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水戸黄門(みとこうもん)は、水戸藩主で権中納言であった徳川光圀の別称であり、彼が世直しのために日本各地を漫遊したという物語の題名でもある。かつてはもっぱら、水戸黄門漫遊記(みとこうもんまんゆうき)と呼ばれた。メディアとしては、講談・歌舞伎・演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画・アニメなどに広く及ぶ。
概要・沿革
物語の背景
実在の水戸藩主である徳川光圀は、国史編纂(『大日本史』)のために史局員の儒学者らを日本各地へ派遣して史料蒐集を行っているが、光圀自身は世子時代の鎌倉遊歴と藩主時代の江戸と国元の往復や領内巡検をしている程度で、漫遊したという史実はない。
光圀は同時代の伝記史料において名君として評されているが庶民の間でも知名度は高く、亡くなった時には「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」という狂歌が流行った。水戸黄門漫遊譚の成立には、この様な名君としての評判や、幕末における水戸学の浸透が後の物語の形成に影響していると思われる。光圀の伝記資料としては、正伝である『義公行実』をはじめ『桃源遺事』『久夢日記』など様々なものがあり、宝暦年間にはこれらの伝記資料を基に実録小説である『水戸黄門仁徳録』が成立し、黄門漫遊譚の起源となっている。
また現実の光圀は、家臣の佐々十竹(さっさじっちく、佐々介三郎、佐々宗淳)らを各地へ派遣しており、彰考館総裁であった佐々と安積澹泊(あさかたんぱく、安積覚兵衛)の二人が、後の助さん・格さんのモデルと見られている。
当時の身分制社会では現在に残る風習以上に、諱(いみな)は本人・直系尊属・本人が仕える君主のみが、プライベートないし畏まった特別の場面でのみ呼称できるものであり、目下の者が目上の者あるいは上位家系・上位職にある者などに対して諱を直言することを禁忌とし、呼称の際には、被呼称者が俗人の場合には官位・職制・居住地などを姓あるいは字(あざな)と併用、出家の場合には法名を用いたり、呼称者と被呼称者の格差が大きい場合には姓すらも直言をタブー視する風習が厳然と存在していた。このため、水戸黄門の名は、光圀が徳川御三家の一統である水戸藩の藩主であり、武家官位として権中納言(ごんのちゅうなごん)を名乗っていたことから、「徳川光圀」と直言することを避けるために、藩名である「水戸」と、中納言の唐名である「黄門」をとって広く用いられていた別称である。
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この作品の主題歌の音楽を手がけている木下忠司(ちゅうじ)先生?は、1916年生まれで映画監督木下恵介氏の弟でもあり、 90歳を超えた現在も水戸黄門の劇中音楽を担当していらっしゃるのには非常に驚きました。 ... 投稿日:2008年3月21日