続・蛙独言

ひとりごと

「週刊朝日」差別記事についての蛙の総括 1

2012-12-28 14:43:05 | 日記
「週刊朝日」の差別記事について蛙のブログでも取り上げてきたが、やりきれない想いもまた強くある。
浦本君は「個人」として「週朝」と対峙してきて、最近の「意見交換」のことをちょっと書いていたが、あまりの「無知」に「開いた口が塞がらない」状態だったようだ。
小林健治さんがfacebook上で「連載・差別表現」という記事を書いていて、この問題についての考え方では貴重でもあり重要でもある指摘をUPしてくれてきた。
また、「宮崎学+小林健治 『橋下徹現象と差別』」という表題で新書が上梓されたので、これも読んでみた。
全般的印象としては、佐野眞一と「週朝・編集部」の「問題についての無理解と、そうであるが故にする害毒の垂れ流し」に対する批判、並びに解放同盟の対応の拙劣さに対する批判、知識人と称される人々の思想的退廃に対する批判等々、既に言われるべきことは言い尽されていると考えられる。

ちょっと脇道にそれるが、蛙が「馬鹿」とか「アホ」とかいうことを言う際の基本的な態度について書いておかなければならないと思う。
ウチの子どもたちが小さかった頃、なるべくそういう〈ことば〉は使わせたくなかったので、蛙は「バカって人はいませーん。バカはカバの逆立ちィッ!」とか「アホは鳥の名前ェッ!」とかゆうていた。こどもたちはどんな風に聴いたか定かではないが、「こんな〈ことば〉は使わせたくないのだなぁ」というくらいには受け取ってくれていただろうと思う。
「馬鹿」とか「アホウ」とかという〈ことば〉は文脈の中では「差別」を強める働きをすることがある。
それは「流れ」の中では「愛情表現」の〈ことば〉であったりすることさえあるし、「怒りの表現」として必然的であったりするけれども、使用する際には十分な配慮がなされるべきであり、普段から「気をつけて使用する習慣」を身につけておけば、「使ってよい〈ことば〉」になる。
また、色々な問題について勉強していくと、誰でも自身の知識がどれ程薄弱なものであるか思い知るということを経験する。
昔の人はいいことを言っている。
「実るほど首(こうべ)を垂れる稲穂かな」
佐野や「週朝」編集部のように、「そんな風には思っていませんよ」と言うだろうが、「自分程、賢い人はそうやたらとはいないに違いない」などといった「傲慢さ」がはっきり見て取れる。こういうのを蛙は「典型的馬鹿」と呼ぶのだ。
「馬鹿」とは「自身の愚かさについての自覚の欠如」ということになる。
もうひとつ、「知らないことについては知っている人に教えを請う」そういう謙虚さがなければならないが、今回のことは「についてよく知らないままに、知ったようなことを言う」という愚かさも付け加えておかなければならない。

さて、橋下徹本人だが、今回の経過では「全面勝利」ということで「一件落着」という風に考えているのかも知れない。彼にあっては、この「差別記事」が「橋下攻撃」であるばかりか、被差別総体に対する度し難い「差別攻撃」だったのだという自覚が極めて薄いように蛙には感じられる。

宮崎氏や小林氏は、今回を契機にして、問題がその解決に向けた方向でジャーナリズムの中で積極的に取り挙げられるようになることを期待しているようだ。
佐野眞一の度し難い傲慢さを非難しながら、本年最終の「連載・差別表現」で、次のように記している。

差別問題に取り組むとは、自己の内部に張り付いた鵺(ぬえ)のような差別意識(差別感情・憎悪感情)との絶え間ない闘いであり、差別意識の意識化、対象化の不断の過程のことである。

言われていることは全くその通りではあるが、蛙は、「大きな期待はかけられないのではないか」と考えている。
「差別」の事象が顕在化した折に、それを批判する側の「量的拡大」を期待するだけでは前進はできない。何故かならば、「差別を無くする方途が指し示されてはいない」からだ。
(つづく)

総選挙

2012-12-18 13:32:54 | 日記
「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんなあたしが悪いのよ」といった「軽口」がある。
蛙の「主戦場」は解放運動であるわけだが様々な場面で大層困難な状況に直面をしてきて、それを打開していけないといった折に、若い人たちに「ごめんな」とか「すんません」とか、そんな台詞ばかりが口を衝いて出るものだから、彼ら彼女らから「なんで蛙さんは謝ってばかりなん?」なんてよく言われたものだ。
その「悪い状況」を「誰か」のせいにするのは簡単だが、それを打ち破っていくことができない自身の「力の無さ」が、一等最初に蛙の胸にズシンと応えるからだった。
いつでも厳しい状況は続いていて「困難」というものが「平常」だったのだと思う。
そしてそれはこの後も一朝一夕には変わることはないだろう。

さて、今回の「総選挙」について色々と情報を収集しながら、考え込んでいたのだが、「今」の時点で蛙の想いを少し整理して書きとめておきたい。

まず最初に自民党の圧勝に終わった今回の結果が「予想通り」だったかという点について。
投票率は最低を記録したようだ。
「在日」の友人たちはなぜ投票に行かないのか疑問に思っているようだが、現状の「政治家」には「この国」をリードしていく人材が見当たらないということが決定的だったろうし、そうであるから、特に若い人たちを投票行動に向かわせなかったということもあるだろう。
「誰がやってもおんなしなんちゃうん」ということもある。
また一つには、前回の選挙で勝った民主党の「裏切り」がこの結果をもたらしたことも事実であるだろう。それだから今回の自民党の勝利は「自民党が支持されたわけではなく、『敵失』によるもの」という評価が多数を占めているようだ。
もう一点、「マスコミによる世論操作」。
それは事実だろう。
「勝ち組に乗る」というのは大勢であるが、貧しい人々や「力」のない人々は初めから「大きな流れ」から排除されているのであって、この「世論操作」が、全体、どの程度有効性を持ったかどうか、考えてみる必要はある。

安倍は最悪の金融政策を謳っていたが、一時の「カンフル剤」的効果は期待されただろう。
現に、この結果から「株高・円安」に指標は振れている。
一定程度の資産を運用する人々にとっては期待以上の展開になっているのかも知れない。
けれども世界経済の在り様から考えて、この「新自由主義」的展開は奈落への一歩に過ぎないと言わなければならない。

「維新」の評価はどうか。
この国の人々は「判官贔屓(びいき)」ということばがあるように、時の権力への叛旗をあげて闘い半ばに散った「英雄」が好きなのだ。
坂本竜馬もその一番手にあげられるだろう。
橋下徹は「大衆の<低俗な>嗜好」への迎合と「変わり身の早さ」を身上としている。
その才覚は驚嘆すべきものではある。
この「閉塞した社会」に蔓延する人々の鬱積は、どちらを向いていようとも「破壊」されなければならないという「呼びかけ」に直截結ぶのだ。
蛙は言っておこうと思う。
「竜馬気取りはいいけれどお前には暗殺されても構わないという気概はあるのか」と。
何はともあれ、全国的にはともかく、近畿、とりわけ大阪では圧倒的に支持をされた。
谷畑君も「機を見るに敏」というところか、社会党から自民党、そして維新。節操が無いとの批判は甘んじて受けよう、何よりも「国会議員」であることが「人々の利益」を守るためには第一義なのだというところのようだ。

当選を果たした自民議員の中には、「脱原発・改憲反対(慎重派を含めて)・TPP反対」というのもあるだろうから、ここは丁寧な戦術が考慮されなければならないだろう。

「小選挙区選挙制度」の悪弊が時代を覆い尽くす恐れもある。
選挙制度の変更は、現行の制度で選出をされた国会議員によってしか実現をできないのであるから、大層難しい課題になる。

なんにしても、前途多難。

ちょっと長くなってきたので、続きは次回ということで….

あらためて新シリーズ 3

2012-12-13 14:35:57 | 日記
随分、間が空いたが、引き続き、「新シリーズ」を再開していきたいと思う。

が創立されたのが1922年のことだったから本年は90周年であったのだが、その記念集会で各来賓挨拶に「祝辞」が述べられたことに蛙は酷く違和感を覚えたものだった。
蛙ひとりのことではないのかも知れない。
90年間、厳しい弾圧に屈することなく荊冠旗の下に闘い抜いてきた「その歴史」は称えられてしかるべきものであったろうから敬意を表されることはありがたく受け止めさせてもらうが、それにしても「おめでとう」はないだろうと思うのだ。
むしろ「90年間も差別からの解放を実現することができなかった」ということに想いをいたすべきであるだろう。
かくも長く「よき日」を迎えることができなかったのは何故(なにゆえ)であるか。
そういう「問い方」はされているのだろうか。

少なくとも、評価されるべき前進は勝ち取られてきたことは間違いない。
蛙の親の世代、「大正」から「昭和」の20年代までは、あからさまで激烈な差別に曝されてきた現実があった。
今では公然とする差別言辞や行為は激減をしている。
また、65年「同対審答申」・69年「特措法」がもたらした地域の環境整備事業などで、劣悪な状況は大きく改善もされてきている。
「答申」にゆうところの「差別がもたらす劣悪な環境と較差が差別を生み、またその差別の結果、劣悪な環境と較差が拡大をしていく」、そういう「差別の再生産」の構造は一定程度、解消されてきている。
「特措法」時代の評価は充分になされてきているようには思えないが、確かな前進は勝ち取られてきたのである。
それでも、例えば、運動体に「行政依存」の体質を育ててきたことや、様々な「不正」の温床になってきたという事実はあるだろう。
問題は、これまで取られて来た「対策」や、同盟が闘ってきた道筋が、完全解放への「展望」を切り開くに至っていないということなのだ。
蛙の考えによれば、これまでの闘いは「差別は許さない」というものであって、それはそれで必要かつ重要な闘いであったが、「差別を無くする」というところまでを視野にいれることができなかったということになる。
最近の同盟の文書でも「差別の結果に対する闘いから差別を生み出すシステムに向けての闘いへ」といった文言が見られるようになったが、これは北口君の台詞なんだろうと蛙は考えている。
彼はたいそう話が上手で、聞いている者を「分かった気にさせる」のだけれど、その実、具体的なという点では「さっぱり分からないなぁ」という風に蛙は聞いてきた。
「システム」と言ってみたところで、何か、具体的な「内容」があげられているわけでもないようだ。
これまでの闘いは、譬えは悪いが、ちょうど「もぐら叩き」ゲームに似ている。
「あっち」で「差別」があったらポコンと叩き、「こっち」であったらポコンと叩き、といった具合ではなかったか。
必要なことは「このゲーム機を破壊する」ことだったはずなのだ。

次回、この「ゲーム機の破壊」について考えてみたいと思う。

わけわからんねぇ

2012-12-06 13:01:24 | 日記
12月16日には「総選挙」が予定されている。
新聞・テレビ・週刊誌等の「予想」では自民党の圧勝ということだが、僅かな数量のアンケートなどで、こういう数字がはじきだされるのもどんなものだろうか。
明らかな世論操作ということでもあるのだろう。
また一つには、「誰を選んでよいか分からない」ということもあるのかも知れない。
蛙の「選挙区」でも、「自民・民主・維新・共産」の4候補しかいないわけで、いっそ「自分の名前」でも書こうかってな具合なんだから、困ったものだ。
誰でも簡単に立候補できるならしてもいいのだが、「供託金」が300万っていうのだから、普通の人間にはハードルが高すぎる。
山本太郎君は石原慎太郎の息子に挑戦するようだが、銭も無いのによく決心したものだ。
ネットで支援を依頼したところ、一日で300万の供託金が集まったらしい。
彼くらい名前が売れていて「脱原発」で頑張ってきた実績がある人間なのだから、もっともな話だろう。

それにしても、だ。
自民党・阿部は「国軍の創設・憲法9条改定・集団的自衛権行使・原発推進」を明言しているのだから、自民に投票する人はアメリカの戦争に我が子を兵士として送り出しても構わないとでも考えているのだろうか。
戦争に行くのは「国会の偉い先生方」ではないのだ。
福島第一事故から、この地震国・日本では原発はやばいということが明白になっているのに、「核武装」を可能にするために「原発」推進をしようという阿部に信を置く、そういう人々の気が知れない。

ことによると「阿部チンはあんなことゆうてるけど、多分、憲法を変えたり、軍隊を作ったりなんか出来るわきゃない。なんか分からんけど、景気をよくしてくれるみたいにゆうてるからなぁ。民主党に期待したけど、全くの裏切りっちゅうもんやったし」というような気分が全体をおおっているのかも知れない。

政治家は「人のいのち」など「どうなったって構わない」連中揃いなんだってつくづく思うよ。
それに嘘つきだしなぁ。