「週刊朝日」の差別記事について蛙のブログでも取り上げてきたが、やりきれない想いもまた強くある。
浦本君は「個人」として「週朝」と対峙してきて、最近の「意見交換」のことをちょっと書いていたが、あまりの「無知」に「開いた口が塞がらない」状態だったようだ。
小林健治さんがfacebook上で「連載・差別表現」という記事を書いていて、この問題についての考え方では貴重でもあり重要でもある指摘をUPしてくれてきた。
また、「宮崎学+小林健治 『橋下徹現象と差別』」という表題で新書が上梓されたので、これも読んでみた。
全般的印象としては、佐野眞一と「週朝・編集部」の「問題についての無理解と、そうであるが故にする害毒の垂れ流し」に対する批判、並びに解放同盟の対応の拙劣さに対する批判、知識人と称される人々の思想的退廃に対する批判等々、既に言われるべきことは言い尽されていると考えられる。
ちょっと脇道にそれるが、蛙が「馬鹿」とか「アホ」とかいうことを言う際の基本的な態度について書いておかなければならないと思う。
ウチの子どもたちが小さかった頃、なるべくそういう〈ことば〉は使わせたくなかったので、蛙は「バカって人はいませーん。バカはカバの逆立ちィッ!」とか「アホは鳥の名前ェッ!」とかゆうていた。こどもたちはどんな風に聴いたか定かではないが、「こんな〈ことば〉は使わせたくないのだなぁ」というくらいには受け取ってくれていただろうと思う。
「馬鹿」とか「アホウ」とかという〈ことば〉は文脈の中では「差別」を強める働きをすることがある。
それは「流れ」の中では「愛情表現」の〈ことば〉であったりすることさえあるし、「怒りの表現」として必然的であったりするけれども、使用する際には十分な配慮がなされるべきであり、普段から「気をつけて使用する習慣」を身につけておけば、「使ってよい〈ことば〉」になる。
また、色々な問題について勉強していくと、誰でも自身の知識がどれ程薄弱なものであるか思い知るということを経験する。
昔の人はいいことを言っている。
「実るほど首(こうべ)を垂れる稲穂かな」
佐野や「週朝」編集部のように、「そんな風には思っていませんよ」と言うだろうが、「自分程、賢い人はそうやたらとはいないに違いない」などといった「傲慢さ」がはっきり見て取れる。こういうのを蛙は「典型的馬鹿」と呼ぶのだ。
「馬鹿」とは「自身の愚かさについての自覚の欠如」ということになる。
もうひとつ、「知らないことについては知っている人に教えを請う」そういう謙虚さがなければならないが、今回のことは「についてよく知らないままに、知ったようなことを言う」という愚かさも付け加えておかなければならない。
さて、橋下徹本人だが、今回の経過では「全面勝利」ということで「一件落着」という風に考えているのかも知れない。彼にあっては、この「差別記事」が「橋下攻撃」であるばかりか、被差別総体に対する度し難い「差別攻撃」だったのだという自覚が極めて薄いように蛙には感じられる。
宮崎氏や小林氏は、今回を契機にして、問題がその解決に向けた方向でジャーナリズムの中で積極的に取り挙げられるようになることを期待しているようだ。
佐野眞一の度し難い傲慢さを非難しながら、本年最終の「連載・差別表現」で、次のように記している。
差別問題に取り組むとは、自己の内部に張り付いた鵺(ぬえ)のような差別意識(差別感情・憎悪感情)との絶え間ない闘いであり、差別意識の意識化、対象化の不断の過程のことである。
言われていることは全くその通りではあるが、蛙は、「大きな期待はかけられないのではないか」と考えている。
「差別」の事象が顕在化した折に、それを批判する側の「量的拡大」を期待するだけでは前進はできない。何故かならば、「差別を無くする方途が指し示されてはいない」からだ。
(つづく)
浦本君は「個人」として「週朝」と対峙してきて、最近の「意見交換」のことをちょっと書いていたが、あまりの「無知」に「開いた口が塞がらない」状態だったようだ。
小林健治さんがfacebook上で「連載・差別表現」という記事を書いていて、この問題についての考え方では貴重でもあり重要でもある指摘をUPしてくれてきた。
また、「宮崎学+小林健治 『橋下徹現象と差別』」という表題で新書が上梓されたので、これも読んでみた。
全般的印象としては、佐野眞一と「週朝・編集部」の「問題についての無理解と、そうであるが故にする害毒の垂れ流し」に対する批判、並びに解放同盟の対応の拙劣さに対する批判、知識人と称される人々の思想的退廃に対する批判等々、既に言われるべきことは言い尽されていると考えられる。
ちょっと脇道にそれるが、蛙が「馬鹿」とか「アホ」とかいうことを言う際の基本的な態度について書いておかなければならないと思う。
ウチの子どもたちが小さかった頃、なるべくそういう〈ことば〉は使わせたくなかったので、蛙は「バカって人はいませーん。バカはカバの逆立ちィッ!」とか「アホは鳥の名前ェッ!」とかゆうていた。こどもたちはどんな風に聴いたか定かではないが、「こんな〈ことば〉は使わせたくないのだなぁ」というくらいには受け取ってくれていただろうと思う。
「馬鹿」とか「アホウ」とかという〈ことば〉は文脈の中では「差別」を強める働きをすることがある。
それは「流れ」の中では「愛情表現」の〈ことば〉であったりすることさえあるし、「怒りの表現」として必然的であったりするけれども、使用する際には十分な配慮がなされるべきであり、普段から「気をつけて使用する習慣」を身につけておけば、「使ってよい〈ことば〉」になる。
また、色々な問題について勉強していくと、誰でも自身の知識がどれ程薄弱なものであるか思い知るということを経験する。
昔の人はいいことを言っている。
「実るほど首(こうべ)を垂れる稲穂かな」
佐野や「週朝」編集部のように、「そんな風には思っていませんよ」と言うだろうが、「自分程、賢い人はそうやたらとはいないに違いない」などといった「傲慢さ」がはっきり見て取れる。こういうのを蛙は「典型的馬鹿」と呼ぶのだ。
「馬鹿」とは「自身の愚かさについての自覚の欠如」ということになる。
もうひとつ、「知らないことについては知っている人に教えを請う」そういう謙虚さがなければならないが、今回のことは「についてよく知らないままに、知ったようなことを言う」という愚かさも付け加えておかなければならない。
さて、橋下徹本人だが、今回の経過では「全面勝利」ということで「一件落着」という風に考えているのかも知れない。彼にあっては、この「差別記事」が「橋下攻撃」であるばかりか、被差別総体に対する度し難い「差別攻撃」だったのだという自覚が極めて薄いように蛙には感じられる。
宮崎氏や小林氏は、今回を契機にして、問題がその解決に向けた方向でジャーナリズムの中で積極的に取り挙げられるようになることを期待しているようだ。
佐野眞一の度し難い傲慢さを非難しながら、本年最終の「連載・差別表現」で、次のように記している。
差別問題に取り組むとは、自己の内部に張り付いた鵺(ぬえ)のような差別意識(差別感情・憎悪感情)との絶え間ない闘いであり、差別意識の意識化、対象化の不断の過程のことである。
言われていることは全くその通りではあるが、蛙は、「大きな期待はかけられないのではないか」と考えている。
「差別」の事象が顕在化した折に、それを批判する側の「量的拡大」を期待するだけでは前進はできない。何故かならば、「差別を無くする方途が指し示されてはいない」からだ。
(つづく)