壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

十二月八日

2008年12月08日 21時20分38秒 | Weblog
 十二月八日は納めの薬師、そして中部以西では針供養の日でもある。
 この穏やかな朝に、
 「大本営発表、帝國陸海軍ハ本八日未明……米英両軍ト交戦状態ニ入レリ」
 と放送があり、日本は宿命の血戦へと、のめり込んだ。
 霜の深い、晴れ渡った朝であった、と聞いているが、もちろん知るわけがない。

 十二月はまた、極月・季冬・蠟月・師走などとも言う。
 蠟月八日、つまり十二月八日、釈尊が苦難に耐え、この日の未明に悟りをひらいたと言われ、禅寺では法会を修する。
 この日は、釈迦が成仏得道された日ということで「成道会(じょうどうえ)」とも、蠟月の八日を指して「蠟八会(ろうはつえ)」とも言う。
 禅宗の寺では十二月に入ると、「蠟八接心」という、ほとんど不眠不休のまま坐禅する厳しい修行にかかる。

        蠟八やわれと同じく骨と皮     一 茶

 八日の朝、粥を中心にした軽食をとるが、若い僧にとってはこれが、すばらしい美味であるという。        
 小豆・昆布・串柿・菜の葉・大豆粉など、古寺にそれぞれの伝統があり、温糟粥(うんぞうがゆ)・五味粥・蠟八粥などと呼ばれているが、昔は在家でも作ったらしい。

        蠟八や今朝雑炊の蕪の味     惟 然

 成道会は、二月十五日の涅槃会(ねはんえ)や四月八日の仏生会(ぶっしょうえ)と共に、釈迦の三会(さんえ)と呼ばれる、重要な仏教の記念日である。

 ――今からおよそ二千五百年前、ヒマラヤの裾野に住んでいたシャカ族は、非常に勇敢な狩猟民であった。
 群雄割拠するその時代に、シャカ族に属するカピラバストゥ城の王子として生まれたゴータマ・シッダールタは、諸国を統一する英雄としての教育を受けたことであろう。
 しかし、若き日のシッダールタは、なにか人知れぬ悩みにとらわれて、そのような武芸の鍛錬には興味を失ってしまった。心配した父王は、早速、シッダールタに妃を娶わせたり、数多くの美女を侍らせて宴会を催したり、何とかシッダールタの気持を引き立てようとしたが、瞑想に耽るシッダールタを呼び覚ますことは出来なかった。

 シッダールタは、世の中に、老・病・死の苦しみがあることを知って、それらから逃れる自由解脱の道を求め、弱肉強食の俗世を離れて、真に生きる道をあこがれていたのだ。
 そこで、二十九歳のシッダールタは、妻も子も父親も、国も財産もすべてを振り捨てて、ヒマラヤの山中に籠もってしまった。
 しかし、六年間に亘る難行苦行の結果、それさえもが、決して自己を活かし、衆生を救う道ではない、と気づいた。
 そこでヒマラヤの山を下り、ブッダガヤの菩提樹の下に草を敷いて、四十九日間の瞑想を凝らした。そうして、十二月八日の暁に、鶏の鳴く声を聞き、明けの明星が輝くのを見て、忽然と悟りをひらき、仏陀(=悟りを得たもの)となられた。
 そしてナイランジャ河に水浴びをして、六年間の汗と垢を流し、痩せ衰えた姿で河から上がってきた。その姿を見たスジャータという牛飼いの少女が、一杯の乳粥を、シッダールタに供養したのである。
 この出来事を記念して、今でも、成道会には、粥を食べる習わしとなっている。

  (※蠟月・蠟八の「蠟」の字は、正しくは「虫偏」ではなく、「月偏」です)


      コーヒーにスジャータ十二月八日     季 己