続・蛙独言

ひとりごと

「御用納め」の日に

2010-12-28 12:56:50 | 日記
因果な商売なもんで、世間では「本日御用納め」という日なのだが、蛙の場合、正月三が日以外、ずっと「仕事」は稼働中なんである。で、「土日」も出勤があったりして「休み」は変則的になるわけだ。幸い、「年休」は「労基法」に定められた通り、取りにくいこともあるけれど、そこそこ使えるので、まぁ、贅沢は言えない。
今日は「歯医者さん」の予約がとってあったから、お休みだ。
あと、31日までは出勤。
じっくり腰を落ち着けて「勉強」なんてことにならないが、電車通勤だから、切れ切れだけど、相当、本は読んでいる。
「文学」ってぇのが苦手だなぁ。
蛙の関心事は「ことば」とか「脳科学」とかってことになるので、随分、そこいらあたりを読んでいるわけだけれど、最近読んだところでは、「ちくま文庫・脳はなぜ『心』を作ったのか」は面白かった。著者は前野隆司という方だが、副題に「『私』の謎を解く受動意識化説」とあるわけだが、「心」とか「私」とかについてのこれまでの考え方では解けなかった問題を「すっかり分かった」としている。それは「天動説から地動説へ」の「コペルニクス的転換」に例えられている。蛙はおおよそ首肯できるが、未だ「仮説」であるからして大方の支持は得られていないのだろう。
Amazonのこの「本」のカスタマーレビューも読んでみたが、評価は高いようだ。
まッ、騙されたと思って一読、いかがだろうか。

この頃

2010-12-19 18:04:43 | 日記
本年も残すところ後僅かということになった。
相変わらず、ごちゃごちゃしたことでなんだかだと忙しい毎日。
16日の木曜日には「狭山再審を求める市民集会」ということで東京。
5回目の三者協議だったけれど、大きな進展は残念ながら無かった。
3月には6回目が予定されているようだから、来年が正念場ということになる。
楽観は許されないが「流れ」は「再審」へ、なのだと思えるし、必ず「それ」を手繰り寄せるために更なる踏ん張りが要請されているということなのだろう。
18日土曜日には、尼崎市の「人権啓発研修」ということで、ウチのムラまで「取り組みを学ぼう」みたいな企画で少人数だったが、お出でいただいた。
「なんでまたウチに?」なんて思ったものだが、市の「啓発推進企画委員」に中川喜代子先生がおられて、先生は60年代に山本登先生らと一緒に「地区調査」で、ウチのムラに入られたことがあったからだ。
中川先生はウチのムラの「変貌ぶり」にはびっくりされていたようだ。
そういうことで1時間ばかり蛙の「講演」ということになって、何の準備もせず「行き当たりばったり」な話をさせていただいた。
どんな風に受け止められたか心配なところだが、まぁ仕方がない。
「同盟の『これまで』と『これから』と」みたいな話にしたのだけれど…
そこいら辺をもう一度、ブログでも繰り返しておこうかなぁ。

「複雑系」

2010-12-14 19:56:06 | 日記
「複雑系」についてwiki記事を引用しておこう。
× × ×
複雑系(ふくざつけい complex system)とは、多数の因子または未知の因子が関係してシステム全体(系全体)の振る舞いが決まるシステムにおいて、それぞれの因子が相互に影響を与えるために(つまり相互作用があるために)、還元主義の手法(多変量解析、回帰曲線等)ではシステムの未来の振る舞いを予測することが困難な系を言う。これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則に還元して理解する(還元主義)のは困難である。複雑系は決して珍しいシステムというわけではなく、宇宙全体、天候現象、経済現象、人間社会、政治、ひとつひとつの生命体、あるいは精神的な現象などは、みな複雑系である。つまり世界には複雑系が満ち満ちており、この記事を読んでいる人間自身も複雑系である。ただし研究者にとって具体的な研究成果が出しやすく、書籍などで一般読者などに紹介されやすいものとなると、もう少し小規模の複雑系あるいは限定したものとなりがちで、例えばウイルスの流行状況、大規模交通(フラックス)、バタフライ効果、エントロピー(熱力学第二法則)などが多い。あるいは、パーコレーションやセル・オートマトンなども好んで扱われる。最近では、系の自己組織化の様子をコンピュータにプログラミングして、複雑で法則がないように思える目で見えない発達形成過程を視覚化して把握しようと試みられている。複雑系はキャッチコピーとして乱用されている場合が非常に多く、また著者によって定義の異なる場合の多い曖昧な術語である。そのため、対象、現象、数学的手法などが上記のようなものに含まれるものを複雑系という言葉で包括的にあつかうということを目的としたある種の雰囲気を伝えるための用語であるともいえる。
× × ×
何冊か、「複雑系の科学」といった「入門書」程度のものも読んできたがよく理解できているわけではない。ただ、一般的に「西洋合理主義」的に「ものごとが処理されてきた」ことの欠陥は蛙も感じているところではあった。
「事象」につて「分析」がなされ、それを受けて「操作」が考えられるという場合が普通なのだろう。
例えば「問題」ならば、その「歴史」を解明し、その「現実」を調べ上げ、もって「問題解決」の処方箋を練り上げる、というようなことだが、言ってみればそれは「一次関数」のような発想であったのではないか。
「社会」はひとつの「全体」なのであるから、「差別」という視点にしぼって考えていく場合、様々な「差別ー被差別」関係との相互作用とかをはずしては結論は得られない。
ずっと以前に聞いた話だが、例えば「関東大震災」の「朝鮮人襲撃」について「歴史がもっと違った経過を辿っていて、この国に『在日』がいなかったならば、襲撃の矛先は『』であったに違いない」などということもあった。さもありなんと蛙は思う。「差別者」にとっては「標的」は誰でもよいのだ。「社会の安寧」を求める「支配層」とその「走狗」どもには常々「攻撃対象」は準備されている、
それだから我々は「全体性」を注意深く吟味し、全戦線の連携をどう構築していくのか、そういう姿勢でいなければならないのだ。

猫の首に鈴

2010-12-07 21:18:49 | 日記
イソップの寓話に「猫の首に鈴をつける」という話があったように思う。ねずみ達が猫に仲間が襲われるのを防御するに「衆議一決、猫の首に鈴をつければいい」ということになったのだが、はてさて一体誰が「それ」をするのかという段になって結局御破算になったというような話だったか。
例えば「問題の解決」とか、或いは「この国の困難に立ち向かう」とか、そういう場面で様々な「論」が言われるが、蛙はいつも「この話」に想いをいたすことになる。
「君の言っていることはいいけれど、それは『誰』が『どうやって』って話が抜け落ちてるんでないかい?」ってことだね。
蛙にだって「それ」が分からない。
「武器三原則見直し」などという話もある。
こりゃ明らかにアメリカからの強圧ということなのだけれど、菅政権は取り敢えずの国会運営で社民党を取りこむために一定の、見せかけだけのことだけれど、「譲歩」という選択をしたようだ。「この国」の総資本の側も「見直し」の側に立っているのだから、タイミングをみて早晩「流れ」はそちらに向かうことになるだろう。社民党が「裏切られ」て捨て去られるのは必然のことなのだ。
圧し止めることは可能なのだろうか。
蛙にはそれが分からない。
ただただ愚直に「平和」と「民主主義」を主張し続ける、それ以外に方法を思いつかない。

苦悩

2010-12-06 18:35:23 | 日記
TPP(環太平洋経済連携協定)については以前、蛙も一言したところだけれど、北川ブログでも触れられている。コメント欄に貼り付けておくので御一読を願いたい。
農水省では「強い農業」などということが言われているのだけれど、そんなものがあるわきゃない。
だいたい、農業は「競争原理にはなじまない」というのが蛙の立場だね。

朝鮮半島をめぐる「緊張」も、こりゃ「どうしようもない」話だ。
日米韓中・「北」を含めて、「支配者層の思惑」で「どっちに転ぶか分からない」、おまけに「当事者」でさえ「どういう選択肢があるのか」ってところで「思案投げ首」って話なんだろうと蛙には思える。
「表」には出てこない「すり合わせ」が「この5者間」でやり取りされているはずだ。
何といったって「戦争」は「アメリカにとっての最大の儲け口」なんだから、自身が傷つくことがないなら「再度の朝鮮戦争」も計算内だろう。
アメリカにとっては、それが「日中韓」との「関係」でプラスマイナス、どう評価できるか「悩ましい」ところなのだろうと思う。
「東アジアの平和」などがアメリカの「原則的な尺度」にある訳ではないのだ。

「ストーンリバー」ブログで「マルクス」の話があったが、そういう簡単な話では無いんだ。
既に「歴史」は「マルクスの時代」を、また「レーニンの時代」を、もっと言えば「ベトナム」「キューバ」の時代を終焉させ、「未来を切り開く」そうい展望を「見失った」地点にある。
アントニオ ネグリの主張に耳を傾けなければなどと思っている。

明らかに「この国の産業構造」は質的転換を遂げ、被支配層の団結の「契機」が「いづれにあるか」、それもまた分からない。

そんなわけで、蛙の「脳味噌」は「空中分解」、空間に彷徨って破裂ってわけで、「ものを言う元気もない」情況は続くのだ。