不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

巨悪のはびこるのどかな国

2010年02月03日 20時27分18秒 | わたしごと
池袋の地下道を歩いていると、売店の新聞売場の広告見出しに『小沢氏 不起訴!』とあった。
やはりなあという空虚なため息をつく。 片や『してやったり』と安堵の祝杯をあげている小沢氏が目に浮かぶ。

一人の人間を危めると殺人者として糾弾されるが、大量の人間を殺戮すると英雄となり、人々から称賛される。そんな趣旨の言葉を聞いたことがある。
かつてJRで百円(十円だったかもしれない)をくすねた職員が懲戒免職になったというニュースが流されたときがある。その対極として、違法な五千万円を入札の見返りとして何度も受け取り、それでいてなんの咎めもない人物が、政権を担当する政党の中核に居座っているのだ。

なんとも理不尽な社会ではないか。

この見出しは、確定したものかどうかわからないので、とりあえず、ここまで。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生の岐路

2010年02月03日 00時01分46秒 | 思い出を語る
新年の第一号の学級通信に、こんなことを書きました。

「新年明けましておめでとう。
 新しい年が明け、みなさんは、どのような気持ちで、元旦を迎えたことでしょう。
 今年は、みなさんにとっては、別れと出会いとを経験する年でもあります。もちろん、卒業と、中学校への入学のことです。

 みなさんはきっと、これまでにも、
「1年生のはじめがかんじんだから、そのとき身のまわりのことができるように、がんばりなさい」とか、
「2年生は、掛け算九九でつまづくとあとで大変だから、ここが勝負よ」とか、
「3,4年生は、漢字もたくさんあるし、小数、分数が出てくるから、ふんばりどころよ」とか、
「6年生は、最後のまとめの学年よ。ここでがんばらないでどうするの?」とか
 それこそ、うんざりするほどの「大事なとき」を通過してきましたね。(笑)

 あっ、またか・・・かもしれないけれど、時間というのは、ずっと連続しているものだから、よくよく考えてみれば、大切なときじゃないときなんて、ないのかもしれないね。
 
 今日、お家に帰ったら、家族のだれにでもいいから、こう聞いてごらんなさい。

 「もし、あのときにああしていれば自分の人生が、きっと変わっていただろうなあ、ということなかった?」って。

 おそらくは、いくつも出てくると思いますよ。ただ、ほとんどの人に言えることだけれど、その人生をも変えるかもしれない「大事なとき」(チャンス)は、そのときには、本人にはなかなか分からないものなのです。
 いつも、「ああ、あのとき・・・」なのです。

 またまた今回も「大事なとき」を迎えた君たち。
 そんなにきばらないでいいけれど、いっぱい自分の中身を充実させてください。
 テストの点や、「あゆみ」のためというのではなく、自分の頭や心の中をもっともっと、たくさんのことでいっぱいにしてほしい。気がつかないかしれない、「大事なとき」のためにね。

 もう三ヶ月をきった、みんなとの「別れの瞬間」まで、いい思い出を作り上げていきましょう。(ちょっとかっこつけた新年第一号)」

これは、私自身へのメッセージかもしれません。

この「気づかない人生の岐路」については、この歳まで生きてくると、それこそ数え切れないほどあるものです。

①仲のいい友だちが、私立中学校を受験するという、単純な理由で一緒に受けて、入学したこと。公立に入学したらどうだったのだろう。もっとたくましく育ったかもしれないし、反対に「競争」を第一とする、いやなやつになっていたかもしれない。

②その私立中学で、仲良くなったT山くんが、自宅で首を吊って自殺した。その前日に、「この前借りた金を返すよ」と言われて、かなり前に貸した百円を返してくれた。いつもは、「おごってくれたんだよな」と言って、返すことなどなかった彼だけに、変だなあと思ったけれど、何も言わないで受け取ってしまった。あのとき、なにかの「予兆」を感じて、彼がどんな心境だったのかを察して、一言言ってあげられたらと、今も悔いが残る。

③これも中学生のとき。ダジョーというあだ名の仲良しがいた。(「おそ松くん」に登場するダジョーに似ていたから)そんな彼が突然、ゲバラに心酔してしまった。まだ、何も知らないで、社会のことには疎い私は、なんとなく彼を敬遠し始めて、疎遠になっていった。もっと彼の話を興味を聞いていたら、もっと早く社会に目が開かれていたかもしれない。

④高校生のとき、これも仲の良かったA木くんの家で遊んでいるときに、三島由紀夫の自害のニュースを聞いた。「仮面の告白」を読んだばかりだったので、大きなショックだった。「なんだ、彼の結末は自死かよ」と、単純に判断して、それ以上の思考を停止してしまった。なんで私は、思慮深くないのかなと後悔。

⑤A木くんの彼女が好きになってしまった。しばらくの間、私は彼に黙って、彼女とつきあっていた。後になってから彼に「許し」を乞う。(今考えると彼女を「所有物」扱いしていたのですね)彼女もきっと揺れていたし、苦しんでいたことだろうと思う。それなのに、何回目かのデートのときに(たしか上野だった)「夏目漱石の『心』を読んだんだ。やっぱり俺はA木との友情を選ぶよ」などと言って、彼女と別れてしまった。くだらない自己中心的な決断。彼女は、どちらも失ったのだから。

⑥高校三年の時。長野県にある「学生村」で、東京演劇アンサンブルの劇団員の人と同じ宿になる。男性2人、女性2人。彼らからは、ブレヒトの詩や、谷川俊太郎の「ネロ」の詩を教えてもらい、また劇のすばらしさを説いてもらう。チリのアジェンデ政権が軍事クーデターで倒れて、希望の星がひとつ消えてしまったと嘆いていた。私の劇好きは、ここが出発点。(いや、中学校のとき、文芸部の顧問だった伊藤先生に連れられて、初めて「リヤ王」を観たときかもしれない。まだ若い結城美栄子が末の娘役となって輝いてうつった)以来、よくその劇団の劇を観に行った。(「パリコミューン」は私にとって衝撃的な劇だった)それがあって、⑦につながっていく。

⑦駿台予備校の正門で、ビラをまいている予備校生がいた。「ベトナム人民支援委員会」という団体のメンバーだと言う。北爆のピークを迎えたころ。彼は私に、必死の形相で、北爆に向かうアメリカと、基地を提供する日本の政府の不当性を訴える。「受験」しか考えていなかった私には、新鮮な出会いであった。ほどなく私もそこのメンバーに入れてもらう。この経験がなかったら、今の私はないといってもいいくらいの岐路だったと思う。


⑧大学の新歓で、問題研究会と出会い、入会。卒業してから、誰とも会ってはいないが、ここで、知り合った仲間は、この30数年、片時も忘れたことがない。

だらだらと、しかも横道にそれながら、書いてしまった。
今なら「岐路」と思える瞬間は、いくらでもありますね。
陽水ではないですが、「人生が二度あれば」と、切なく思い出されるものばかりです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする