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あなたへ 8 父方の貧弱な記憶と記録

2024年10月05日 21時13分50秒 | あなたへ
家系図を作成して、先祖代々の足跡をしっかりと記録している家があると聞く。我が家は、戦国大名の血が流れているとか、教科書にも載っている偉人がご先祖様だとか、そんな話を、稀に誰それから聞かせれることがあった。聞いているあなたは、それで家系に興味を抱くこともなく、ここまで来てしまったようだ。
 あなたが知りうる限りの先祖をたどってみよう。
 まず、父方について、あなたは考える。それがなんとも頼りないものだ。父は、英雄。大正14年2月28日生まれ、平成元年9月27日、64歳で没。祖母はヨシ。昭和50年4月26日、80歳で死去。祖父は、佐市郎。昭和40年2月25日、69歳。曾祖母は、クマ。昭和46年6月23日、91歳。曾祖父は三郎治。昭和12年7月24日、66歳。これは、あなたの家の墓に記されている記録だ。(23,24,25,26,27と、よくきれいに並んだものだ)そこから先を、あなたは何も分からないでいる。
祖父は、栃木県下都賀郡都賀町(かつては都賀村だったろう)上新田で、自転車屋をしていたと、あなたは父から聞かされている。まだ幼いころに、何回かその家に、あなたの母と行ってるし、そのころは、曾祖母が長い間、床に臥せていた状態だった。つまりすでに自転車屋は廃業していたに違いない。鶏を何羽か飼っていたこと、家の前、通りを挟んだ向こう側には畑があって、さやえんどうを採りに行った記憶が、あなたにはある。また、通りに沿って流れる小川には、アルミ製の缶に入った「ヤギの乳」が冷やされていて、それを飲まされたことも、あなたは覚えている。下から熱湯が湧き出てくる五右衛門風呂は、苦手だったことも。こう考えると、父の実家には、いっとき「遊びに行った」のではなく、しばらく住んでいたのかもしれないとも思える。
 後から、あなたが聞いた話だが、このころ祖父は、家中駅のそばで、「愛人」と暮らしていたらしい。祖母は、この家や、そして日光中禅寺湖湖畔にある父の姉の嫁ぎ先や、あなたの小さい頃、妹が生まれた頃の、東長崎、練馬の家を、互い違いに「手伝い」に来ることになる。わしっ鼻の祖母であった。
これ以上、遡れないあなただ。家中の駅前には、ゆきおちゃんという祖母の兄であった「たかおじさん」(父方では、あなたが一番好きなおじさんだった)が、昔パチンコ店をやっていたし、そのあと中華料理店にくら替えしたあとも、よく訪ねていたものだったが、たかおじさん、その奥さんが亡くなり、ゆきおちゃん夫婦も別れることとなって、今は行き来がほとんどなくなってしまった。駅前には、後藤さんという親戚の化粧品屋もあったが、今は店も閉まっているし、代替わりをしているはずだ。合戦場の駅には、おそらく「大塚」という名の家が何軒もあり、父の伯父たちがいるはずだが、今は年賀状のやり取りも途絶えてしまっている。ゆきえちゃんという、あなたを可愛がってくれた伯母(正確ではない)も、住んでいる。
 なんとも断片的な、あなたの記憶である。一番、あなたに身近な父方の親類は、日光の従弟だろう。ひとしちゃんである。あなたと同い年で「ちゃん」はないのだろうが、小学生のときは、夏休みになると10日から2週間近くも、泊めていただきお世話になった家の長男だ。よく中禅寺湖でボートを漕いで一緒に遊んだ仲だ。あなたの父の姉、サヨの長男。彼には姉「フサエちゃん」がいるが、父は異なる。サヨ伯母の最初の結婚については、あなたは何も知らない。(伯母が再婚した家は、昭和21年に起こった日光中宮祠一家殺害事件に見舞われた家で
もある。これは、あなたは後から聞いたことである。松本清張の小説にもなっているが、簡単な引用だけしておこう。「1946年5月4日未明、栃木県中禅寺湖畔の上都賀郡日光町(現在の日光市)中宮祠の旅館から出火し周囲を含めて6棟が全焼。旅館の焼け跡から経営者のH(当時46歳)と妻(同42歳)、Hの義父(同72歳)とHの三男(同11歳)、次女(同8歳)、三女(同5歳)の6人の焼死体が発見された。6人が寝床に入ったままの状態で死亡していたばかりか後頭部を切られた跡があるなど、他殺と思われる不審な点もあったにもかかわらず、日光警察署は無理心中と結論づけて被疑者死亡として捜査を打ち切った。
しかし、事件の真相は当日投宿していた在日朝鮮人のAとBが帳場に盗みに入ったところを家族に発見されたため、旅館の台所にあった包丁で一家6人を刺殺、現金400円と小切手480円と背広などを奪い放火して逃亡したというものであった。」伯母の夫である「みさおさん」が、この家の何に当たるのかは、あなたは知らないでいる。)
 あとは、東長崎時代に、お手伝いさんとして、幼いあなたの世話をした「なおみちゃん」とそのお姉さんの「しずえさん(だとあなたは思っているが確かではない)。西新井で八百屋をやっている「まっちゃん」(父の従妹か)、浅草の履物問屋の伯母さん。(名前はとうに忘れてしまっている。娘さんが優秀だと言うことくらいしか記憶にない。一度、あなたの母と泊りに行ったはずだ。) 
 あなたは、「大塚家」のルーツに興味を持って、父に聞こうとする前に、父は死んでしまったのだ。
 東久留米五小時代。あなたは、その日、研究授業の日だった。朝、早く起きて一階に下りると、あなたの父は台所兼食堂で、窓側の椅子に腰かけていた。「おっ、今日は早いな」と父があなたに言う。「今日は、みんなに授業を見せる日なんだ」「おおそうなんだ、ま、がんばれよ」これが最後に交わした会話。
 その後、父はひばりが丘駅の北口階段(改築前のもの。段数の多い、急な階段であった。)を登り切ったところで、壁にもたれかかるようにしてこと切れたらしい。心筋梗塞なのだろう。昭和病院に搬送されても、死亡の確認だけだったのだろう。64歳、まだまだ若かった、あなたの父の死だ。
A4の用紙の一枚半に収まってしまうほど、あなたの記憶は貧弱である。
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