続・蛙独言

ひとりごと

その二

2013-06-30 07:48:41 | 日記
フーコーの「監獄の誕生」についてwiki記事から引用する。
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『監獄の誕生―監視と処罰』は1975年に出版された。
近代以前における刑罰は、権力者の威光を示すために犯罪者の肉体に対して与えられるもの(公開の場で行われる四裂き刑、烙印、鞭打ちなど)であったが、近代以降の刑罰は犯罪者を「監獄」に収容し精神を矯正させるものとなった。これは人間性を尊重した近代合理主義の成果と一般に思われているが、フーコーはこうした見方に疑問を呈する。監獄に入れられた人間は常に権力者のまなざしにより監視され、従順な身体であることを強要されている。功利主義者として知られるベンサムが最小限の監視費用で犯罪者の更生を実現するための装置として考案したのが、パノプティコン(一望監視施設)と呼ばれる刑務所である。さらに近代が生み出した軍隊、監獄、学校、工場、病院は、規則を内面化した従順な身体を造り出す装置として同一の原理に基づいていることを指摘した。本書は監獄の状況を調査し、その状況の改善を要求するフーコーの実践活動(監獄情報グループ)とも結びついていた。
本書は、社会が個人の肉体を訓練することによってその個人を規律化する方法を論じている。
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「囚人」がその「規律」を拒否し自由を求めることは、「懲罰房」を恐れず、反逆し、「脱獄」を意思し続けるということになるのだろう。

アントニオ・ネグリは、フーコーがあげた事例だけにとどまることなく、既に社会の全体がそのようなシステムとして構成されていると指摘している。
ネグリについては改めてということにするが、例えば、福島第一の事故があった後でさえ、外国では考えられないような従順さを保持するこの国の「国民性」についての嘆きをよく聞くけれども、これこそが「支配の側に繋ぎとめられた者」として、このシステムがよく機能していることを物語るものだろう。
蛙によれば、明治以来続く「この国」の「学校教育」こそがそのシステムの主たるものであり、それは破壊されなければならないということになるが。

話は横道にそれたようだが、蛙は以前から「被差別(民)」とは「他称語」であると言ってきた。
「他称語」などという言葉があるのかないのか知らないが。
人は産まれついて即時的に「差別者」であったり「被差別民」であったりするのではない。
それは全体社会の中で「そのような者」として構成されるのだ。
こういう構造をしっかり意識することがとても重要なのだと考えている。

求められていることは、このシステムをそのように意識し、「反逆」する、そういうことでなければならない。

その一

2013-06-28 15:01:09 | 日記
そこそこ勉強はしてきた積りだが「問題」について唯の一度も納得のいく話に出会ったことがない。
まず、解放同盟と解放運動全般だが、ひと言で言って、これまでは「差別はいけないよ。差別したら許さないよ。」という次元を超えることはなかった。
それはそれで高く評価されなければならないことではあるが、「解放の道筋」を指し示すことができてはいないと言わなければならない。
そのように認識することはとても重要なことなのだと思う。
また、この運動の指導的な人々や、問題に関わってする学者などの意識のレベルは酷く近視眼的で、「世界」全体の「動き」の中で「問題」を位置づけていくという視点がないことも強調されなければならないと思う。
浦本さんはfacebook上で、この間の経済的危機の分析を丁寧に展開されてきて、自身の「解放運動」を世界大の中で考えていこうとされているようであるが、今のところ、成功しているようには思えない。
同盟中央や都府県連レベルの大会などでその基調報告でも、まず初めに「世界情勢」から書き出されることは普通だが、それはただ羅列的に事象が書き連ねられているだけのことで本質的な時代評価があるわけでもないし、それらのことが自らの運動とどう切り結ぶのかとかいった視点があるわけでもない。
随分以前のことになるが、そういう話を「ひょうご解放」誌に書いたことがあった。
実体経済から乖離したカジノ資本主義、新自由主義の展開に注意が払われなければならないというようなことだが、その稿で藤田敬一氏らの「こぺる」グループにも注目しておくべきではないかといったことも書いたと思う。
このグループには同盟の中の誠実な活動家も参加していたからだったが、案の定というべきか、同盟内の負の遺産をあげつらうばかりで、新しい指針を指し示すことはできてなどいない。
この拙稿に対して藤田氏からコメントがあって「問題を論じている時にフーコーなどを持ちだしてみても仕方がない」などと一喝されたことがあった。
相手の想いなど考えることもなく頭ごなしに切って捨てる態度には呆れかえったということもあって軽蔑すべき対象の一人に数え上げることにしたが、その後、同盟奈良県連からの依頼を受けて八木康介氏や吉田智弥氏らが書きあげた「答申」に対する藤田の「噛みつき方」などを見てもとても共通の志を持ってする友人とは言えないことがはっきりしたと言ってよいだろう。
意見の違いはある。
違いがあっても、批判は、相手の想いを汲み取って、どこがどう違うのか、自身の考え方と対比させるといった誠実さは必要なことなのだ。
フーコーについて、この時、蛙が考えていたことは、彼がベンサムの提案したパノプティコンという監獄の形式を引きながら、「看守と囚人」、「見られる者」と「見る者」といった一方向的な考え方ではなく、それが「囚人」をしてその「身体」をも「構成」するということ、主体的に規則を内面化していかざるを得ない「従順な身体を造り出す装置」
という指摘について、「差別ー被差別」の関係でも同じことが言えるのだということだ。
もう少し詳しく次稿で考えてみたいと思う。

再開しなくては。

2013-06-25 14:17:11 | 日記
「蛙ブログ」は自分自身の考えを整理していくことを目的にしてきたものだが、少ないけれど、「ブログ読者」からの貴重な意見を拝読することもまた有意義なものだったように思う。
このところ皆目更新ができていないのは、23日の都議選でも明らかになったような「この国」の「腐り様」に心が打ちひしがれてしまってのことだ。
この日は「沖縄・慰霊の日」でもあったが、広島・長崎の「原爆忌」は毎年、大きく取り上げられるというのに、当日は全くの無視。
次の日の報道で安部の胸糞悪くなるような台詞を聞くことになった。
「沖縄」は「日本国」ではなく、ただの「植民地」なのだという意識がヤマトゥの中にどれほど深く巣食っているかという証左なのだ。
このところ、蛙は、実際、「滅びの日」に向かって、まっしぐらという感覚に襲われている。
「沖縄のこと」「福島の子どもたちのこと」etc.etc. 放置できない課題が山ほどあり、何か「できること」はないかと思うのだが、「いま」は「諦めない」ということだけは考えていかなければならないと思っているだけなのだ。
口惜しくて仕方がない。

初心に帰って、もう一度、「問題」について書いていこうと思ってもいるのだが、それもまた大層、困難な仕事になるようだ。

あっちこっちしながらでも、思いつくままに、更新をしていこう。