治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

定型発達社会が怖くない理由(一部公開)

2013-10-27 10:53:22 | 日記
さて、お馬鹿さん(仮名)の出現を見て
この文章を一部公開しようかなと思いました。

この文章を書いたのは、実は夏の休暇のときです。
脳みそラクラクな環境で書きたくなった文章なので
おそらく私の本音に一番近いと思います。

そしてそれをさらっと岡山で公開したのですが
岡山の主催者の方は、支援組織としては老舗なので
あまりアバンギャルドなことは言わず
抑えめの講演にしました(当社比)。

客席にいらしたお友だちによると
支援校の先生方が、さかんにメモを取って下さっていたとのこと。
よかったなと思います。

このあとコミュニケーションの問題とか、文章は続くのですが
とりあえず冒頭を貼っておきます。

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 このテーマで書こうと思ったのは理由があります。それはずばり、自閉っ子及び自閉っ子関係者(当人だけではなく保護者や支援者も含む)が、実際以上に社会を怖い場所と思い込んでいるような実感が私にはあるからです。そしてその恐怖感は、むしろ支援なるものによって強化されてしまっているような、そういう場面もちらほら見かけるからです。
「自閉っ子と未来への希望」の中で、私は自分なりに見た自閉っ子を取り巻く三つ組みの障害は次のようなものではないかと提言しています。

1 自分はダメな人間である
2 この世はひどい所である
3 周囲の人たちは嫌な人たちである

 そしてこの三つは「ウソです」と断言しています。今回は、なぜ断言することができるのか、つまり、なぜこの社会はそれほどひどい場所ではないのか、それをご説明しようと思います。


 
 まず最初に挙げられる理由は、実は人間(障害があってもなくても)みんな凸凹を抱えて生きている、というのが現状だからです。そして実は、なるべく得意なところで勝負して、それでなんとか暮らしていっているのが障害のない人間の実情だからです。人生の目的は「苦手を克服」することではありません。社会に参加するとは、自分の得意なところを誰か他の人の役に立てることです。診断がつくほど凸凹が大きい人は、そのマックスの能力だけではちょっと市場価値に足りなかったり、凸凹がとても大きかったり、凸を活かし凹を補うやり方に特異性があったりするだけです。市場価値が足りない場合のために支援があるわけですし、なんとか凸の部分に市場価値がありそうなら、それを活かして生きていけばいいのです。その方が、その人の成人生活は健康になります。
 そういう意味で、支援は必要です。凸のマックスでも市場価値が生じない人の場合には「下駄を履かせる」のも支援でしょうし、ここを充実させるためにこそ、凸の部分にじゅうぶんな市場価値がある人をより多く見いだし、その人たちに福祉を離れた世界で活躍してもらうための支援が必要でしょう。可能性を十全に活かすことは、本人の健康生活にも寄与し、広く社会のためになるでしょう。
 私は、支援が必要でないという立場を取る者ではありません。けれども国や自治体の予算には限りがあります。一人一人が、そしてしばしば本人よりも保護者や支援者が、自分たちの安心のために必要のない子まで福祉の中で生きていくことを選んで財政が破綻すれば、それは必要な人が必要な支援を受けられなくなることにつながります。すでに私たちは、支援校に生徒が集中し、重度のお子さんたちの学習機会が乏しくなり、しかも必ずしも軽度だからといって就労につながってはいない、心ならずも支援校に来ているがゆえに荒れて結局は在宅生活に入っていく軽度の人たちの姿も目にしています。これが国全体レベルで起こると、福祉の破綻です。
 これまでは支援が必要だということを訴えるあまり、発達障害者について、とくに知的には定型発達者と同等もしくはその平均以上の能力を持つ発達障害者について、特別に能力のない人みたいなイメージをギョーカイは戦略的に振りまいてきました。けれどもそれを真に受けて能力を発揮できないともったいないです。社会にとってももったいないし、本来充実した生を生きられるはずの人たちが縮こまった生き方をしてその結果社会を恨んでいくのももったいないです。
 ですから今こそ私たちは「社会はそんなにコワくない」と訴えかけていかなくてはなりません。