続・蛙独言

ひとりごと

3人目の孫

2010-08-28 08:13:34 | 日記
17日に娘が女児を出産して漸く昨日自宅に帰ってきた。
少しく新生児の方の体調でトラブったところもあったようだが、順調に回復もし、母子ともに健やかであるようだ。
息子の方は5歳と1歳7カ月の男児であったから、3人目の孫ということになる。
こちらの方は関東在で頻繁に会えるわけではないが、スカイプなどという便利なインターネットツールのお陰で毎週「テレビ電話」などでコミュニュケーションがとれる。
下の子も「飛んだり跳ねたり踊ったり」、騒々しい限りだ。
世間では「孫ほど可愛いものはない」などという風潮があるようだが、蛙の方はそれ程の感慨はない。
これ程の「厭な世の中」に生まれ出てきたことを思えば、その責任の一端を担うものとして「たいしたこともして来れなかった」という忸怩たる想いもある。
孫たちには、これからふりかかってくるだろう災厄に挫けない強さと、しなやかな優しさを手にしてくれるよう祈り、願うばかりだ。

娘の方は、どういう風に考えているのか、突っ込んだところは分からないが、世に言う「結婚」などという「制度」は選択をせず、「事実婚」ということらしい。
「夫婦別姓」が「民法改正」で論議されたりしたが、これは今のところ実現をしていない。
詳しく「この問題」を考えてこなかったが、ただ「自分の名前を変えたくない」という意味だけなのだろうか。
「反対論者」は「伝統的なこの国の『家族』の在り様を壊す」という理由であるらしい。
蛙の考え方では、もっと過激な「反天皇制」に繋がる「思想」なのではないかなどということになる。
実際、「この道」を「歩いて」みて、「新しい発見」をするようだ。
蛙がびっくりしたのは、「籍を入れない」ままにでも「夫」の「扶養」制度が利用できる、「夫」の健康保険(社会保険というのか)に入れるということだ。
そういうことなら「民法改正」などという至難な技が成立できていなくとも、実質「夫婦別姓」は半ば実現しているようなものではなかろうか。
いづれにしろ蛙は「人がどのように生きるかは個人が選び取ること」であって「国」や「他者」からの「絶対の自由」が保障されているべきだと考えている。
蛙のツレアイは「フツーの人」だから、口を開けたら「入籍はすべきだ」と言っているようだし、「親の主義主張で子どもの運命を決めてはならない」などとも言う。
念頭にあるのは、子どもが就学年齢に達した時「こういう選択が招くかもしれない不利」、もっと直截的に言えば「差別」ということになるか、そういうことであるのかも知れない。
ここのところはツレアイと35年以上連れ添ってきても埋まらない溝がある。
蛙は「安易な道は選ばない。それがどんなに困難な道であっても信念は曲げない」と思ってきた。
勿論、様々な「妥協」はせざるを得ず、という場面も多かったけれど....

つくつくぼうしが啼いたから

2010-08-23 21:20:06 | 日記
今日、8月23日の朝日新聞朝刊・11面で「今、再びマルクスに光」って記事があった。
最近、そういう種類の本もたくさん出てる。
いいのもあるのかも知れないけれど、「こりゃどうなんかなぁ」なんてのもあるようだ。
まぁ、「マルクスが正しく読まれる」ということであればよいのだけれど。
この記事でジジェクの「ポストモダンの共産主義」(ちくま新書)も取り上げられている。
蛙はこれを読みおわって、頭が破裂状態であったのだね。
たくさんのことを考え直さされたわけだ。
蛙が蓄積してきた「思想」の総体の洗い直しが求められているように思ったんだね。
例えば「ロシア革命の意味はなんだったのか」とか、この200年くらいのスパンでの世界史的事象の評価など。
ただ、ジジェクと蛙が共通するところといったら、「反資本主義」とか「コミュニズムを於いて外に人間の未来は無い」といったところか。
日本共産党とか中国共産党とかを含めて、これまであった「共産主義の政党」が碌でもないものばかりであったから、「コミュニズムに対する誤解・偏見」は「当を得た」ものであったわけで、「コミュニズム自体」が「死んだ」わけではないんだ。
この本は何遍も読み返すことになるだろう。
「ロシア革命」ってこともあって、少し時間があったから「映画・レッズ」を見直していたりした。
三宮高架下の中古ビデオショップで「100円」で出てた「2巻物」、ウオーレンビューティ主演・監督の、「世界を揺るがした10日間」を書いたジョン・リードの生涯という話だ。
これを見るのは3回目なんだけど、「十月革命」の場面で流れる「インターナショナル」の大合唱では蛙はいつも感涙を禁じえない。
確かに、あの革命は「人間には未来があるのだ」という希望を世界に与えたこと、それは間違いない事実だ。
もまた、ここからおおきな勇気を得て「創立」されたのだから。
今では「それは幻想に過ぎなかった」ということはたやすい。
実際は、「それ」が何故「幻想」に終わったのか、「何」が欠けていたのか、「コミュニズムの可能性は現在もあるのか」、そう問われている。
ジジェクにしたところで具体的なプログラムを提示できるわけではない。
「われわれこそ、われわれが待ち望んでいた存在である」という「結び」は、蛙がいつも考えている「いつも〈自分〉のところから」という話に重なるのだろう。

つくつくぼうしが啼いたから、そろそろ夏も終わるだろう。
蛙もしっかり活躍しなければ。

暑すぎだッ!

2010-08-14 10:20:37 | 日記
「蝉しぐれ」なんどとゆうたら如何にも「夏の風物詩」ってところなんだろうけれど、蛙ンチときたら公園の中に建ってる一軒家みたぁなもんだから、その鳴き声ときたらそりゃぁまぁ凄まじいものなんだ。
「本人たち」にしてみれば「熱い恋の季節の歌」を唄ってるってことなんだろうね。
それだから、腹立ててもしようがないってわけだけど、実際、かなわないよ。
一応、仕事には行けてるから、バテバテなんだけど、不調とまではいかないのかなぁ。
「脳味噌」が「とろけちゃってる」具合で、まともなこたぁ一つもできていない。
スラボイジジェクの新しい本が「ちくま新書」で出てたんで読んでるんだけど、あまりに挑戦的で、しかもシニカル、アイロニカルな表現の「迷路の森」に踏み込んでいくようで、ページが進まない。
蛙のような「脳構造」の単純な人間には「ちと難解」」。
三分の一くらいなところだけど、問題意識としては蛙と重なるようだから、しっかり読破しなければってところだね。
読もうと思って「あまりに難解」ってところで止まってるのもいくつかある。
サイードの「オリエンタリズム」と関連本・姜尚中「オリエンタリズムの彼方へ」などがそうだし、親鸞の「教行信証」もそうだなぁ。
まぁ、夏が終わって「本格的な読書の秋」ってことになったら、も一度ページを開いてみるか。