教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

jlj0011のblog 電通の言論統制<本澤二郎の「日本の風景」(3823)

2020年08月23日 09時50分13秒 | 国際・政治
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電通の言論統制<本澤二郎の「日本の風景」(3823)
2020/08/23 08:190
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電通の言論統制<本澤二郎の「日本の風景」(3823)より、転載させて頂きました。


<無駄で有害・危険な六ケ所村の核燃料再処理工場が報道されない理由>


 電力会社が人々の電力料金を引き上げて、その莫大な資金を使って、青森県六ケ所村に、この世で有害・危険な核燃料再処理工場を建設している。1993年に7600億円をかけて建設に狂奔してきたが、2017年の時点で約3兆円が消えたが、実現にこぎつけていない。もう25回目の延長だと明らかになったのだが、本来は311で建設中止・廃棄するはずであるが、これについの報道を新聞テレビは怠っている。


<原発利権の電通に屈する新聞テレビ>


 思い出したのだが、現役時代に手にする雑誌類のいたるところに東電など電力会社の広告がひしめいていた。


 原発推進の読売・産経・日経に限られていなかった。新聞テレビのすべてが核関連施設の危険性を報道していなかった。なぜか?その主役は、電通であって、電通の報道規制によるものだった。


 電通の言い分にひれ伏す新聞テレビは、朝日にも及んでいたのだ。


<核・放射能報道を封じ込める大魔神に怒り心頭の国民>


 日本は唯一の被爆国である。核兵器廃止の先頭に立つという、当たり前の国民的行動を、政府はしない。逃げている。今年の8月6日と9日にも、安倍晋三は性懲りもなく、被爆地の願いを拒絶した。


 新聞テレビは、怒り狂う場面であるが、淡々と事実を報道するだけだった。これも電通が歯止めをかけているためなのだ。核・放射能の報道を封じ込めるという原発利権に配慮した電通の厳命に屈する言論界は、もはやジャーナリズムが存在していない。


<311を封じ込めてIOC買収で手にした東京五輪の主役は電通>


 フランスの検察は、東京五輪獲得の犯人として電通に的を絞って捜査しているが、日本の検察はソッポを向いて協力しない。稲田検察も今の林検察も同様である。


 国民はフランス検察の成果に驚きながら、電通五輪の悪徳に気づいて怒り狂っている。東電福島の日々を報道させないようにしていることも、電通の仕業である。棄民の東北を裏付けている。


 日中友好派のジャーナリストが立ち上げた「ジャーナリスト同盟」を亡くなるまで維持してきたペンの盟友(時事通信OB)は、昨年白血病で憤死した。福島取材で被曝したようだが、彼はそのことに触れなかった。そして電通の悪魔のことにも口にしなかった。このライブドアのブログ「ジャーナリスト同盟」は、昨年五輪廃止論を提起した翌日、消されてしまった。


 いま考えると、犯人は電通だった。


<諸悪の根源は電通!新聞テレビは一斉に反旗を翻す時!>


 赤信号 みんなで渡ると 怖くない(読み人知らず)


 日本の諸悪の根源は、言論の自由を封殺する大魔神・電通である。新聞テレビが一斉に反旗を翻し、国民の味方になることである。今がその時である。以下に、電通の悪役NO1の里見甫についての、詳細メモを発見したので掲載する。


 熟読し拡散して欲しい。


●里見 甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 – 1965年3月21日)は、ジャーナリスト、実業家。三井物産のもとで関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。__wiki


●来歴・人物__
安房里見氏の末裔であり、元海軍軍医で退役後に日本各地の無医村をまわっていた里見乙三郎とスミの長男として、赴任地の秋田県山本郡能代町(現・能代市)に生まれる。弟に皋(たかし)。妻は相馬ウメ(=里見由美)(1933.9〜1959.6離婚)、湯村治子(1959.7〜)。子は里見泰啓(1959.11誕生)。福岡県立中学修猷館を卒業し、1913年9月、玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力により、福岡市からの留学生として上海の東亜同文書院に入学する。


1916年5月、東亜同文書院を卒業後、青島の貿易会社に一時期勤務するが退社し、帰国して東京で日雇い労働者となる。1919年8月、同文書院の後輩である朝日新聞北京支局の記者であった中山優のはからいで、橘樸が主筆を務める天津の邦字紙である京津日日新聞の記者となる。1922年5月には第一次奉直戦争に際して張作霖との単独会見を行っている。1923年6月、京津日日新聞の北京版として北京新聞が創刊されるとその主幹兼編集長に就任する。


ここでの新聞記者活動を通じて、関東軍の参謀であった板垣征四郎や石原莞爾と知己となり、国民党の郭沫若と親交を結び、蒋介石との会見を行うなどして、国民党との人脈も形成された。1928年5月の済南事件では、日本軍の建川美次少将、原田熊吉少佐、田中隆吉大尉から国民党との調停を依頼され、2ヶ月にわたる秘密工作の末、国民党側との協定文書の調印を取り付けている。


1928年8月、南満州鉄道(以下「満鉄」)南京事務所の嘱託となり南京に移る [1]。 ここで、国民政府に対し満鉄の機関車売り込みに成功するなど華々しい業績をあげている。


1931年9月に満州事変が勃発すると、翌10月に関東軍で対満政策を担当する司令部第4課の嘱託辞令を受けて奉天に移り、奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報・宣伝・宣撫活動を担当する。これらの活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成された。また、司令部第4課課長松井太久郎の指示により、満州におけるナショナル・ニュース・エージェンシー(国家代表通信社)設立工作に務め、陸軍省軍務局課長鈴木貞一の協力のもと、新聞聯合社(以下「聯合」)の創設者岩永裕吉や総支配人古野伊之助、電通の創業者光永星郎との交渉を行い、1932年12月、満州における聯合と電通の通信網を統合した国策会社である満州国通信社(以下「国通」)が設立され、初代主幹(事実上の社長)兼主筆に就任する [2]。


1933年5月には、聯合上海支局長であった松本重治に、ロイター通信社極東支配人であり、後に同社総支配人(社長)となるクリストファー・チャンセラー(Christopher Chancellor)との交渉の斡旋を依頼して、交渉の末ロイターとの通信提携契約を結び、国通の名を国際的に印象付けている。1935年10月国通を退社し、同年12月、関東軍の意向により、天津の華字紙「庸報」の社長に就任する。1936年9月、5年住んだ満洲を去る。


1937年11月、上海に移り、参謀本部第8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて
___特務資金調達のための阿片売買を依頼される。
___1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂[3]の
___副董事長(事実上の社長)に就任する。
___ここで、三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して設立された商社であり
___実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し、
___1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立[4]。
___ペルシャ産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、
___一部は日本の傀儡であった汪兆銘の南京国民政府にも回した。
___また、里見機関は、関東軍が極秘に生産していた満州産阿片や
___日本軍が生産していた海南島産阿片も取り扱っている。
___この活動を通じて、青幇の杜月笙・盛文頤や、笹川良一、児玉誉士夫、吉田裕彦、
___岩田幸雄、許斐氏利、阪田誠盛、清水行之助らとの地下人脈が形成された[5]。


1943年12月、宏済善堂を辞し、満鉄と中華航空の顧問となる。1945年9月に帰国し京都や東京に潜伏するが、1946年3月に民間人第一号のA級戦犯容疑者としてGHQにより逮捕され、巣鴨プリズンに入所する。1946年9月、極東国際軍事裁判に出廷して証言を行い、同月不起訴となり無条件で釈放される。その後、渋谷峰岸ビル(現在のQFRONT)に日本商事(医薬品関連の日本商事とは別)を構え代表に就任する。戦後、祖神道本部の熱心な信者となった。


1965年3月21日、家族と歓談中に心臓麻痺に襲われ死去。享年70。千葉県市川市国府台の總寧寺にある里見の墓の墓碑銘「里見家之墓」は、岸信介元首相の揮毫による。


2020年8月23日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)

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