続・蛙独言

ひとりごと

保存のために 1

2020-06-02 12:41:25 | ひとりごと

「続・蛙独言」を書き始めたのは2009年10月5日だった。

それまでNiftyで「蛙独言」と題して随分長くブログを続けていたのだけれど、Niftyを解約した途端に自分のブログさえ見れなくなってしまった。

パソコンのこと、よく分かってないから、こんなことになるんだねぇ。

 

https://blog.goo.ne.jp/tadokorokaeru/e/646b7217cb4258a760e08e5c519cab93

 

で、11年書いてきているこの「続・蛙独言」もgooとの契約が切れたら(蛙が死んだらということ)消えてしまうのも残念だから、「大切そうなもの」だけ選んで、ワードの方にコピーを残しておこうと思う。

 

ここから

本名ではないのですが、30年来、田所蛙治という名前を使ってきています。
本名より、こちらの方が「ずっと好き」ってこともありますが、解放同盟の下っ端の役職などもやっていることもあり、本名の方は「そちら」での責任も抱えることになりますから、田所名では「好き勝手」なこと書いていこうという作戦なんですね。
まッ、ぼちぼち、ということで。

 

名前のこと

2009-10-13 17:13:22 | 日記

「田所蛙治」宛で郵便物は届いていたのだけれど、「郵便事業自由化」ということで、宅配の業者の参入ということになって、こちらのは「送り主」に返送されてしまうようになった。
「札幌自由学校『遊』」の「準会員」になってるんだけど、これは「クロネコ便」を使ってて、「本名」の方も併記して「○○方」っていう具合にしてる。
「ここ」の取り組みはとても素敵で、勉強になるんだけど、まさか神戸から札幌にはおいそれと行くわけにいかない。
残念なことだけどね。
「ここ」から送られてくる「資料」は随分勉強になるから、年間3000円の会費で「準会員」登録するのはお薦めだ。

2004年の12月、旧ブログ開設の折に「名前について」ということでUPしたのを再録しておこう。
 ぼくが「田所蛙治」という名前を名乗ったのはもう30年以上も前のこと。
 当時、ベトナム戦争は凄惨な状況を極めていた。
 ぼくは為す術もなくウロウロしているばっかりだったけれど、そして結局何かができ

わけではないけれど、「考え得ること」はやってきたと思う。
 立ち止まったことは一度もない。
 チェ・ゲバラは「第2、第3のベトナムをッ!」って叫んでいた。
 この時のスローガンに「ベトナムはベトナム人の手にッ!」というのがあった。
 今なら「アフガンはアフガンの人々の手にッ!」「イラクはイラク人の手にッ!」ということになる。(民族問題など複雑な状況もあるから単純にはいかないかも知れないけれど)
 「田所蛙治」はこのスローガンの翻訳ということだ。
 「田んぼは蛙にッ!」ってわけ。
 「蛙」についての「思い入れ」が、ぼくにはあった。
 芥川龍之介の「河童」では、河童は「お前は蛙だッ!」という「差別的言辞」を吐かれて、悩み苦しみ、ついには「死」に至ることになる。
 高校生の時に読んだのだ。
 当時のぼくにとっては「蛙」は「エタ」に当たる。
 「そこ」を突き抜ける「思想」が若かったぼくには必要だった。
 うまく「想い」は表現できないが、「田所蛙治」という名前は、ぼくにとっては相当重い意味がこめられている。
 サッカー人気の中で、小中生の中には韓国プレイヤーの名前も浸透してきている。
 今では、在日の3世・4世が「二つ名前を持っている」ことについて、若い世代に「かっこいいじゃんッ!」という雰囲気もあると聞いた。
 けれども、当事者にとって「本名を名のる」ことは今でもたいそう重い。
 「アイヌモシリ」でも「ウチナー」でも「チョソン」でも、「名前」は「日本国」の権力によって奪われてきた。
 「名前」を取り返すこと、「文化」を奪い返すこと、それらは重要な課題であるだろう。
 「千と千尋」でも、支配は「名前を奪われる」ことで貫徹をされ、「名前」を取り戻すことによって「自由を奪い返す」ことが可能だったというテーマも重要な伏線として置かれている。
 それだから、「ハンドル」とか「ペンネーム」などと「ヤワ」な話は「やめてくれッ!」ということも分からないではない。
 けれどもちょっと待って欲しいとぼくは思う。
 「名前」とは何だろうか。
 親は我が子の誕生を言祝(ことほ)ぎ、その生涯に「幸多かれ」との「想い」を込めて「命名」をするのだろう。
 けれども、それは「戸籍」に登録をされ、「支配の枠組み」に組み込まれていくことでもある。

 「名前」なんて「識別記号」に過ぎないとぼくは思う。
 昔、「幼名」というものがあって、「元服」の折に「名乗り」があったのではないかとぼくは思っている。
 それだから、誰もが、自由な意志で「自分の名前を選んでいく」、そういう風になればどんなにいいだろうと思うのだ。

 


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