安倍国葬は憲法違反<本澤二郎の「日本の風景」(4511)

<弔意拘束は憲法19条の「内心の自由」に真っ向から触れる

 戦前の天皇制国家主義は、敗戦後の平和民主憲法のもとで禁じられた。人の死を悼む行為は肯定されるべきだが、ただしこれを政府・国家権力が十把ひとからげにくくるという岸田内閣暴走の国葬は、憲法に違反する。日本国憲法が政府に強要している「内心の自由」に違反する行為である。

 

 19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」。したがって法令によれば可能と言いたいところだが、それでも内心の自由を拘束することを禁じている。当たり前といえば当たり前のことだが、岸田内閣は憲法を破って強行するという。論外である。断じて許されない。

 「神道・統一教会の売り込みに応じた」のであろうが、憲法は政治と宗教を分離して、政治の側に釘を刺している。創価学会公明党を抑え込んだとしても、強行すれば予想外の事態が起きるだろう。既に市民のデモや法廷闘争が具体化してきている。

 憲法を敵視するという政治屋は、本来、憲法が容認していない。日本国民が制定した日本国憲法は、政府・政治権力の濫用や暴走に対して、憲法を尊重擁護義務(99条)を課している立憲主義である。自公両党は、この憲法原則に従う義務がる。安倍国葬は出来ない。これは国際的な潮流であろう。

 

<1%財閥+自公+神道+統一教会+創価学会の民間葬儀でどうか>

 この機会に自公両党に勧告と提案をしたい。せいぜい安倍の戦前回帰・アベノミクス路線によって、恩恵を受けた政党や団体が主体になって葬儀を行うべきだろう。

 安倍の戦争体制によって、精神的に追い詰められた民衆や、急激な円安政策で物価高に泣いている主婦や母子家庭や年金生活者は、むりやり金を使われて弔意を強要されることなど大反対である。1%財閥の金で葬儀をすべきだろう。自公にまとわりついている、政教一致で甘い汁を吸っているカルト教団でやればいい。どうだろうか。これなら誰も文句は言わないだろう。

 

<体罰教師の死に同窓会挙げての弔意に抵抗した過去>

 子供のころの苦い思い出がある。中学3年生だった。急いでいて渡り廊下(コンクリートの上に敷いた木製の板)をかけていたところを、運悪く体罰教師に見つかった。彼は思い切り顔面に平手打ちをした。眼鏡が10メートル近く飛んだ。このことは生涯の負の思い出となった。

 その点、安倍晋三の家庭教師も、出来の悪い頭を軽く叩いた。生涯、その家庭教師を恨み続けた。多少、その気持ちを理解できる。

 体罰教師が亡くなった時、仲間がそろって弔意を示そうと動いたが、その輪に入らなかった。暴力で子供を抑圧する教師は、今でも許せない。

 

<茂木幹事長・松野官房長官は神道国家主義をひけらかしているだけ>

 自民党の茂木という幹事長に、若いころ一度だけ取材したことがある。しかし、最近は彼の傲慢すぎる態度に、永田町の廊下トンビも怒っている。「消費税をなくしたら年金を3割減らす」「国葬反対の野党は常識がない」と脅しまくっている。茂木は憲法を学んでいない。

 安倍のもとで神道国家主義外交にのめり込んでしまったらしい。彼の事務所に統一教会信者はいないかどうか、調べてみたいものだ。

 そして官房長官の松野だ。こいつもおかしい。調べると、なんと松下政経塾生だった。こちらも神道民族主義か。

 

<米誌ニューズウィークの安倍国葬反対の意味する点はなにか>

 ワシントンには、間違いなく戦争反対のリベラル勢力が存在する。米誌ニューズウィークが、安倍国葬反対の論陣を張ったことが、本日ネットニュースで確認できた。その意味することは何か。

 安倍暗殺事件では、司法解剖の内容が伏せられている。本当に山上容疑者の手製の銃弾なのか、それとも別の狙撃手の銃弾なのか?

 「人の死は神聖なのか?人によっていろいろ。人の死を悼む事柄に権力が介入し、内心の自由を侵害する政府の日本は、本当に恐ろしい。憲法が覆されようとしていることに人びとは気付くべきだ」

 「コロナひとつでも政府の対応は頓珍漢。信仰の自由さえも全体の力で、人々のささやかな感情まで抑え込む。平和主義と人権主義が揺らいでいる今の日本」

 以上は法律家の本ブログへのメッセージである。

2022年7月21日記(東芝製品不買運動の会代表・政治評論家・日本記者クラブ会員)

安倍元首相の国葬に反対する

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ニューズウィーク日本版<事績に基づけば国葬に値するかどうかは疑わしい人物を、選挙演説中に殺害されたインパクトをもって強引に国葬を執り行ってしまうのは危険であり、故人の神格化に繋がりかねない>