パソコン歴も30年は超えたろうから、相当なもんである。
ところが、我流でやってきたものだから、実は皆目分かってはいない。
このところ、体調が悪くて「もっと前に」とは思うのだが、思うにまかせない。
「解放運動」について、新しい時代に見合った理論をと考えて、ブログで色々書いてきたが、それもストップしたままだ。
以前に書いたのを一部、再掲することから初めて、少しでも前進していきたいと考えた。
以下、過去の文章から。
Yさんからお葉書をいただいた。
蛙からのメールと購読カンパの受領という内容で、こういうのって大概メールで済ましてしまうものなんだろうと思うけれど、「昔人間」なんだなぁって思う。
蛙は年賀状は勿論、一切、「私信」として郵便など使うことがないのは「無精者」なんだからだろうね。
葉書には二つのことが書かれていた。
ひとつは、「独自の解放論」を蛙が展開しようとしているようだが、「いつも途中で尻切れトンボになっている印象」という話。
それは自分でもよく分かっていることなのだけど、基本的には「総体としての『歴史』或いは『世界』の根本的変革」が可能であるか、そういう中でしか「人間の解放」はあり得ないのではないか、そのような「たいそれた枠組み」で考えていこうとしているということもあるからだ。
これまでの「ブログ」でフーコーの「監獄の誕生」についてふれたことがあったが、「被支配」の側の「身体」が「支配」の側に迎合していくように「構成」されていくメカニズムこそ、決定的に重要なことなのだろうと思っている。
「いじめ」などについて考えてみても、「明治」以来、「学校教育」の果たす役割の持続性の故であるのであるから、これはもう「解体」或いは「破壊」をおいてほか脱出の術はないのではないかなどと、できもしないことを主張していたりもするわけだ。
また、世界史的現段階は「ブルジョアジー対プロレタリアート」という構造を突き抜けて、「新しい時代」ということになったのではなかろうかという想いもあって「アントニオ・ネグリとマイケル・ハート」の仕事を理解しようと努めているところでもある。
というわけで、「尻切れトンボ」は今後も当分続くことになる。
またひとつには
「の子ども達の中から医者や弁護士を生み出すことは高名な解放理論家であるO氏の『夢』でしたが、実際に弁護士になった橋下の『裏切り』をどう捉えておられるのか。どこに間違いがあったのか。そういうことを蛙氏に解明してほしいな、と前から思っていた..」
という話もあった。
O氏って大賀さんのことなのかと思うが、蛙はその「夢」が「どのように語られたか」を知らない。
朝田善之助の3C(教師・弁護士・医師)運動を随分以前に批判したことがあったのだけれど、の子どもたちがそのような力をつけていくことに反対するわけではない。
そのように力をつけても「差別を無くしていこう」とする側に立ちきることがなければ何の意味もないということだね。
ウチの支部の貞ちゃんは言っていた。「識字識字ゆうても字ぃ覚えて字ぃ知らんもんを馬鹿にするようになるんやったらやらん方がましや」と。
それだから蛙は橋下が「裏切った」とか「間違った」とかは思っていない。
出身の国会議員とか各級議員、政令指定都市の首長、大学教授等など、「世間」で言うところの「エライ人」はこれまでもたくさんいたし、これからもそうだろうと思う。
問題は「どっちゃ向いてるねんッ!」って話でしかない。
例えば狭山弁護団の中山さんだが、氏は自身の生い立ちを語られる中で、ご両親の生活と解放運動にかける姿について話されている。
問題は「どんなところでどんな風に生きてきたか」ということなのだろう。
橋下の「憎し」は実は「そこのところ」に鍵がある。
ヒトラーがユダヤの血を受け継いでいるのではないかと疑念をもった話は有名だ。
多分、ヒトラーをモデルにしていると思うけれど、ハリーポッターの敵役、ボルデモートもまた、マグル(人間)との「混血」であることを激しく苦にして「純血主義」を貫いた。
このファンタジーはあまり注目されないが、蛙には「反差別」の物語なのだと考えている。
橋下は「」を否定的に捉えているのであるから、これまでの経緯は必然だと蛙は考えている。
そんなことを言った覚えはないと今では言うかも知れないが、橋下が初めて府知事になった折には、宝塚のある支部では最大級の祝辞があげられたことがあった。
「世間」は知らないが、の側では「その人」が出身かそうでないかは早くから知り得る位置にある。
「」出身者の「出世」は「おめでたいこと」と受け止められることは多いが、「問題」は中身なんだけどなぁ。
さて、「解放の道筋」ということだが、蛙の考えによれば、「それは『ことのついでに』解決されるだろう」という話になる。
いささか乱暴な表現だから大方の人々からは「何ゆうてんねんッ!」ってお叱りを受けるだろうが、実際、そうであるほかないのだ。
時代に「解消論」という話があった。
これは蛙の理解するところでは、「身分差別としての差別、徹底糾弾」という路線から、「労働者階級解放の革命の勝利」への転換を求めたものであったのだろう。
それだから「水平運動」の「共産主義運動」への従属が主張されたと考えられる。
1917年の「ロシア革命」という時代的背景がある。
世界の被抑圧民衆にとって、それは「希望の星」であった。
91年の「ソ連邦崩壊」に至るまで「裏切り」続けられた歴史があったわけだが、仮に「世界革命」が勝利していたなら、もっと違った展開があったのかも知れない。
そういう夢想をしてみても詮ないことではあるが。
いずれにしろ、この「二項対立」は、ずっと尾を引くことになる。
前稿に記した通り「差別―被差別」の構造は「身体」にまつわり付いた「関係概念」であるから、この「二項対立」はそもそも初めから成立をしない。
「階級闘争か身分差別反対闘争か」という「問い」自体がナンセンスなのだ。
広島県連は「身分と階級の統一的理解」ということを言っているが、「解放運動を考える際に階級闘争についてもあわせて考えていかなければならない」と言っているだけで、間違いとは言えないが、内容はない。
問題は「階級闘争」をどう理解するかということだ。
マルクスとエンゲルスは「これまで」の人間の歴史を概括して、その「動因」として「階級闘争」をあげたのだし、それから「その当時」の現実から「資本制社会」の必然性を明らかにし、あわせて「次代」の展望として「ブルジョア階級が産み出す革命的階級としてのプロレタリアートとその『勝利』の必然性」について言及したのだった。
それだけのことで「それ以上でもそれ以下でもない」のだが、この後、「歴史を見る目」としての「階級史観」が拡大解釈され、「行動規範」にまで高められてしまった。
現在、階級史観の評判の悪さは「ここ」に由来する。
曰く、「君の行為はブルジョアに利する階級的裏切りである」。
曰く、「労働者階級の一部の行為を糾弾することは敵を利するものであって許されるべきものではない」。
解放同盟と日本共産党の軋轢は、双方の「階級史観の教条主義的理解」によっている。
蛙はずっと「プロレタリア階級って『どこ』にいるんだろう?」って思ってきた。
最近、アントニオ・ネグリを読み始めて、「時代は大きく変遷を遂げてきた」ことをようやく理解できるようになってきたと思う。
それで、「解放」が「ことのついでに解決される」とはどういうことか、その辺りを続けて書いていこう。
「解放は『ことのついでに』達成される」などと随分乱暴な言い方をしたけれど、なにも「それ」が「大した問題ではない」と言っているわけではない。
「それ」がどのように達成されるか、誰も言い当てることは現状、不可能事ではあるが、例えば、在日外国人差別が、或いは沖縄が、福島に象徴される「地方」差別が、その他の様々な差別が現状のままである限り、ひとり「差別」だけが解消されることなどあり得ないことは明白であるだろう。
2011年に同盟の新綱領が策定されているが、その折には蛙ブログでも何か書いてきたと思うし、朝田三命題もずっと以前から批判してきたのだが、なにせマイナーなブログであるからしてごく少数の人々にしか読まれてはこなかったと思う。
「綱領解説のための基本文書」でも三命題の批判が書かれているが、まさか蛙の主張が「読まれてきた」わけではなかろうから、「問題を考えれば誰もが同じ結論に至る」ということなのに違いない。
ところで「綱領」には以下のような面白い(と言ってはいけないか)文言がある。
解放が実現された状態とは、民であることを明らかにしたり、歴史的に差別を受けた地域が存在していても、何らの差別的取り扱いや排除・忌避を受けることなく人間としての尊厳と権利を享受し、支障なく自己実現ができる社会環境になることである。
間違ったことを書いているわけではなかろうが、これは全くのトートロジーというほかない。
「解放が実現された状態」とは「差別がなくなった状態」だというのだから、これ程トンチンカンな話もないだろう。
「解放」というアポリアは、「行きつくべき場所」を措呈して「ものを考える」という方法はなじまないのである。
「解放運動」とは「現実」を変革しようとする「運動」以外の何ものでもない。
いつか浜野君の台詞について書いたことがあった。
蛙は住井すえが嫌いだから「橋のない川」は読んではいないが、その中で「って治るん?」という話が出てくるんだそうだ。
で、彼は「その話」を下敷きにして「わし、もう『』、治ってん」てなことを言っていた。
解放の運動は、その闘いの過程で、「被差別民」を「個人として」解放していくということはもっと強調されなくてはならない。
勿論、その延長線上に全ての解決が待ち受けているわけではないが、とりあえず「まずは『私』がすくわれなければならない」ということだ。
ずっと以前に「差別―被差別」の関係は「非対称」であるということを書いた。
「右手と左手」とか「コインの裏表」とか、対称的な事例はあげればきりがないが、要するに二つの事象が同等の重さを持っているということだ。
ところが「この関係」では、全く、それが持つ「重さ」はかけ離れたものになる。
「差別する側」にあっては、その行為が「被差別の側」にどのような「重さ」をもって受けとめられるかということは実は分かりようがないのだ。
「いじめ」についても同じことが言えるだろう。
「相手の身になって考えよう」などということが言われたりするが、それは殆ど不可能事なのだ。
先の稿で「つきあっている女性からアイヌであること告白された先輩」の話を書いたが、「相手の身になって」という作業は相当な困難なものになるのだ。
「好もしく思う相手」であるから、その困難に挑戦することができる。
蛙がそのように言うについて「そんなことは分かりきった話だ」と思われるかも知れない。
しかし実際のところ、それが徹底して認識をされているわけではないのだ。
例えば運動の中で「両側から超える」などという馬鹿げたスローガンをあげる人々がいる。
そのような人々には「このこと」が皆目分かってはいないと言わなければならない。
また、「差別問題に中立的立場はない」などということもよく言われたが、そのように問題を立てることもまた馬鹿げた態度というほかない。
「被差別の側」から「そのように問われたら」問われた人はただ口を閉ざす以外に方法はない。
「差別―被差別」の関係が「非対称」であることを徹底して自覚するところから始めなければならない。
常に「具体的事実」に即して対抗策が考えられなければならない。
例えば学校で「いじめ」に直面している子どもがあったとして、必ずその子に寄り添い、話をきちんと聞いていく、そういう作業が決定的に重要になる。
「いじめ」ている側への「指導」も十分な工夫をもって対処しなければならないが、もっとも大切なことは「いじめ」られている側の子に「君は支えられているのだ」ということを強く伝えることだろう。
「差別」についても全般的に支配的な「差別意識」と闘うことは困難なことではあるが、具体的な事例が起こった場合に「被差別の側」をどれほど強力に支えていくことができるか、それが最も重要な話になるのだ。
「差別」をなくすること、解放同盟は「その方策」を行政に求めることを最重要なこととしているように蛙には見受けられる。
「行政」に取り組んでもらう課題はあるだろうが、「行政」に「解放」を期待することは大きな間違いだといわなければならない。
まっすぐに行く道筋は「自力解放」以外ではあり得ない。