壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

みぞれ

2008年12月25日 21時13分47秒 | Weblog
        淋しさの底ぬけてふるみぞれかな     丈 草

 『けふの昔』(元禄十二年)には、下五が「しぐれかな」とあるが、時雨は短時間降る急雨で、あわただしい気分を伴ない、「淋しさの底ぬけて降る」というには適さない。
 また、『はだか麦』(元禄十四年)には、「霰かな」とあるが、芭蕉の句に「いかめしき音や霰の檜木笠」とあるように、霰は、しみじみとした淋しさにはほど遠い。
 みぞれは、白く舞い落ちる雪とも異なり、うそ寒く陰鬱な気分をもたらす。
 手元の『現代俳句歳時記』(角川春樹編)で、「霙」の項を見ると、次のような解説があり、霙にもっともふさわしい名句として、上記の丈草の句が選ばれている。

 【霙(みぞれ)】雪と雨が入りまじって降るものをいう。冬の初めと終わりに多い。雪が降るときに地表に近い所の気温が高いと、雪の一部が解けてつめたい水滴となり、雨まじりの雪となるのである。降りはじめが霙で、しだいに雪に変わってゆくということが多いようだ。雪や霰のような華やかさがなく、暗くてしめっぽく、積極的に美しさを認めたくなるような現象ではないが、それだけに複雑な心境と取り合わせて、心理的な深みを表現し得る季語ではあろう。霙る、みぞるる、みぞれけり、などと、動詞としても用いる。(『現代俳句歳時記・冬』:角川春樹編、P60より)

 言われてみれば、みぞれこそ「淋しさ」の極北にある降り物、という気がしてくる。「淋しさの底ぬけてふる」とは、主観の強い大胆な表現であるが、誇張や嫌味を感じさせないのは、丈草のいつわらぬ諦観の表白にほかならないからである。
 「淋しさの」の「の」は、淋しさそのもの「が」という意の主格にとれなくもない。しかし、そう解すると、「底ぬけ“て”ふる」が「底ぬけ“に”ふる」と同義になって、感心しない。「淋しさ」というものに底があるとすれば、その底をさらにつきぬけて、と連体修飾格に解すべきであろう。
 「淋しさの底ぬけて」とは、尋常の淋しさを通り越して、底しれぬ孤独に誘い込まれることを言ったのである。

 丈草は、ふつう何がしかの甘い感情を伴なう「淋しさ」を突き抜けたところの、禅者の自在な働きに根ざす本質的な淋しさ、いわば実存的な寂寥感を「みぞれ」のなかに看取したのにちがいない。

        「のちのおもひに」
                       立原道造

     (前略)
     夢は そのさきには もうゆかない
     なにもかも 忘れ果てようとおもひ
     忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

     夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
     そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
     星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
 
 「忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには」に、「淋しさの底ぬけて」と共通するものが、感じられてならない。


      みぞるるや地蔵は目鼻失へり     季 己