壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

賤の門松

2008年12月24日 21時32分19秒 | Weblog
 日本橋・高島屋の地下、食品売り場には、ところどころ異様な行列が出来ていた。どうやら、クリスマスケーキを買うために並んでいるらしい。
 キリスト教の国でもない日本が、どうして、世界でも類を見ないほどに、底抜け騒ぎのクリスマス・イブを楽しむのだろうか。
 と思う間もなく、大晦日にはお寺で除夜の鐘、そうしてそのまま神社へ初詣。日本人は、多神教というより無宗教で、ただ単にドンチャン騒ぎ、いや並ぶのが好きなだけなのかもしれない。行列の中にいれば、安心できる民族なのであろう。

 高島屋へ行く前に、近所のスーパーで大根締めと輪飾りを買った。どちらも、歳の市の値段の半額以下の値段であった。
 ところで、正月の縁起物としての門松は、太い削ぎ竹を真ん中に立て、下廻りを短い竹で囲った豪勢なものを立てるお邸がある。また拙宅のように、町会を通して配布される、紙に印刷したもので済ませる家もある。
 各人各様であるが、富裕なお邸で、その財力を誇って、滅多やたらと立派な門松を立てるのは、いかがなものであろうか。実は、これは滑稽な錯覚なのである。

と言うのも、平安時代の、内裏や貴族の邸宅では、門松を立てることもなく、注連縄を張ることもなく、むしろ、門松や注連縄は、貧しい民家で用いる習慣だったのである。
 それは平安末期に描かれた『年中行事絵巻』を見ても、貴族の邸宅の門前には門松も注連飾りもなく、道路に沿った民家の垣根に、注連縄が張り巡らされている構図があるのを見てもわかることである。

 その上、紀貫之の『土佐日記』には、承平五年(935)正月元日の条に、塩押鮎の頭が、人間にかじられた時、互いに交わした私語として、
 「今日は都のみぞ思ひやらるる」
 「小家の門の注連縄の鯔の頭・柊ら、如何にぞ」
 と言わせているところからして、門松や注連縄だけでなく、近世では、節分の塩鰯の頭を柊の枝にさして飾る魔除けの風習も、平安時代には、庶民階級に限られた、実は、家の中の穢れを外へ出させずに閉じ込める、官尊民卑の風習であったことがわかるのである。

 さらに、『嘉応二年(1170)五月二十九日左衛門督実国歌合』の、歳暮題四番右方の右京権大夫源頼政の歌に、
        おのがじし 賤(しづ)の門松 持て騒ぐ
          立つべき春や 近くなるらむ
 というのがあるが、ちょうど歳の暮の市中の庶民が、正月の準備に右往左往するさまを描写したものである。立派な門松を立てる大金持ちとは、実は欲の深い賤しい庶民なのかもしれない。
 (※おのがじし=めいめい。それぞれ。 賤=身分の低い者。いやしいこと。)


      寒椿むかし影踏みせしところ     季 己