治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

もう一度書いとくよ。なんでエビデンスと心中派が大嫌いか。

2018-06-17 14:48:47 | 日記
何度も何度もうるさいね。
こっちは忙しいんだから
『発達障害、治るが勝ち!』から引用ですませますよ。
P103からです。太字はブログオリジナル。

治るが勝ち、の本だから
治りたくない人は読まなくていいよ。
この記事だって
読みたくなければ読まなくていいよ。
帰った帰った! とっとと帰った!

き――――――――り――――――――――――と――――――――――り――――――――――――線――――――――――

エビデンスと心中しますか?

 そしてそもそも、エビデンスがあるという人たちのエビデンスの内容を私たちは重要視できない。
 私たちが「よくなった」というとき最大の判断材料にするのは「本人の主観」である。本人が健康で、ご機嫌で、それを私たちは「効果があった」とみなす。大事なのは本人の主観――ご機嫌――であって外から見た行動ではない。本人のご機嫌がよくなった結果、知能検査等の数値が上がったり、就職してその状態が続いたりすることもある。つまり、客観的に計測できる数値や観察できる状態に表れることもある。でも一番の土台は、本人のご機嫌なのだ。

 ところが「自分たちの方法にはエビデンスがある」と威張っている人たちの効果測定は「行動」を基準としている。望ましくない行動を消し、望ましい行動を引き出すことに終始する。ある意味、当人をこっちの都合に合わせるということだ。そして、その行動を取ることが当人の中で葛藤をもたらしているか否か、当人が何を感じているかは度外視される。当人の主観などというものは、科学的ではないと一蹴するのだろう。
 自分たちが「当事者をラクにしてそのQOLを上げる」という本業そっちのけで開発した各種アセスメントツールを売るためには外から見た指標が重視されなければ困る、という事情もあるかもしれない。

 客体化するのは科学者として当然だ、と言うのなら、人生をわたっていく上では、本人の主観が客体化をはるかに凌駕することを科学者の人たちには謙虚に受け止めてもらいたい。
 もっともあくまで科学的でありたいという人々を、止める人はいないだろう。ただ「治りたい」ということが多くの人の本音であるとすると、現実とかい離していくその「科学」に、ついていく人たちがいつまでどれくらいいるかというだけの話である。


 私たちは、
・自分でできて
・金がかからなくて
・できたら身体の中に何も入れない
方法を見つけて実践してきた。一円の公金も使わなくても、保険診療などあてにしなくても、支援者がいなくても、家で今すぐできる方法で「一次障害が治った!」と喜んでいる人たちが出てきた。どちらを選ぶのも個々の自由なのである。エンドユーザーである当事者保護者が決めるべきことなのである。

 そしてたしかに、「彼ら」はエビデンスを必要とするかもしれない。

 たとえば民間のABAセラピストなどは、一時間のセッションに四千円かかるという。そして効果を確実にするには週四十時間のセッションが望ましいのだという。
 一時間四千円のセッションを売るとすれば、公金の助けがないと苦しい。一般家庭には負担が重すぎて、公的扶助がなければ思ったようには広がらないだろう。勢い、エビデンスを強調することになるだろう。
 けれども私たちが広めている方法に、お金はいらない。『自閉っ子の心身をラクにしよう!』で提唱してある方法で多くの人々の睡眠障害と感覚過敏が治っていったが、そこに提言してある手法は一円のお金も必要としなければ、一日五分でいい。いったん覚えてしまえば支援者すら不要になる。ということは無駄に食べさせなければいけない人材を抱えていないから、やりたい人だけやればいいとゆったり構えていられる。そういう自由度が高くお金のかからない私たちの身体アプローチに対し、お金がかかる療育を勧める人たちはエビデンスにこだわざるを得ないだろう。

 エビデンスエビデンスの人たちは一面切り取り型の療育方法を広め、一面切り取り型マインドを持った後進を育てる。そこで中途半端に育った人材には就職先も必要だろう。後進の職場開拓のためにも攻撃的に、エビデンスを振り回す。
 ところがよく観察してみると、エビデンスエビデンス姦しいわりにはそのエビデンスもあまりエンドユーザーには具体的に提示されない。なぜなら、エビデンスを取る途上の倫理的問題をクリアしているとは言い切れないから、との話だ。誰も見たことのないエビデンスを振り回す支援者と、具体的に見たこともない「エビデンスのある方法」という支援者のセールストークに乗っかって、いつまでも改善が見えなくても、あるいは改善が見えてもまたすぐ崩れやすくても、唇かみしめてしがみつく保護者。「エビデンス」という言葉は実はただの枕詞だと気づくと、その姿は滑稽である。
 そしてその「エビデンス祭り」に参加するもしないも、個々人、個々の家庭の主体的な選択なのである。

 エビデンスがある、とドヤ顔して、私たちが「治った」と喜ぶのを「エピソードにすぎない。身体アプローチにはエビデンスがない」とこき下ろす人たちに指摘しておきたい。
 あなた方のやり方に惹かれないのはその「エピソード」がないからである。あるのはエビデンスがある、という主張だけで、実際に良くなった人のエピソードがない。むしろ、エビデンスにしがみついている人はそろって成果を見せていない。それが私たちの目に映っている現実である。
 エピソードがない。だから信用できない人もまたいるのである。
 みんなちがってみんないい、なのだから、エビデンスを選ぶ人もいれば、エピソードを選ぶ人もいるのである。

 信用してほしかったらエピソードを出してみろ!
 てなもんである。


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