治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

自立支援の意味

2018-05-08 10:05:48 | 日記



沖縄のレジュメ書いてます。メモ書きよりお配りするのはあっさりになると思いますので。

結局「自立支援」の意味を私は普通に解釈したんですよね。そこがギョーカイと私のズレなんです。
そのあたりのことは『発達障害、治るが勝ち!』のしょっぱなに書いてあります。自分スクショ。よい子はまねをしないように。


そう、私は一般人だから「自立を支援する」って言ったら自立を支援するのだと思っていたわけです。
そして一般人といえば、思いがけなく「あなたのお子さんは発達障害です」と告知を受けた人も私と同じ一般人だと思うんです。
そういう人たちが「自立支援」に出会えば、自立を支援する人たちだと思うよね。
ところがギョーカイ側にしてみれば違う。
そこでズレるんですね。

「自立とは依存先を増やすこと」という言い方、大受けですが、自立とはどう考えても依存先を減らすことであり増やすことではありません。
そしてこう私が主張することで「浅見は支援に依存するなと主張している」と解釈する頭の悪い人が卑屈筋には多いのですが、私はそんなこと言っていません。支援を受ける必要があるのなら大いに受ければいいでしょう。そしてそういう人たちが度々指摘するように、人間誰しも年取れば自立度は低くなりますし、いつ何時自分が障害者になるのかはわかりません。生活保護にしたって障害者年金だってセーフティネットとしてもうけられているのだから、必要な人が利用をためらうことはありません。ただ、制度に振り回されないためには自立度が上がっていたほうがリスクヘッジにはなると思いますが。

私が指摘しているのは「依存先を増やすのは決行だけど、それは自立ではない」ということです。
支援を受けている状態は自立ではない。
それをなぜ自立と強弁するのか。そっちの方がおかしいです。
それだけ実は「自立しなければ」という思い込みにとらわれているように思えます。
「私は自立していません」「自立を目指す気はありません」と堂々と言えばいいじゃないですか。
自立できない事情があるのなら自立しないではいいではないですか。
なぜそれを自立と強弁するのか。

そしてその強弁がみんなを惑わせるのです。
「自立支援」と福祉が言うときにいう「自立」は強弁の自立なのです。
だけど一般人は普通の自立に解釈する。
そこでズレるんですね。
みんながギョーカイを当てにしてしまうのは、自立を支援してくれると思うから。
そうではありません。
ギョーカイにとって「自立支援の拡充」とは「自立支援事業への加算」なんです。

私は発達障害者支援法の施行前にこの世界に偶然出会い、「そうか。自立を促すのか。いいことだ」と思い、自分に何ができるかを真面目に考えました。
三つ組みの障害はとらえどころがなかったけど、目の前にいる自閉っ子たちが抱える
・感覚過敏
・不思議な睡眠サイクル
・季節によって体調が翻弄されすぎること
はどうにかしてあげたいと思い、そのための方策を持っている人を探しました。そして見つけて本にしたらたくさんの人がラクになりました。
一方で「エビデンスガー」の人たちと出会い、その人たちが誰も治していないのも見てきました。
我々のやっていることを「どうせ体調が良くなっているだけ」とこき下ろす人たちが誰一人体調をよくしていないのも見てきました。
そうこうするうちに感覚過敏等が治っていった人が一次障害も治っていくのを見ました。
そうこうするうちに発達障害とは神経発達障害だということが明らかになってきました。
こんな流れです。

一方で感覚過敏や睡眠障害さえなんとかする気のなかった支援者たちはなぜなんとかする気がなかったかというと、彼らが言う自立支援とは自立を支援することではなく自立支援産業の隆盛だからです。
だから吉川徹は自立支援セミナーで「目標は家事のできるひきこもり」とか大真面目に言うのです。彼は正直なのです。他のギョーカイ人が言わないことを言うくらい脇が甘い。だから私は、彼にトップランナーになってほしいのです。脇が甘くて潰しやすいからです。

レジュメ書くために『発達障害、治るが勝ち!』を読み直していますが、本当に痛快な本です。
一言の無駄もない本ですね。
我ながら感心します。