蛙は「差別」なんて話は「日常茶飯」なことという風にゆうてきた。
だったら「差別糾弾」なんてことも一杯いっぱいあるんかとゆうたら、そりゃまたちと話が違う。
「日常茶飯」とゆうても、蛙とか「この人」とかが具体的で個人的な「場面」で「24時間365日」、「差別攻撃」に晒されているという話じゃない。
ネット上の「掲示板」などでは、これは「落書き帳」のようなもんやから、無責任で無茶苦茶な「差別文言」は溢れかえっていると云っていいけれど、蛙は「これ」については「管理者」や「プロバイダー」への対応など可能な働きかけは必要かもしれないが、基本的には「放置しておくほかない」と思っている。
勿論、憤怒ということはあるけれど、「書き手」の側は「面白がって」のことだから、「騒ぎ」が大きくなればなるほど「喜んで」いるはずだからだ。
ただ、それでも、誰か「特定の人」が名指された場合は、引き下がるわけにはいかないが。
また一般に、会社とか、人が寄りあう場面で「」の話が出た時などには、「あそこはちょっとなぁ」とか「全然やばいよねぇ」とか、曖昧な表現は多いけれど、あからさまな差別言辞が交わされることは数限りなくある。たまたま居合わせた人が「出身者」であったり、でなくとも「人権感覚」を持ち合わせている人間ということだろうか、そういう「報告」が同盟なりにもたらされることもある。
「ある」場合もある、といった方が正しいか。
大抵、そのままに見過ごされる方が多かろう。
そういう場面できちんと対応する力を一人ひとりが持つようにならなければならないし、それが「人権教育が目指すもの」ということになるのだろう。
基本的には「差別」の「その現場」「その時点」で正しい対応がなされなければならない。
いくつかの経験から、同盟などに「差別事件」の報告がある場合でも、丁寧に調査しなければならないことがある。
例えば「対立するグループ」があって、一方の側が相手方の差別言辞を捉えて「情報」を提供、「同盟」に「糾弾させよう」といった不埒な場合だってある。
ごく最近の3年間で蛙自身の経験でも5件ばかり、そういうのがあった。
「まず、お前が勝負しろよッ!」
そのあと、どんな対応が可能か、相談していけばいい。
確かに「差別事件」があったには違いないが、そんな「厭なケース」だってあるわけだ。
「差別糾弾」という「ことば」に「何」を理解するか、これもまた、一定ではないようだ。
以前、奈良・東吉野村「汲泉寺」問題を取り上げたことがあった。
明らかな「差別事件」でありながら22年間も「取り上げられることが無かった」この事件では被差別側の岩佐住職が「1審敗訴」ということになって「控訴」、重大な局面を迎えているようだ。
蛙にしてみれば「注目して見ている」ほかないようだが、事件の概要や問題点などは多くの人には伝えて行く必要があるだろうと思っている。
奈良では中央本部派「川口県連」対「山下県連」という具合に同盟は分裂をしていたようで、蛙には詳しい事情は分からないけれども、この「問題」でも「分裂」が厭な影響をもたらしているように思われる。
山下さんたちは「糾弾闘争など弊害ばかりではないか」という立場なようだ。
この場合、蛙は「糾弾闘争」という「ことば」について思う。
例えば「人民裁判」とか「吊るしあげ」とか「暴力的」とかいったイメージを張り付けていたり、「糾弾する側が『神』になっているのではないか」などと批判したりといったことがあるのだけれど、それはあまりに一面的な理解ではなかろうか。
冷静沈着な「糾弾闘争」のスタイルはあるはずだし、第一、「その場」は「教育的なもの」でなければならないのであって、そういう「糾弾闘争」は、例えば東京都連が経験した「連続差別事件」での「犯人」との「その後」などで、積み上げられてきている「豊かな内容」はあるだろう。
山下さんたちは「糾弾を排して新しいスタイルの反差別運動を」ということで新組織を立ち上げられてきたわけだが、まさにその「時」に「汲泉寺問題」に遭遇したことを自ら「皮肉なこと」とゆうておられる。
また、入手した資料では「吉田栄次郎」という人が「東吉野村」の歴史を踏まえて「限界集落問題」という「柱」を立て「単なる糾弾闘争でない闘い方」という提案をなされているようだ。
蛙には「是非とも『糾弾』を避けたい」程度の言いわけにしか見えないし、どのような「闘い」を展望されているのか、さっぱり分からない。
とにもかくにも「控訴審」で「問題」が「差別そのものに原因する」ことを明らかにすることや、曹洞宗本山も巻き込んだ形で、内容豊かな取り組みが目指されなければならないと思うのだが。
だったら「差別糾弾」なんてことも一杯いっぱいあるんかとゆうたら、そりゃまたちと話が違う。
「日常茶飯」とゆうても、蛙とか「この人」とかが具体的で個人的な「場面」で「24時間365日」、「差別攻撃」に晒されているという話じゃない。
ネット上の「掲示板」などでは、これは「落書き帳」のようなもんやから、無責任で無茶苦茶な「差別文言」は溢れかえっていると云っていいけれど、蛙は「これ」については「管理者」や「プロバイダー」への対応など可能な働きかけは必要かもしれないが、基本的には「放置しておくほかない」と思っている。
勿論、憤怒ということはあるけれど、「書き手」の側は「面白がって」のことだから、「騒ぎ」が大きくなればなるほど「喜んで」いるはずだからだ。
ただ、それでも、誰か「特定の人」が名指された場合は、引き下がるわけにはいかないが。
また一般に、会社とか、人が寄りあう場面で「」の話が出た時などには、「あそこはちょっとなぁ」とか「全然やばいよねぇ」とか、曖昧な表現は多いけれど、あからさまな差別言辞が交わされることは数限りなくある。たまたま居合わせた人が「出身者」であったり、でなくとも「人権感覚」を持ち合わせている人間ということだろうか、そういう「報告」が同盟なりにもたらされることもある。
「ある」場合もある、といった方が正しいか。
大抵、そのままに見過ごされる方が多かろう。
そういう場面できちんと対応する力を一人ひとりが持つようにならなければならないし、それが「人権教育が目指すもの」ということになるのだろう。
基本的には「差別」の「その現場」「その時点」で正しい対応がなされなければならない。
いくつかの経験から、同盟などに「差別事件」の報告がある場合でも、丁寧に調査しなければならないことがある。
例えば「対立するグループ」があって、一方の側が相手方の差別言辞を捉えて「情報」を提供、「同盟」に「糾弾させよう」といった不埒な場合だってある。
ごく最近の3年間で蛙自身の経験でも5件ばかり、そういうのがあった。
「まず、お前が勝負しろよッ!」
そのあと、どんな対応が可能か、相談していけばいい。
確かに「差別事件」があったには違いないが、そんな「厭なケース」だってあるわけだ。
「差別糾弾」という「ことば」に「何」を理解するか、これもまた、一定ではないようだ。
以前、奈良・東吉野村「汲泉寺」問題を取り上げたことがあった。
明らかな「差別事件」でありながら22年間も「取り上げられることが無かった」この事件では被差別側の岩佐住職が「1審敗訴」ということになって「控訴」、重大な局面を迎えているようだ。
蛙にしてみれば「注目して見ている」ほかないようだが、事件の概要や問題点などは多くの人には伝えて行く必要があるだろうと思っている。
奈良では中央本部派「川口県連」対「山下県連」という具合に同盟は分裂をしていたようで、蛙には詳しい事情は分からないけれども、この「問題」でも「分裂」が厭な影響をもたらしているように思われる。
山下さんたちは「糾弾闘争など弊害ばかりではないか」という立場なようだ。
この場合、蛙は「糾弾闘争」という「ことば」について思う。
例えば「人民裁判」とか「吊るしあげ」とか「暴力的」とかいったイメージを張り付けていたり、「糾弾する側が『神』になっているのではないか」などと批判したりといったことがあるのだけれど、それはあまりに一面的な理解ではなかろうか。
冷静沈着な「糾弾闘争」のスタイルはあるはずだし、第一、「その場」は「教育的なもの」でなければならないのであって、そういう「糾弾闘争」は、例えば東京都連が経験した「連続差別事件」での「犯人」との「その後」などで、積み上げられてきている「豊かな内容」はあるだろう。
山下さんたちは「糾弾を排して新しいスタイルの反差別運動を」ということで新組織を立ち上げられてきたわけだが、まさにその「時」に「汲泉寺問題」に遭遇したことを自ら「皮肉なこと」とゆうておられる。
また、入手した資料では「吉田栄次郎」という人が「東吉野村」の歴史を踏まえて「限界集落問題」という「柱」を立て「単なる糾弾闘争でない闘い方」という提案をなされているようだ。
蛙には「是非とも『糾弾』を避けたい」程度の言いわけにしか見えないし、どのような「闘い」を展望されているのか、さっぱり分からない。
とにもかくにも「控訴審」で「問題」が「差別そのものに原因する」ことを明らかにすることや、曹洞宗本山も巻き込んだ形で、内容豊かな取り組みが目指されなければならないと思うのだが。