先日、
画伯のアートイベントで似顔絵を描いてもらいました。
前回のイベントは私出張で行けなくて、読者の方々が訪れ似顔絵を描いてもらっているのを見て、今度なんかあったら描いてもらおう、と決めていたのです。
でも画伯とは付き合い長いし、あさみフラワーは「あんだけデフォルメしていてまだ似てるのがすごい」と言われるほど優れた似顔絵だし、別にその場で見なくても私の似顔絵なんか描けるんじゃないかしら、と思いました。と思った私はおろかでした。
似顔絵を描いてもらう一番の理由は自分が似顔絵をほしいからですが、また別の理由として「せっかく画伯が場所を借りてイベントをやっているのだから売り上げてもらいたい」というのがあります。これは友人として当然のこと。でも大作の絵を買うには「金がない」。というのは実は一番の理由ではなく(いや、金もないけど。絵は高いし)過去に画伯の絵を買ったこともある我が家にはもはや壁がありません。日本の住まいとしてはそんなにたくさん絵が飾れない方が普通でしょう。
考えてみるとこういう状況の中できちんと絵を売って暮らしている画伯はたいしたものなのです。
そして画伯に似顔絵を描いてもらうために対峙してびっくりしたこと。
それは画家として私を見る画伯の目が、酒場で大酒食らってダジャレ言っているときと全然違うということでした。なんというか、人間の目ではないのでは、と思うくらい普段画伯だけではなく誰の目にも見ない光でした。つまりあれが、物を捉える画家の目であり、普段仕事しているところを見ない私たちはめったに目撃しないのだと思います。それくらい、すごい目でした。あの目を見ただけでも、似顔絵を描いてもらってよかったと思います。
そして「いつもこんな目で取り組んで描いてくれたものを私はボツにしたりダメだししたりしているのだ」と思うと申し訳なくなりました。
というのはウソですけど。
画伯は「この人の持つ、意外に繊細で優しい面(意外ってなんやねん)を表現できたのには、満足しています。」と書いてますが、現場では「繊細な面がなければ編集なんてできないでしょう」と言っていました。それは当たり前です。豪胆で乱暴なだけでは本なんか作れないのです。そして私は「アートイベントのときの画伯の売り上げ」を気にする程度には優しいのも確かです。似顔絵だけではなく、大枚1000円払ってお絵かき教室もしてもらいました。おさかなは私の方が上手なんですけどね(真顔)。
HSPのマーケティングをしている人たちは、才能があるのも、共感性があるのも、感受性が強いのもHSPならでは、というセールストークという名の「敏感すぎるクラスタへの負け惜しみ」を提供していますが、世の中には画伯のようなダジャレ親父がちゃんと絵で食ってたり、私のようなキャラが実は繊細さや優しさを駆使して結果仕事に結びついていたりするのです。
私は個々の業界の事情を知らない医者や心理士が、「自閉症の人は過敏なのだからその過敏さを活かす芸術等の活動をすれば」とか無責任に言うのがだいっきらいです。だから杉山先生が『私の障害、私の個性』にあとがきを押し売りしてきて(結果的にギャラに文句を言ったあのあとがき)もだいっきらいでした。そして神田橋先生や愛甲さんにすら、この点は違和感を覚えます。芸術業界にいるわけでもない人が「芸術の才能がある」と言えるのはどうしてなのかわからないのです。越権だし無責任だと思っています。そして「HSPだから才能や共感性がある」というマーケティングに乗って過敏性にあぐらを書いていると結局痛い目に遭うのは本人だと思っています。
そんなことを考えていたら、読者の方からうれしいお知らせがありました。
過敏性がたっぷりあり、時々栗本さんや愛甲さんの助けを借りていた女子高校生。速いですね。この前高校に入ったと思ったのにもう卒業し、四月からは画伯の母校の大学生となるそうです。絵が好きなのは知っていました。うちの講座の時画伯に絵を見てもらったりしていましたね。そしてお母様の実感としてこんなこと書いてありました。
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本当によく学び、苦しいことも多かったと思いますが、様々な賞も頂くことができ、
資質の開花とは決してラクではないと実感する3年間でした。
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これが実感なのだと思うし、これは将来の準備なのだと思います。同じ学校でも画伯はファインアート、この方はおそらくコマーシャルアートの方に行くのでしょうが、才能を活かしプロになったあとにもダメだしするクライアントやせっかく作ったものをボツにするクライアントは普通にいて、でもその人たちに完全に媚びると仕事はできなくて・・・でもそこで挫けてたら仕事なんかできなくて、というバランスを取りながら仕事をする能力が物作りの人には要求されるからです。
そうやってたくましくなっていきます。
仕事人としてたくましくなっていきます。
この方は高校の時からその準備が始まっていたのだろうなと思います。
そうすると、かつて愛甲さんにアドバイスされたときのような過敏性はなくなってしまった自分に気づくと思います。
医療の専門家は「実業の世界」を知りません。
物を作って売って・・・という世界を知りません。
正直、物を作って売ることを一切しない人たちが就労にまつわる適性を語るのはおかしいと私は思うのですが。
実業を知らないから、あたかも、過敏性ばりばりのままで世の中を渡っていけると思い込んでいるのであり、そういう人の過敏性を標本のように愛でる嗜好があり、それを世間にも要求しているのかもしれません(この点は神田橋先生や愛甲さんは違うと思います。一部の過敏性を愛でる医者たちのことです)。
でも実際に才能を活かしているのは画伯のような大酒飲みのダジャレ親父だったり、実は私のような乱暴者が「友だちがイベントするのなら売り上げてほしい」とか気遣っていたりするのです。
画伯や私の中にだって繊細さがあるからこそ物を作って売れるのです。
ひょっとしたら本を作るときの私はあのときの画伯のような目をしているのかもしれません。
才能も共感性も、弱虫の中では意味のないものです。
それを発揮するたくましさがあってこそ、世に出るものです。
これは当たり前のことなのですが、発達障害界隈で危険なのは
実業を知らなくて肩書きのある人たちが、「負け惜しみ」を提供してくれてしまうこと。そしてそこに安住すると、もしかしたら持っていたかもしれない才能も共感性も発揮しないまま墓場まで持っていってしまうかもしれないことです。「私はHSPなのよ」というむなしい誇りだけ胸に。
HSPという言葉は「治りたいのか自慢したいのかわからない」から私は嫌いです。
その点「感覚過敏」はまだマシかもしれませんね。
「自慢したい感」は薄いからです。それほど意識高そうではない。
それを治したい人たちのために、栗本さんと私は今、本を作っていますよ。
治った方が、ずっと人生楽しいからです、感覚過敏は。
(完)