壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

炬燵

2008年12月01日 20時56分59秒 | Weblog
 「炬燵」は、「こたつ」と読み、「火燵」とも書く。芭蕉の句に、

        住みつかぬ旅の心や置火燵

 というのがある。
  「漂泊の生活を続けているうちに、今年も暮を迎えるに至った。一つ処に落
  ち着いてとどまることができず、どこへ行って、も常に何かに追い立てられ
  てでもいるようなこの旅心は、私へのもてなしとしてしつらえられた、この
  置火燵のどこか不安定な感じと似通っていて、いまさらのように旅心の侘び
  しさを嚙みしめていることだ」
 の意であろう。
 「置火燵」が冬の季語。掘火燵の方は安定しているが、置火燵は、あちらへ置いたり、こちらへ置いたり、どこか落ちつかぬもので、それを自分の旅の不安定な気持と結びつけた発想だと思う。

 エアコン、灯油ストーブなど、暖房器具が普及した昨今では、すっかり家庭とも縁が薄くなった炬燵ではある。
 昔は室内の暖房として、馴染みの最も深かったのが、炬燵であった。櫓を上に立てて布団をかけ、その上にお膳を置いて、ご飯を食べたり、トランプをしたり、一家団欒の中心であった。

 寒冷地では、床よりも低く切る「切炬燵」が用いられている。関東では「櫓炬燵」、関西では土製の頭の丸い「大和炬燵」、共に移動のできる「置炬燵」である。このほか「掘り炬燵」・「達磨炬燵」、近年は、食卓・マージャン台兼用の「電気炬燵」など、炬燵にもいろいろある。

 陰暦十月の中の亥の日が、茶道の炉開きの日であるのに倣って、新暦十一月の中の亥の日を、「炬燵開き」とする習慣もあった。
 亥は十二支の最後で、陰陽道では、最も陰の極まる動物とされているので、火災を防ぐという意味もあったのであろう。昔は炬燵の火の不始末から火事を起こすということが、少なくなかったという。迷信とは言え、火の用心を意識するという気持だけは、お互いに失いたくないものである。

        腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな     蕪 村
        淀舟やこたつの下の水の音      太 祇
        うすうすと寝るや炬燵の伏見舟     一 茶
        火燵から見ゆるや橋の人通り     子 規
        横顔を炬燵にのせて日本の母     草田男

 炬燵に入ったまま、身体をねじってテレビを見ていた母が、居眠りをしている。まるで“未病”のように。よほど疲れたのであろう。

 ――平成14年12月3日に、伯父、つまり母の兄が亡くなった。
 その伯父の墓のあるのが、鎌倉の光明寺である。
 詳しいことは書けないが、60代の女が、90過ぎの伯父を騙し、預貯金を全部引き出し、預貯金が無くなると入籍だけして(もちろん?同居せず、面倒も一切見ない)、伯父が亡くなると、北鎌倉の家屋敷を売り払い、どこかへ消えてしまったのだ。
 ただ、伯父の葬儀だけはしてくれて、一日で納骨まで済ませたという。光明寺さんへの御布施、葬儀屋・仕出し屋の支払いを踏み倒し、香典を持ってドロンしてしまったとのこと。
 入籍されてしまったので、墓の継承権は、その女にあるのだが、ナシノツブテ。そこで事実上、故人の妹の息子である変人が、伯父の墓守をしている。そんなわけで、母がどうしても、七回忌の供養をしたい、ということで鎌倉まで電車で連れて行ったのだ。ふだんは、シルバーカーを押して買い物をしている母が、杖だけで東京、鎌倉を往復したのだ。おそらく、必死の思いで……。
 法要をしてくれた光明寺の若い僧に、「13回忌には、来られないと思うので」と言う母の言葉が切なかった。


      銀杏散る塔婆二本の七回忌     季 己