続・蛙独言

ひとりごと

「差別糾弾」

2010-10-21 17:08:05 | 日記
蛙は「差別」なんて話は「日常茶飯」なことという風にゆうてきた。
だったら「差別糾弾」なんてことも一杯いっぱいあるんかとゆうたら、そりゃまたちと話が違う。
「日常茶飯」とゆうても、蛙とか「この人」とかが具体的で個人的な「場面」で「24時間365日」、「差別攻撃」に晒されているという話じゃない。
ネット上の「掲示板」などでは、これは「落書き帳」のようなもんやから、無責任で無茶苦茶な「差別文言」は溢れかえっていると云っていいけれど、蛙は「これ」については「管理者」や「プロバイダー」への対応など可能な働きかけは必要かもしれないが、基本的には「放置しておくほかない」と思っている。
勿論、憤怒ということはあるけれど、「書き手」の側は「面白がって」のことだから、「騒ぎ」が大きくなればなるほど「喜んで」いるはずだからだ。
ただ、それでも、誰か「特定の人」が名指された場合は、引き下がるわけにはいかないが。
また一般に、会社とか、人が寄りあう場面で「」の話が出た時などには、「あそこはちょっとなぁ」とか「全然やばいよねぇ」とか、曖昧な表現は多いけれど、あからさまな差別言辞が交わされることは数限りなくある。たまたま居合わせた人が「出身者」であったり、でなくとも「人権感覚」を持ち合わせている人間ということだろうか、そういう「報告」が同盟なりにもたらされることもある。
「ある」場合もある、といった方が正しいか。
大抵、そのままに見過ごされる方が多かろう。
そういう場面できちんと対応する力を一人ひとりが持つようにならなければならないし、それが「人権教育が目指すもの」ということになるのだろう。
基本的には「差別」の「その現場」「その時点」で正しい対応がなされなければならない。
いくつかの経験から、同盟などに「差別事件」の報告がある場合でも、丁寧に調査しなければならないことがある。
例えば「対立するグループ」があって、一方の側が相手方の差別言辞を捉えて「情報」を提供、「同盟」に「糾弾させよう」といった不埒な場合だってある。
ごく最近の3年間で蛙自身の経験でも5件ばかり、そういうのがあった。
「まず、お前が勝負しろよッ!」
そのあと、どんな対応が可能か、相談していけばいい。
確かに「差別事件」があったには違いないが、そんな「厭なケース」だってあるわけだ。
「差別糾弾」という「ことば」に「何」を理解するか、これもまた、一定ではないようだ。
以前、奈良・東吉野村「汲泉寺」問題を取り上げたことがあった。
明らかな「差別事件」でありながら22年間も「取り上げられることが無かった」この事件では被差別側の岩佐住職が「1審敗訴」ということになって「控訴」、重大な局面を迎えているようだ。
蛙にしてみれば「注目して見ている」ほかないようだが、事件の概要や問題点などは多くの人には伝えて行く必要があるだろうと思っている。
奈良では中央本部派「川口県連」対「山下県連」という具合に同盟は分裂をしていたようで、蛙には詳しい事情は分からないけれども、この「問題」でも「分裂」が厭な影響をもたらしているように思われる。
山下さんたちは「糾弾闘争など弊害ばかりではないか」という立場なようだ。
この場合、蛙は「糾弾闘争」という「ことば」について思う。
例えば「人民裁判」とか「吊るしあげ」とか「暴力的」とかいったイメージを張り付けていたり、「糾弾する側が『神』になっているのではないか」などと批判したりといったことがあるのだけれど、それはあまりに一面的な理解ではなかろうか。
冷静沈着な「糾弾闘争」のスタイルはあるはずだし、第一、「その場」は「教育的なもの」でなければならないのであって、そういう「糾弾闘争」は、例えば東京都連が経験した「連続差別事件」での「犯人」との「その後」などで、積み上げられてきている「豊かな内容」はあるだろう。
山下さんたちは「糾弾を排して新しいスタイルの反差別運動を」ということで新組織を立ち上げられてきたわけだが、まさにその「時」に「汲泉寺問題」に遭遇したことを自ら「皮肉なこと」とゆうておられる。
また、入手した資料では「吉田栄次郎」という人が「東吉野村」の歴史を踏まえて「限界集落問題」という「柱」を立て「単なる糾弾闘争でない闘い方」という提案をなされているようだ。
蛙には「是非とも『糾弾』を避けたい」程度の言いわけにしか見えないし、どのような「闘い」を展望されているのか、さっぱり分からない。
とにもかくにも「控訴審」で「問題」が「差別そのものに原因する」ことを明らかにすることや、曹洞宗本山も巻き込んだ形で、内容豊かな取り組みが目指されなければならないと思うのだが。

「続」やけど...

2010-10-12 20:11:13 | 日記
蛙のブログは「続」になってるんやけど、古くから読んでくれている人には事情は説明をしてきたと思う。
もう65歳になったから、「死に支度」なども考えなくちゃなぁなんて考えて、何か決まり切った「会費」とか「継続料金」の必要なものは切り捨てていかなくちゃってことで、長く続けてきたNiftyの契約を解除したんだけど、「そこ」で書いてきた「ブログ」の過去ログもすっかり消えちまったんだ。
大体、パソコンの世界なんてアナログ人間な蛙にはあまり向いていない。
友人から幾分か「保存分」を貰ったから、まるっきりなーも無くなっちゃったわけでもないけれど、自分では凄い「いい話」、してきたつもりだったから、ちょっとショックやったなぁ。
「三つの命題批判」とか「これからの解放運動」なんて稿は、いづれ「再録」させてもらうかなぁ。

とにもかくにも、蛙は「かくも真暗闇な世界」に「光明を見つけることが可能か」、そういう想いで、ここんとこを生きておるんだわぁ。

壊れている頭

2010-10-11 17:59:09 | 日記
ほんでもって「世界経済・政治状況」と「解放」って、何の関係がありますんやッ?って突っ込まんといてね。
長々と喋っていく内にそれとのう繋がってくるはずやからね。
それで、中国やけど、考えてみたら、「日本」って「戦争」が終わったとき、メッチャ貧乏やったよね。みんななーも持ってなかったから、人口やって相当なもんやったし、「物を売る側」からすりゃぁえぇ「市場」やわなぁ。「買い手」側に銭がなけりゃしゃぁないけど、「あの時」でんがな、「朝鮮特需」ってのがありましたわなぁ。
実際、この国の人が「それなりな」生活をやっていけてるんは、「朝鮮戦争」で流された血の上にあり得たんやって、蛙は思いますわ。恥ずかしげもなく「朝鮮特需」などという「ことば」を吐くこと自体、胸糞悪くなりますもん。
まぁ、それも相当大事な話なんやけど、ちょっと置いといて、中国ですなぁ。
こりゃ「もの凄い人口」なんやし「もの凄い貧乏」なんやね。全体としてみればそうだわ。
「日本」は「戦後60年」ばかりで一杯いっぱいまで「経済」を発展させてきたけど、ここいら辺が「天井」、「売りたい」ものはもう行きわたってしまったから「大きな消費」は期待できない。そやから「地デジ」だの「エコカー」だの「エコポイント家電」だのちゅうて「税金」を投入して「自動車・家電業界」に奉仕って話になったけど、こんなもので事態が解決するわけもないよね。
そこいくと「中国」は「おいしい市場」だわ。
世界中の「資本」が「ここ」での「経済戦争」に勝ちぬくために算段をしていて、それがまた、したたかな「一党独裁」幹部には「よく分かっていて」様々な策略が展開されてきたし、今後もこれが「世界の動向」で「中心的な課題」になってくるやろうね。
「尖閣」もこの「流れ」の中で「繰り出されてきたジャブ」だ。
「日本国」に一応「国籍」を持つ「企業」は「中国との関係悪化」を恐れている。
中国側から「足元を見られてる」わけで、ただ、中国にしても「どの辺が落とし所か」って判断が難しいところやね。
当分はこうした訳の分からん状況は続くんやろう。
それと、人件費が安い中国やアジアへ「日本企業」がどんどん進出をしていく話についていえば、大方の人々は「産業の空洞化」などと言っているけれど、そりゃ「資本主義」の必然の流れだわなぁ。
大いに「出りゃいい」と蛙は思う。
ここからが問題だけど、「進出した先」で、なんとか「その国の売国政府」が機能している間はともかく必ず「その地」での「労働争議」が頻発をしてくるはずだ。工場で働くということは「プロレタリア魂を鍛え上げる過程」でもあるからだ。「日本人の給料がこんなに高いのに我々の給料が何故こんなに安いんだっ!」つう話になる。既にそういう話はあちこちで始まっているようだ。
「日本」の労働者よ。進出先のアジアの労働者の反乱を支えることが是非とも必要とされる日が必ず来る。
その日は近い。
準備はできているだろうか。
(つづく)

混乱する頭

2010-10-11 10:24:46 | 日記
人と会って話をする分には左程には思わないのだけれど、自分の想いを、さて、「ことば」にしようとワープロソフトに向かってみると何故だか知らず「表現を見失ってしまう」そういう日が続いている。
特別な「失語症」なのだろう。
多分、「考えていること」について「自信を持って発言するほどには自身でよく分かっていない」からということだろうね。
第1に考えていることは「資本主義社会の現段階と今後の見通し」という辺りかなぁ。
マルクスの時代にあっては「イギリス労働者階級の状態」などでも明らかなように「厳しいもの」ではあっただろうけれども、世界大で言えば未だ「牧歌的な」時代だったのであって、そりゃぁもう「剰余価値と搾取」という話になるのだろうね。
レーニンの時代には明らかに歴史は1ページ進んだのであって、「帝国主義の時代」だ。
これはもうあからさまな「力」が支配する時代であって「植民地強奪戦争」の時代だったわけだ。
わが「国」も「日清・日露」から遅ればせながらこれに参戦をする。
「一次・二次」大戦を経て、「銀河の歴史がまた1ページ」じゃないけれど、赤裸々な「植民地支配」が打ち破られ、たぶん、ベトナムでのアメリカの敗戦が時代を画するものだったろうけれど、もう1ページ、日めくりはめくられる。
例えば「朝鮮半島併合百年」で明らかなような直截的な「植民地経営」は1945年を境に「一つの時代の終わり」を告げたのだった。
蛙が若かった時には「国家独占資本主義」などという「ことば」が言われた。
元来、市民社会レベルの「資本」の「運動」は「上部構造たる国家」とは相対的に「別のもの」だったろうが、「帝国主義の時代」には「資本によって国家が簒奪をされる」ということになったのだろう。「国独資」とは「そのような特別な時代」の「資本の在り様」だった。
次のページは「新植民地主義の時代」ということになるか。
米ソ両大国の冷戦の時代、ソ連も「社会帝国主義」と呼んでよいと思うけれど、旧植民地主義時代のようなあからさまな暴力は背景に押しやられて、大国の傀儡政権を通じての世界支配ということになっただろう。
現在では「資本」は「国籍」を持たないグローバルで強大な悪魔として君臨をしている。
さて、13億人口を抱えた人民中国をどう評価するべきだろうか。
紅軍に支えられた一党独裁は破綻することはないのだろうか。
蛙には相当長い期間、この「反・人民」「中国」が「生きながらえる」ように思われてならない。
(つづく)

10月になった

2010-10-04 09:11:33 | 日記
バタバタしているうちにもう10月になってしまって、焦り気味。
色々と頼まれている仕事もあるのに左程の成果をあげることもできていないし、情況は好転する兆しもない。
前にもゆうたかと思うけど、蛙は「色男」でもないのに皆目「金も力も」無いわけで、自分の力弱さに歯噛みする想いだ。

先日、藤川正夫さんに初めてお会いして話す機会があったのだけれど、どうしてこれまでお話する機会がなかったのか、不思議な気がしたものだ。
韓裕治(ハンユチ)さんからも「外国籍教員差別」の問題について、以前から協力依頼があったのだけれども、大したこともしてこれなかった蛙であるからして「ケツをたたかれる」という場面であったわけだ。
韓裕治(ハンユチ)で検索してもらえれば、ネット右翼の排外主義暴言もあるわけだが、どんな話だか、おおよそのところは理解いただけるだろう。
兵庫県在日外国人人権協会から発行された冊子「知っていますか?外国籍教員差別を!」
がたくさんの人に読まれていってほしいと思う。
蛙も二度読んでみたが、問題の整理がきちんとできていて、よく理解ができると思う。
にしても、この国の惨めな状況にはうんざりさせられる。

冊子については「全外教HP」から「手に入れ方」が分かるので、それはコメント欄に添付しておこう。