田善之助らとの酒席で杯がまわってくる時、「震えがとまらなかった」と言い、それが「自身の成育歴の中で、ことに家族から受け取った差別意識のせいだった」とし、その後「の人びととの交流を通じて差別意識が氷解した」というようなことを言っている。
蛙には皆目理解できない話だ。
なぜ「震え」なきゃなんないんだ!
「の人間」と仲良しになったら「差別意識」はなくなるんか?
蛙には、藤田氏について「自分自身を問う」深い思索が全く感じられない。
それだから、今でも藤田氏の「ものいい」の態度がいかにも「人を馬鹿にしたような」風になるのだと思うのだ。
蛙は、なによりも「謙虚さ」ということが、誰にとっても大切なことだと思うのだけれど。

 

一から始める蛙の解放理論 5

2009-10-30 18:22:02 | 日記

生意気な言い方だけど、にしろ解放同盟にしろ、蛙は一度も「差別」を本質的に捉える「理論」を獲得することはなかったし、それだから「完全解放の道筋」を一度も提示できなかったと考えているのだね。
勿論、蛙にだって「できる」話ではないのだけれど、「そうなのだ」って自覚は大切だと思っている。
それでも、にしても同盟にしても「存在意義」はあったんだ。
何よりも、圧倒的な「量」である「差別者集団」(『敵手』は『全体』なんだから)に抗して、「吾等の団結だけが『それら』に抵抗していく威力(ちから)なのだ」という共通認識。
これは重要なことだったんだ。
人間、「一人ぼっち」って「感覚」ではとてもじゃないが「やってられない」よ。

「被差別・民」以外は知らないだろうけれど、「この地域」に生まれおちた「人間」は、まず最初に「訳の分からぬままに」自身が「そのように呼ばれる民」であることを「思い知らされる」のだね。
そしてそれは、「自分のムラ」だけが「特別視」されているかのように「思わされる」し、そのようであるからして、「多分、こんな感覚を抱かされたことを親・兄弟姉妹にゆうたら、きっと悲しい想いをさせるに違いない」って思うから、ずっと「胸の内、奥深く」にしまって置こうという風に反応するんだ。
長じて「解放運動」に「出会った者は幸いである」と言える。
でなければ、「鬱屈する想い」は消えることが無い。

「出会った人間」は、まず、「この問題」が「自分のムラ」だけじゃないんだ、全国に「これだけ多くの『同じ想い』を持った仲間がいるんだ」ってことに気付かされる。
69年に天理市で「全国奨学生集会」が開催されて、ここに参加した出身高校生達が「次代」の中心的な「活動家」に育っていったのだろうと蛙は考えている。
40年前になるのだから、このメンバーは、「その時の感動」を腹の底に据えて「一つの時代」を作ってきたし、「彼ら」の果たしてきた役割の評価も大いなるものであったのだけれど、蛙は、「この後の展開」に大きな「疑問符」を感じている。
「自分ひとりじゃない、大勢の仲間がいるんだ」ということは勇気にはつながるが、そこのところからの「一歩」を、今のところ、誰も「指し示してくれてはいない」のだから。

蛙にだって、よくは分かっていない。
ただ、「分かっていない」ということを「認識」することは大事なんだと思う。

本年3月の同盟の大会で、「派遣村に荊冠旗は立っていたのか」という質問をされた方がいた。
納得のいく回答はなかったが、「この時代・この局面」で同盟が「何をなすべきか」、もっと全般的な視野の中で、手探りでもいい、頑張っていくことが「楽しい」、そういう「闘い」を構築していかなければならないのだろうと蛙は思うのだね。

 

「反貧困」を読んだ。

2009-11-01 22:08:46 | 日記

「反貧困」(湯浅誠・岩波新書)は是非読んでおかなければ、なんて思ってたんだけど、蛙が本屋を覗く度に縁が無いというか、なかなか手に入らなかった。いくらでも方法はあっただろうけれど、多分、書かれている内容は蛙の想像の範囲内のことと考えていて、「いつでもいいやッ」ってくらいな気持ちだった。
漸く巡り合えて読み終ったところなんだが、その「頑張り」とか「思想性の高さ」とか、想像の範囲内とはいえ、なかなかなものだったと思う。
例えば「多重債務問題」や「生活保護申請相談」など、蛙が取り組んできた「仕事」と少しは重なるが、そのスケールの大きさとか「意味の違い」など、考えさせられることが多かった。
「福山全研」で「差別・貧困・格差を打ち破る・・」という三つの語句がかくも簡単に並列されることに違和感を覚えたと記したが、「ここ」は難しい話になる。

蛙は自分でも思うのだけれど、悪く言えば「第一主義・排外主義」の傾向が無きにしも非ずというところがある。
「内向き」なんだ。
「自分のムラ」や蛙の手の届く「範囲内」でパーフェクトを目指そうとしてきたのだから、いた仕方ないということもある。
ただ、自身の行為の意味を、世界―日本経済、或いは社会史的な中で、考えていかなければならないとは思っていた。

「差別」と「貧困」とは「次元」の違う「問題」であり、「格差」とは「二種類の問題」なのだということも思う。
それらの構造的な連関を解き明かしていく作業は手順に上っていない。

今のところ、「派遣村に荊冠旗がたつことは無かった」し、「派遣村」には「マイノリティ問題」を考える余裕など無かったのだけれど、それなりに「力」を蓄えてきた「解放運動」の側から「次元を超える取り組み」があってしかるべきだろうし、蛙も何がしかの努力はしていかなければなるまいとも思う。

 

一から始める蛙の解放理論 6

2009-11-05 18:44:55 | 日記

「強くなければ生きてはいけない。優しくなければ生きていく値打ちは無い。」なんて台詞があったような気がする。
蛙がゆうたんでは似合いも映りもせんけど、高倉の健さんあたりがゆうたら「かっこえぇ」んじゃろうけどね。
「解放運動」の「現場」なんてのにおると、「問題は『の問題』ではない。『を差別する人』の側の問題なのだ」だとか、「女性差別の問題は男性の側の問題」「障害者差別は健常者側の問題」なんてことを何遍も何遍も聞かされるわけだ。
これは全くその通りなんであるが、そういう台詞を百千万回繰り返したところで、蛙はちょっとも前に行けるような気がしない。
それよりか、冒頭の台詞の方が「ずうっと大事なんだ」って思う。

蛙の「立ち位置」では「差別事件」に頻繁に付き合わされることになるのだけれど、「考えていること」と言ったら、「この人」が「ここ」で踏ん張れるかどうか、それだけなんだ。

実際、今の世の中の在り様からゆうたら、「誰かをメチャンコ踏みつけて憂さ晴らしでもしなくちゃやってられないよ」って気分、分からんでもない。
蛙は「差別者を擁護する」ようなこと、言ってるみたいだね。
「擁護」ってことになるのかも知れないが、「憐れな奴じゃなぁ」ってくらいかなぁ。

まぁ、本音はそうなんだけど、「現実的対応」のところでは、「誰からも理解されるような『言い様』や『立ち居振る舞い』の工夫」ってことになるんだ。
味方の筈の「仲間」を「敵」にまわさんようにはしなくちゃなんないもん。