壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

水仙

2008年12月16日 21時48分36秒 | Weblog
 「水仙まつり」が、下田市爪木崎で、今月20日から1月31日まで開かれる。
 もう間もなく、300万本の水仙が見頃を迎えるとのこと。
 20日午前10時の開会式典では、ペンギンパレードや地元名物鍋「いけんだ煮みそ」を、先着200人が楽しめる。鍋サービスは、1月3日午前10時半からもふるまわれる。
 下田温泉などの宿泊客には、連日午前8時半から午後2時まで、甘酒サービスもある。詳しくは、下田市観光協会(℡ 0558-22-1531)へ。

        水仙や古鏡の如く花をかゝぐ     たかし

 作者の松本たかしは、明治三十九年、宝生流能の名人松本長(ながし)の長男として、神田猿楽町に生まれた。父祖代々宝生流座附の能役者の名門であり、当然たかしも幼年から能を仕込まれ、家業を継ぐべき運命にあった。だが病弱のため断念し、療養生活にはいり、大正十年ごろから虚子について俳句を始めた。

 たかしは、茅舎と同じく、句に「ごとし」を愛用している。
 「ごとし」を極力使わぬようにしている変人ではあるが、書の雅号が「古鏡」ということもあり、水仙の句では、この句が最も好きである。
 水仙の中に、水仙を通して、古鏡の澄み切った冷たい面が、間違いなく、一つのはっきりした「形」として、一瞬の閃光のように浮かび上がる。
 たかしは俳句に、素朴淳厚な「万葉集」の精神を生かすことを念願としていたのではないか。芭蕉から世阿弥を越えて、もっと根源的な強い生命力に、郷愁めいた憧れを抱いているように思われる。
 水仙は、寂しく品のある花であり、その花の形容としての「古鏡」は、たかしの精神的貴族としての風格を象徴している。

        水仙の夜は荒星のつぶて打ち      眸
        次の間といふうすやみの水仙花     七菜子

 水仙は、菊より末の弟とか、雪の中の四つの友などと呼ばれて、東洋の文人画には、なくてはならぬ画題「四君子」の一つである。
 切り花にして活けても、どの器にもよく調和する、飾り気のない素直な花だ。
 ありあわせのコップに活けてよし、ちょっと洒落て赤絵の徳利に挿しかえてもよし。正月には、金大容さんの「粉青窯変一輪挿し」に、水仙を挿そうかと思っている。

 ところで、水仙の一種に、口紅水仙というのがある。やはり、白い花びらに、黄色の副花冠を載せたものだが、その副花冠の縁が口紅で染めたように、愛らしい縁取りを施されている。
 この水仙をラテン語では、ナルキッスス・ポエティクス(詩のような水仙)と呼ぶそうだ。ナルキッススというのは、ナルシストの語源となった、ギリシャ神話に出てくる美しい少年で、水に映った自分の容貌にあこがれて、水に溺れて水仙の花になったという伝説がある。 
  

      水仙の岬おもへば心澄み     季 己 

初霜

2008年12月15日 21時19分49秒 | Weblog
 ひたひたと歩く畳が、素足に冷たい。雨戸を繰る朝の息が白く、軒端に消えてゆく。「ああ、寒い朝だな」と見やる玄関までの敷石が、霜に覆われて真白である。初霜だ。そういえば、昨夜は風がなく、雲もなかった。

        初霜やひとりの咳はおのれ聴く     草 城

 やがて、きらきらとバラ色に輝いて太陽が、屋根と屋根との間から顔を出す。しばし、虹色に染まっていた軒や柿の木の霜が、急速に溶け始める。

        初霜の柿や天地を貫けり     孝 作

 昨日、銀座の画廊宮坂で観た、美斎津匠一さんの絵を思い出す。単純化された画面から、作者の心が感じられた。いい意味の、作者のこだわりも感じられた。

 南北に長い日本列島は、四季の訪れも、土地によって遅い早いがある。初霜の降りる地域差も大きいが、陰暦十月が初霜月といわれるように、一般的には初冬の季語として定着している。
 立冬前に降りる霜は、秋霜・露霜・水霜といわれる。

        手にとらば消えん泪ぞ熱き秋の霜     芭 蕉

 「亡き母のかぼそい白髪を見ると、自分の涙はたぎり落ちてとめどもない。この白髪は手に取ったなら、この熱い涙で、秋の霜のように消え失せてしまうであろう」という意。

 『野ざらし紀行』に、「長月の初め、故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯れ果てて、今は跡だになし。何事も昔に替りてはらからの鬢白く、眉皺寄りて、ただ命有りてとのみ云ひて言葉はなきに、兄の守袋をほどきて、母の白髪拝めよ、浦島の子が玉手箱、汝が眉もやや老いたりと、暫く泣きて」とあって、この句が出ている。
 「秋の霜」が季語で、比喩的に使われている。句は「秋の霜」のもろさを悲しんでいるが、心は、秋の霜にも似た母の白髪をいっているのである。

 「手にとらば消えん」と字余りにしたところには、激動する心が察せられるが、「泪ぞ熱き秋の霜」というように比喩で出したところには、句面に悲しむ姿があらわに出すぎてしまった感じがある。芭蕉の慟哭の姿だけは見られるが、悲しみの心は深くは胸に沁みとおってこない憾みがある。
 芭蕉が四十一歳にあたる時の作である。母は、前年の天和三年六月二十日に亡くなっている。


      初霜や腰椎ベルト締め直す     季 己 

かいつぶり

2008年12月14日 20時08分55秒 | Weblog
        淡海いまも信心の国かいつむり     澄 雄
 
 近江(淡海)の国の琵琶湖は、古くは「にほの海」と呼ばれた。
 その名の起りは、滋賀県野洲郡の一部のあたりを、邇保(にほ)の郷と呼んでいたからだという。つまり、琵琶湖の岸が入り江になったこのあたりは「にほの浦」と呼ばれていた。それが、琵琶湖全体に広がって、いつの頃からか、「にほの海」と呼ばれるようになったのである。
 ところで、この「にほ」というのは、元来、「にほ鳥」すなわち「かいつぶり」のことであって、かいつぶりがたくさん集まることから、「にほの浦」さらに「にほの海」の地名が生じたのであろう。

        かいつぶりさびしくなればくぐりけり     草 城

 さて、このかいつぶりは、地方によっては、ムグッチョとかズブリコなどと呼ばれて、年中、わが国にいる水鳥であるが、やはり冬の池や沼にいるときが目立つようである。水鳥の一つとして、俳句では冬の季語とされている。
 風の凪いだ冬の池の水面に静かに浮かんでいて、時折、突然ズブリと水中にもぐったかと思うと、思いもかけぬ遠い所に、ぽかりと浮かびあがる。
 方言のムグッチョとかズブリコというのも、その突然の水潜りからきた名前であろう。

        にほ沈みわれも何かを失ひし       汀 女
        世の寒さにほの潜るを視て足りぬ     欣 一

 かいつぶりは、かいつむり・にほ・にほどり、また、よく潜るところから潜り鳥・一丁潜り・八丁潜りなどともいう。
 一丁すなわち百十メートルも潜るというのは、少々オーバーだと思うが、よほど息は長いのであろう。そこで、『萬葉集』巻二十に見える馬史国人(うまのふひとくにひと)の歌、
        にほ鳥の 息長川は 絶えぬとも
          君に語らむ 言尽きめやも
 に用いられた「息長川(おきながかは)の枕詞としての「にほ鳥」に、かいつぶりの潜水時間の長さ、一呼吸の長さが、はっきりと公認されている。

        かいつぶり人は夕映着て帰る         翔
        かたむける日ににほどりのなきにけり     風三楼

 どうやら、かいつぶりには、夕暮れが似合うようである。
 ちなみに、かいつぶりは、草の茎、葉などを集めて、水量の増減に応じられるように、水草を支えとして巧みに営巣する。これを「にほの浮巣」といって、夏の季語となっている。
 

      ケーキ買ふ列や銀座の社会鍋     季 己

煤払い

2008年12月13日 22時01分48秒 | Weblog
 ことしも余すところ幾日もなくなった。心忙しく立ちまわって、正月を迎える準備をしなければならない。
 しかし、不景気の暴風が吹き荒れている今、心の底から喜んで、新年を迎えられる人が、はたしてどれくらいいるだろうか。
 ふつうなら、煤掃き・注連飾りの用意・餅つき……、主婦などは「人に手足の十ばかり」の嘆を抱くのであろうが、今年は、「どうすれば年を越せるか」と不安を抱えている人が多いのではないか。

 「煤払い」とは、新年を迎えるために、神棚をはじめ家の中の煤や埃を払い清めることをいう。江戸時代には、十二月十三日に行なわれたが、今では日は定まっていない。寺院などでは、それぞれのしきたりに基づいて行なわれているようだ。
 「煤籠(すすごもり)」といって、煤払いの日には老人・子供・病人などは、別室に避けさせる。煤払いを避けて外出するのを「煤逃げ」といい、煤払いの後で風呂に入るのを「煤湯」という。

        汲みたての水うつくしき煤払     草 城
        老夫婦鼻つき合せ煤ごもり      花 蓑
        煤逃げの丸善に買ふ糊ひとつ     三十四
        銭湯や煤湯といふを忘れをり     桂 郎

        煤掃きの日や髪結ふて謗らるる     也 有

 煤掃きは、煤払いと同じ意。どの家でも、猫の手も借りたい煤払いの日に、きれいに髪を結い上げて、表を通るのは、どこかのお囲い者か何か。家の中では、目引き袖引き陰口をたたいているという、今とは全く違った江戸の町の風景が、眼に浮かぶようである。

 片付けるのが面倒な誰かさんは、
        煤掃きてしばしなじまぬ住居かな     許 六
 になってしまうからと、屁理屈をこねて、煤逃げが得意。もし、やったとしても、
        煤はきやなにを一つも捨てられず     支 考
 になることは必定である。

        旅寝して見しや浮世の煤払ひ     芭 蕉

 「漂泊の旅寝を続けていて、はからずも人々が忙しげに煤払いをするさまを目にしたことだ。もう世間は押しつまった歳暮になっていたのだな」の意。

 この句では、上五の「旅寝して」のひびいていく「浮世の」が眼目で、旅の途中で、煤払いを嘱目して、旅寝の自分と、煤払いの世間との二つの世界が、眼前に繰りひろげられた軽い驚きである。
 これは旅寝の境遇に身をまかせきって、世間を忘れがちであったが、煤払いという浮世の営みによって、はっきり自分の身の置き所を見せつけられたというその驚きである。
 常の人々の営みによって、自分の姿をはっきりさせられてしまった気持が、「浮世の」という発想を呼びさましたものであろう。
 

      歳月の綺羅の大壺 年用意     季 己

冬の月

2008年12月12日 18時20分34秒 | Weblog
 東京藝大の博士論文発表会へ、連日通っている。
 昨日は、陶芸の金大容(キム・デヨン)さんの「無為自然の壺 ―朝鮮陶磁への回帰―」と題する論文の口頭発表。
 そして今日は、保存修復(彫刻)の益田芳樹さんの「慶派仏像における胴継ぎ構造の研究 ―興福寺国宝木造天燈鬼・竜燈鬼立像を中心に―」である。
 こちらも堂々たる発表で、先行論文に一石を投じ、なおかつ解明したなかなかの論考であった。
 この博士論文の主査は、奈良のマスコットキャラクター「せんとくん」の製作者としても有名な籔内佐斗司教授。
 口頭発表の弱点?をつくような形で質問をし、この論文のハイライトともいうべき部分を引き出させたのは、さすがである。美しい師弟愛を見たような気がして、さわやかないい気分に浸れた。

 帰り際、また金大容さんの粉青流掛面取壺を観たが、観れば観るほどよくなる。何回観ても例の二点が、特にすばらしい。
 聞けば、一点は、金さんの最も気に入っている作品という。もう一点は、主査である島田文雄教授が、最もよいと言われた作品とのこと。
 俳句にたとえれば、金さんのお気に入りは心敬、島田教授のお墨付きは芭蕉ではないかと、秘かに思っている。だから、この二点に惹かれるのだ、と確信した。

 『フェルメール展』を観るため、東京都美術館へ行ったら長蛇の列。関係者に尋ねたら、2時間待ちとのこと。これまでに3回観ているので、4回目はあきらめて帰ることにした。
 帰宅後、一息入れて、2階の雨戸を繰ろうとしたら、満月が冴え冴えと輝いていた。

        いつも見るものとは違ふ冬の月     鬼 貫

 寒々と冴え渡った冬の大気中に輝く月を、万葉の昔から日本人は特別なものと捉えてきた。その透徹したさま、寂寥感などは、他の季節の月からは味わえない、日本の冬ならではの景である。

        この木戸や鎖(じょう)のさされて冬の月     其 角

 芭蕉がこれを「秀逸」と評したことで知られる句である。この句は『猿蓑』に載り、このころの芭蕉は、「この一筋につながる」と自分の道を見定め、また、これに伴なっての独自の作風を展開していた時代であるから、其角が自分とは異質の作家であることは知っていたはずである。このことは、其角においても同様なのであるが、その作品については互いに認め合うことが出来たのである。
 これは一つには、『虚栗』までの若かりしころに培われた深い師弟愛が、二人を強く結んでいたということであるが、より大きな原因は、感受の真が理論に優先するという点で、両者が共通しているということである。

 木戸は城門の意。固く閉ざされた木戸を冷ややかに照らしている月の光には、締め出された人の、取り付く島もない感情を、真実、切ないものにするものがあると推し量られる。
 江戸の町々には、町ごとに木戸が構えられて、町内の自治・自衛の手段となっていた。

        寒月や門なき寺の天高し     蕪 村

 山門さえ朽ち果てた古寺の空高く、荒れた庭の隅々まで照らし出している月。死の世界をも思わせ、ぞっとして足も立ちすくむ光景とも思える。

        寒月や喰ひつきさうな鬼瓦     一 茶

 鬼気迫るような月の光が、鬼瓦に潜む魔性を呼び覚ますという一茶の句は、まったくストレートなものである。
 冬の夜の月光の下をひとり行くときは、自分の足音さえもが、何か背後にあとをつけて来る者があるのではないかと疑心暗鬼を生じる。
        下駄音や庵へ曲がる冬の月     一 茶
 というのは、そのような心理を詠んだものであろう。
 もう、そこを曲れば、自分の家だと思うと、自分の足でありながら、それを振りちぎるように、一散に駆け出した、などという幼いころの経験は、誰にでもあることであろう。


      うぶすなの冬満月が夜を均す     季 己

当たった

2008年12月11日 21時00分56秒 | Weblog
 当たった!、といっても宝くじではなく、生牡蠣に、である。
 むかし、無理に生牡蠣を食べさせられ、大当たりして苦しんだことがある。それ以来、生牡蠣はもちろん、牡蠣フライ以外は食べないようにしている。その牡蠣フライさえ、食べて、せいぜい1個か2個である。

        牡蠣鍋の葱の切つ先そろひけり     秋櫻子

 寒さが本格的になると、食通の喜ぶ牡蠣料理のシーズンとなる。
 牡蠣の酢の物、牡蠣フライ、グラタンなどはともかく、通には、牡蠣雑炊や牡蠣飯などは、何といっても冬の季節料理として欠かせないだろう。

        牡蠣船にゐて大阪に来てゐたり     たけし

 牡蠣料理といえば、思い出されるのが、水の都大阪の川筋に浮かぶ牡蠣船である。牡蠣船は、牡蠣料理の屋形船のことで、原産地広島に起こり、大阪道頓堀で発達した。
 道頓堀や横堀川、堂島あたりの川筋の、橋のたもとから石段をとんとんと下りた所に、船繋りをした屋形船。名物牡蠣料理のネオンや提燈の火が、三百数十年の歴史を、同じ川面に映して、ちらちらと明滅している。

        牡蠣船にもちこむわかればなしかな     万太郎

 花柳章太郎・水谷八重子の、新派の一シーンを観るようだ。また、「牡蠣船」以外を全て“ひらがな”にしたのも効果的である。

        舟通るたびに牡蠣船ゆれにけり     新 樹

 いくつもに行き廻らせた掘割の水が、汐の差し引きに、ひたひたと舷を打つとき、川筋を上下する舟が残してゆくうねりに乗せられる時、繋ぎっぱなしの屋形船ではあっても、牡蠣料理の座敷に一献かたむける人は、快い船遊びの気分を満喫することであろう。

 近頃では、この牡蠣舟も、季節外れには牡蠣料理以外のメニューも提供しているが、もとは、季節外れには、店を仕舞って、養殖牡蠣の故郷広島へ引き上げていたものだそうだ。
 牡蠣船の趣向そのものは、元来、広島で始められたのであるが、食い倒れの大阪に船を出して、牡蠣船は、大阪の名物となったとのこと。そのために、広島の牡蠣養殖が繁盛する、という相互扶助の関係があったようである。


      ポリープをとり湯豆腐の浮き沈み     季 己

鴨の羽がひに霜降りて

2008年12月10日 21時43分23秒 | Weblog
                  志貴皇子
        葦辺ゆく 鴨の羽がひに 霜降りて
          寒き夕べは 大和し思ほゆ  (『萬葉集』巻一)

 文武天皇が慶雲三年、難波の宮に行幸したもうた時、それに従って行った志貴皇子の詠まれた御歌である。
 志貴皇子は、天智天皇の第七皇子で、のちに、皇子の御子が帝位に即いて、光仁天皇となられた。そして、光仁の即位によって、皇統は再び天智天皇の系統に返ったことになる。志貴皇子は、ちょうどその橋渡しの位置を、系図の上で占めていることになる。

 難波の地に旅して、そこの芦の生えている岸を飛びわたる鴨の羽根の合せ目のところに霜が降(ふ)り置いて、そうした冷たく寒い夜は、大和の家郷のことがしきりに思われてならない、鴨でさえも共寝をするのに……、というのである。

 慶雲三年(706)のこのときの行幸は、九月二十五日から十月十二日まで、すなわち、晩秋初冬の霜の降りはじめるころである。
 難波の宮のあったところは明らかでないが、孝徳天皇の長柄豊崎宮(ながらのとよさきのみや)であろう、との説がある。そうだとすれば、淀川に臨んだ、芦の多い川辺の宮である。藤原京から見れば、淋しいところだったに違いない。

 志貴皇子の御歌は、歌調明快でありながら、感動が常識的粗雑におちいるということがない。この歌は、おそらく夜の鎮魂歌であろう。旅中の夜の歌には、昼間の情景をまざまざと眼に浮かべながら作っているものが多い。
 鴨の羽交(はがい)に霜が置くというのは、現実の細かい写実というよりは一つの「感」で運んでいるが、その「感」は空漠たるものでなしに、人間の観察が本となっている点に強みがある。そこで、「霜降りて」と断定した表現が利くのである。
 つまり、夜目に見えるはずもないが、昼間の景色を思い浮かべながら、かくもあろうかと想像しているのだ。深々と夜が更け、きびしく冷え込んでくるにつけて、芦辺の鴨のことを気にしているのだ。
 「葦辺ゆく」という句にしても、ややぼんやりしたところがあるように思えるが、これはもちろん、昼間の観察からの想像である。

 鴨は魂の運搬者だから、鴨のことを思うことは、すぐに故郷の妻子たちを思うことにつながってくる。あるいは逆に、大和の家族たちのことを思うからこそ、鴨のことが気にかかってくる。
 鴨に思いを凝らすことと、家をしきりに思うことと、一体なのである。思いを凝らせばこそ、「鴨の羽がひに霜降りて」などという凝視の利いた詩句が生まれてくるのだ。いかにもまざまざと見ているように、具象的に眼に浮かべているのだが、そのイメージの鮮明さが、この歌の強く張ったリズム感と、相伴って生かされているのである。

 志貴皇子の御歌から、「俳句は凝視」「俳句は断定」「俳句は具象」「俳句はリズム」を、学ばせていただいた。
 俳句は、「絵を描くように、うたうように」の感を、ますます強めた次第。


      弁天堂うしろの水が鴨を待つ     季 己

雀と年の暮

2008年12月09日 21時37分37秒 | Weblog
 隣の家の軒先に並んで、餌を待っていた雀たちが、最近、ぱったりと姿を見せなくなった。冬眠しているわけはないし、どこかで元気に過ごしていればいいのだが……。

        食堂に雀啼くなり夕時雨     支 考

 『続猿蓑』などに入集した句で、季語は「夕時雨」で冬。
 時雨は、初冬の頃に昼夜の区別なく、また陰晴にかかわらず、時折、降りすぎる急雨をいう。「食堂(じきどう)」は、寺院の七堂の一つで、衆僧の食事をとる所である。多く本堂の東廊につづいて、食事のときの合図に叩く魚板などを廊下に掛けてある。禅寺などに多い。

 おそらく七堂伽藍の整った大きな禅寺の境内であろう。夕闇の迫る頃、急に冷たい時雨がさっと降り出して、屋根や庭を濡らしていく。
 餌をあさっていた雀が、その雨をのがれて食堂の軒下に群れて、チュッチュッとひときわ騒がしく囀りたてている。

 雀に小家の軒は、古風の付合であるが、夕時雨を背景として、大寺院の食堂の軒に雀の啼く情景をとらえたところに、この句の新鮮さがあり、詩趣の深いものがある。

        鳥共も寝入つてゐるか余呉の海     路 通

 元禄四年(1691)刊の『猿蓑』に入集する句である。
 世の放浪児である路通は、今宵の宿も決まらないまま、暮れようとする冬の近江路をとぼとぼ歩いている。と、前方には鈍色に光る余呉の湖が開ける。その静かな湖面に点々と黒い影が浮かんでいる。水鳥は寒さにかたまってもう寝ているのだろうか。湖面はただ暗くひっそりとしている、の意である。

 この鳥は「浮寝鳥」(水鳥)で、冬の季語となる。「寝入つてゐるか」はこの場にふさわしく、水鳥にも話しかけるような“さすらい”の路通の身の上を考えると、いっそう味わいが深い。
 『去来抄』には、芭蕉が「此の句 細みあり」と褒め、作者の心情のこまやかな屈折を「細み」と評した、有名な句である。

        いねいねと人にいはれつ年の暮     路 通

 これも『猿蓑』に入集する句である。
 いつの時代も師走は忙しく、どの町家でも、坊主や浪人を相手にはしていられない。乞食生活の路通も、俳諧を縁にあちこちと泊まり歩いていたが、年の暮だけは忙しさに迷惑がって、どこへ行っても断られた。行くあてもなく、途方に暮れた素直な気持を詠んだ句である。

 「いねいね」は「去ね去ね」で、「出てゆけ、あっちへ行け」の意である。季語は「年の暮」で冬。
 当時、路通が同門の間に不評で嫌われていたのは、自分の意志の弱さからくる怠惰、また、そうした人につきものの思い上がりなどで、師への恭順の心を欠いたのが、その理由であろう。「人のふり見て、我がふり直せ」と、つくづく思う。
 この句は、嫌われ者のさびしい孤独感がひしひしと感じられ、俳味もあって面白い。これも、「同病相憐れむ」か……。(反省!)


      わが影を収めて冬木昏れゆけり     季 己

十二月八日

2008年12月08日 21時20分38秒 | Weblog
 十二月八日は納めの薬師、そして中部以西では針供養の日でもある。
 この穏やかな朝に、
 「大本営発表、帝國陸海軍ハ本八日未明……米英両軍ト交戦状態ニ入レリ」
 と放送があり、日本は宿命の血戦へと、のめり込んだ。
 霜の深い、晴れ渡った朝であった、と聞いているが、もちろん知るわけがない。

 十二月はまた、極月・季冬・蠟月・師走などとも言う。
 蠟月八日、つまり十二月八日、釈尊が苦難に耐え、この日の未明に悟りをひらいたと言われ、禅寺では法会を修する。
 この日は、釈迦が成仏得道された日ということで「成道会(じょうどうえ)」とも、蠟月の八日を指して「蠟八会(ろうはつえ)」とも言う。
 禅宗の寺では十二月に入ると、「蠟八接心」という、ほとんど不眠不休のまま坐禅する厳しい修行にかかる。

        蠟八やわれと同じく骨と皮     一 茶

 八日の朝、粥を中心にした軽食をとるが、若い僧にとってはこれが、すばらしい美味であるという。        
 小豆・昆布・串柿・菜の葉・大豆粉など、古寺にそれぞれの伝統があり、温糟粥(うんぞうがゆ)・五味粥・蠟八粥などと呼ばれているが、昔は在家でも作ったらしい。

        蠟八や今朝雑炊の蕪の味     惟 然

 成道会は、二月十五日の涅槃会(ねはんえ)や四月八日の仏生会(ぶっしょうえ)と共に、釈迦の三会(さんえ)と呼ばれる、重要な仏教の記念日である。

 ――今からおよそ二千五百年前、ヒマラヤの裾野に住んでいたシャカ族は、非常に勇敢な狩猟民であった。
 群雄割拠するその時代に、シャカ族に属するカピラバストゥ城の王子として生まれたゴータマ・シッダールタは、諸国を統一する英雄としての教育を受けたことであろう。
 しかし、若き日のシッダールタは、なにか人知れぬ悩みにとらわれて、そのような武芸の鍛錬には興味を失ってしまった。心配した父王は、早速、シッダールタに妃を娶わせたり、数多くの美女を侍らせて宴会を催したり、何とかシッダールタの気持を引き立てようとしたが、瞑想に耽るシッダールタを呼び覚ますことは出来なかった。

 シッダールタは、世の中に、老・病・死の苦しみがあることを知って、それらから逃れる自由解脱の道を求め、弱肉強食の俗世を離れて、真に生きる道をあこがれていたのだ。
 そこで、二十九歳のシッダールタは、妻も子も父親も、国も財産もすべてを振り捨てて、ヒマラヤの山中に籠もってしまった。
 しかし、六年間に亘る難行苦行の結果、それさえもが、決して自己を活かし、衆生を救う道ではない、と気づいた。
 そこでヒマラヤの山を下り、ブッダガヤの菩提樹の下に草を敷いて、四十九日間の瞑想を凝らした。そうして、十二月八日の暁に、鶏の鳴く声を聞き、明けの明星が輝くのを見て、忽然と悟りをひらき、仏陀(=悟りを得たもの)となられた。
 そしてナイランジャ河に水浴びをして、六年間の汗と垢を流し、痩せ衰えた姿で河から上がってきた。その姿を見たスジャータという牛飼いの少女が、一杯の乳粥を、シッダールタに供養したのである。
 この出来事を記念して、今でも、成道会には、粥を食べる習わしとなっている。

  (※蠟月・蠟八の「蠟」の字は、正しくは「虫偏」ではなく、「月偏」です)


      コーヒーにスジャータ十二月八日     季 己

兎狩り

2008年12月07日 20時49分25秒 | Weblog
 『ピカソ展』(国立新美術館・サントリー美術館)から戻り、歳時記を読んでいたら、“兎狩り”という季語に出くわした。
 “兎狩り”は冬の季語で、例句として、「裏山に出て雪ありぬ兎罠  鈴鹿野風呂」とある。念のため別の歳時記を開いたら、「裏山に出て雪ありぬ兎狩  野風呂」として載っている。はたして原句は……。

 “兎狩り”は、現在でも行なわれているのだろうか。
 伝統行事として、実際に行なっているところがあるらしいが、野兎ではなく、着ぐるみの兎で行なっていると知り、安堵した。

        衆目を蹴つて脱兎や枯野弾む     草田男

 「ホーイ、ホーイ」の声が、冬枯れの山裾を遠巻きに響く。手に手に棒っ切れを持った勢子(せこ)が、あちこちの藪を叩きながら、追い上げて行く。
 ハンターにとっては、これからは楽しい兎狩りのシーズン。十二月から狩猟解禁となるが、兎をはじめ獣たちにとっては、受難の季節となる。

 もともと、農業が基本のこの島国には、鹿や猪、狐、狸などの他には、あまり大型の野生動物も棲まず、命がけの猛獣狩りなどという勇壮な狩猟は出来ない。兎狩りというのは、ごく手軽に誰にでも楽しめる、冬のスポーツであったのだろう。

        渤海に傾ける野の兎狩り     波 郷

 前脚が短く後脚の長い兎は、傾斜地を登るのは早くても、駆け下りることは苦手なので、兎狩りの勢子の声に逃げ惑って、どんどん、山を駆け登って行く。
 ところが、そうした草山や雑木山では、人の眼を逃れるほどの隠れ場所がない。やむを得ず開けた頂上へ登り詰めていくより仕方がないのだ。

        手捕つたる山の兎の瞳はや     黙 泉
        
 すっかり戸惑って駆け上がっていく兎らは、要所要所に張り巡らせた網の目に気づくものではない。たちまち、もんどりうって、網に絡まってしまう。

        兎汁山河たちまち夜となりぬ     北 人

 そこを待ち受けた人間が、情け容赦もなく叩き伏せて縛り上げてしまう。やがて兎汁の身となって、人間様の腹の中に収まってしまう。
 それにしても、この因果な前脚の短さについては、インドにこんな仏教説話が残されている。

 ――お釈迦様の前世の姿は、なんと兎でありました。
 この兎が棲んでいる森に、インドラの神が、乞食の老人となって現れました。
 森の獣たちは、この老人にご馳走をしようと、めいめい食べ物を探しに出かけました。兎も、もちろん出かけました。けれども、運悪く、何も手に入れることが出来ませんでした。
 すごすごと帰って来た兎が、早速、火を焚き始めました。インドラの神は、食べ物を手に入れなかった代わりに、火を焚く勤めをしているのかと見ていました。
 すると突然、兎は燃え立った火の中に、自分の身体を投げ入れたのです。そして
 「お年寄り、私の肉が程よく焼けましたら、なにとぞ、ご遠慮なく召し上がってください。これが、私の今日のご馳走です」
 と、申します。
 驚いたインドラの神は、急いで兎を火の中から助け出し、その徳を褒め称えて天国へ連れて帰り、月の世界に住まわせました。
 その時の火傷のせいで、兎の前脚は短くなったのだということです。


      極月の無口 ピカソの《若い画家》     季 己

博士審査展・金大容

2008年12月06日 20時50分57秒 | Weblog
 「さすが“博士審査展”」と、うなってしまった。特に、展示室1・展示室2では……。

 「東京藝術大学 大学院美術研究科 博士審査展」が、今日から同大学美術館で始まった。
 まず地下二階の展示室1から観させていただく、まるで自分が審査するように。
 金大容(キム・デヨン)さんの、「粉青流掛面取壺」に深い感動と共感をおぼえる。高さ40センチ前後の作品が5点展示されているが、そのうちの2点に、とくに心奪われ、釘付け状態。
 つぎに、金さんの「博士論文」を読ませてもらう。
 「無為自然の壺 ―朝鮮陶磁への回帰―」と題して、研究の目的、本論、結論と非常によく勉強されたことがわかる。
 「無為自然の壺」と言うのはたやすいが、いざ実践するとなると、これほど大変なことはない。技術だけではダメで、“こころ”が伴なわなければ絶対と言ってよいほど、出来ないであろう。

 韓国陶芸界の若きスターの一人である金さんが、来日し、藝大で学ばれたのは、現代の韓国陶磁に危惧を抱き、朝鮮陶磁の“こころ”を、日本の茶道の中に見出したからではなかろうか。その“こころ”を具現化する手段として“面取り”を学ばれたのであろう。丸い壺と面取りの壺とでは、陰影が微妙に違う、いや、はっきり違う、と言ってもよかろう。

 金さんは、マイスターと呼んでもいいほどの技術を持っている。その技術を誇示することなく、無心で土を練り、轆轤を廻す。轆轤を廻しながら、形は土のなりたいようにしているらしい。成型が出来ると、壺の中に手を入れ、指で中から面取りをすると言う。この方法は知らなかった。
 つぎに、釉薬を掛け、窯の中に入れる。このとき唯一、壺をどこに置くかで、計らいが入る。あとは火の神・窯の神にお任せする、ということだ。
 たとえて言えば、横山大観の「無我」に相当するのが、金大容さんの「無為自然の壺」、つまり「粉青流掛面取壺」であろう。

 金さんに、「なぜ、赤松を使わないのか」と愚問を発したら、「使いたいのですが、一窯焚くのに赤松は、30万円ほどかかってしまう」と答えてくれた。だから廃材や安い薪を使っているとのこと。
 そうして、一窯焚いて取れる作品は、一つがやっと。今回の展示に当たって、5回、窯を焚いたという。
 赤松で焚いた金さんの作品を観るのが、今から楽しみである。
 金さんが学位を得られ、作品買上げになることを祈るが、はたしてどうか。学位を得られることは間違いないと、変人は確信している。また、変人の特に気に入った二つの作品のうち、一点は学校買上げになる予感がするので、もう一点は、ぜひ譲って欲しいと、お願いをしておいた。

 その他で感服したのは、保存修復・日本画の雁野佳世子さんの、次の作品、
    「源誓上人絵伝」シアトル美術館本の現状模写
    「源誓上人絵伝」東京藝術大学本の現状模写
    「源誓上人絵伝」想定本の再現制作
 保存修復・彫刻の益田芳樹さん、保存修復・工芸の劉潤福さん、日本画の中村愛さんの研究および作品。

 博士論文発表会もあるので、あと数回通うつもりでいる。

   ※雁野さんの「雁」の字は、正しくは、雁垂れの中がフルトリではなく鳥。


      海越えて来る風 窯の日向ぼこ     季 己 

嵐雪の代表句

2008年12月05日 22時57分41秒 | Weblog
          東山眺望
        蒲団着て寝たる姿や東山     嵐 雪

 嵐雪の代表句の一つ。季語は「蒲団」で、もちろん冬である。
 この句、いつごろ詠まれたものか調べてみた。『枕屏風』(芳山編、元禄九年刊)に初出であるが、嵐雪の動静に照らして元禄七年(1694)、四十一歳の作と考えられる。
 すなわち嵐雪は、芭蕉死去の報を受けて、その年の十月二十五日、桃隣とともに急ぎ江戸を出発、十一月七日の夕刻に膳所(ぜぜ)の義仲寺へたどり着き、亡き師の墓前にぬかづいた。
 その直後、京へ入ったと思われるから、この「蒲団着て」の句を詠んだ時期の嵐雪の心情は、ほぼ推察できるであろう。
 句意はいたって簡単、「東山のなだらかな形は、人が蒲団を着て寝ている姿にそっくりであるよ」ほどの意であろう。

 京にいて東山を望めば、その山の向こうは、芭蕉の眠る湖南の地である。そんな思いも、作者の念頭に浮かんだに違いない。
 『註解玄峰集』には、「深き意はなくも、都の悠々としたる所、見るべし。ほかにも名高き山、風雅なる山、数々あれど、東山ならでは一句をなさず。深く味はふべし」とある。


          寒 梅
        梅一輪 一輪ほどの暖かさ     嵐 雪

 この句は、人口に膾炙して有名で、これも代表句の一つである。
 この句、嵐雪の生前には公表された形跡がなく、一周忌追善集に初見である。
 それによると、「寒梅」の詞書があり、冬の句であることが知られる。
 のちに、『玄峰集』などが春の部に入れており、一般にも春の句として理解されることが多いが、それは正しくない。
 また句形も、「一輪づつの」と誤って伝えられ、「梅が一輪ずつ咲くにつれて暖かさが増す」と解されることが多い。これも訂正を要する。

 「梅一輪」の後に空白を置いたが、これには理由がある。
 語調は、「梅一輪一輪ほどの」と続けて読むのではなく、「梅一輪」でいったん切って読むべきである。
 季語は「寒梅」で冬の句であるが、それが句の中にはっきり詠みこまれていないため、詞書を外すと、このような混乱がおこりやすいのである。
 寒中の梅は、清楚で凛々としたさわやかさを感じさせるが、作者はわずか一輪の梅に、ほのかな暖かさを感じとったのである。
 したがって、「梅が一輪咲いた。寒中ではあるが、わずかに梅一輪ほどの暖かさが感じられる」と解したい。

 嵐雪の代表句といえば、この二句であろう。


      枯萩にもののけ姫のゐて騒ぐ     季 己

鴛鴦

2008年12月04日 21時38分27秒 | Weblog
 枯芦の間にただよう姿、潮に群集して啼きかわす姿、夕映えの海上を一列に連なって飛ぶ姿、どれもが絵になる水鳥である。
 雁・鴨・かいつぶり・鴛鴦など、水に浮かぶ鳥を総称して水鳥という。秋に渡ってきて、春に去るものが多いので、冬の季語となったようである。

 鴛鴦(をしどり)は、ガンカモ科の水鳥で、単に「をし」ともいう。
 水鳥の中でも、最も色彩豊かで美しい翅の色を持っている鴛鴦は、夏の間は山地の水辺に棲み、高い木の洞(うろ)に巣を作って繁殖する。秋冬の間は、平地の河川や湖沼・池などにその一部が降りてくる。
        静かさやをしの来ている山の池     子 規

 鴛鴦は雌雄異色で、雄の冬羽は、緑・藍・紫・橙色など多彩で美しい。雄にはまた、“思い羽”という独自のトレードマークがあって、よく目立つ。
        鴛鴦のいづれ思ひ羽思はれ羽     狩 行

 昔は、狩猟鳥であったので、その美しい羽を求めて、むやみに捕獲する者が多く、その数が次第に減ってきたので、後に、保護鳥として捕獲が禁止されることとなった。
 鴛鴦の羽の色の美しさは、主として雄に限っていると思われているが、雄の羽の色も、季節によって大変な違いがあり、繁殖期を過ぎると、雄雌ほとんど違いはなくなるといわれている。
        鴛鴦の水鴛鴦をはなれて輝けり     火 童

 昔から「鴛鴦(えんおう)の契り」という言葉があるように、鴛鴦の雌雄には、一定の番(つがい)がある。雌雄つねに離れず並んで泳ぎ、枝に眠るときには、互いに首を差し交わし、翼も交わして、常に仲睦まじく暮らしているので、夫婦仲のよいことにたとえられ、人も羨むばかりである。
                詠み人知らず
        夜を寒み 寝覚めて聞けば 鴛鴦の
          羨ましくも 水馴るなるらむ  (『拾遺集』巻四)

 仲のよすぎる鴛鴦に、子規は、独り者の人間に少しは同情しろと、八つ当たりしたとかしないとか。
        人間のやもめを思へをし二つ     子 規
 しかし、そんな八つ当たりはご無用。見かけは一夫一婦の操を守っているようでも、この鴛鴦、内実はけっこう浮気者で、雌雄誰とでも仲良くする、いたって要領のよい鳥だということである。
 すると、雌雄どちらかが捕らえられると、他の一羽は思い焦がれて死ぬ、といわれているのは……。


      想ひ出の夕日の中に鴛鴦二つ     季 己

鎮魂歌

2008年12月03日 21時54分55秒 | Weblog
                         柿本人麻呂
        珠衣(たまぎぬ)の さゐさゐしづみ 家の妹(いも)に
          もの言はず来て 思ひかねつも (『萬葉集』巻四)

 じっと心をひそめていて、あいつ(妻)に、ものも言わずに来てしまった。それを今にして思えば、とてもたまらない気持ちになってしまう、というのであろう。

 この歌、下の句は特にいいが、上の句は、近代的な感じ方からすると、無内容にしか思えない。
 それは、「たまぎぬのさゐさゐしづみ」の背後にある、長い宗教的な生活が、今のわれわれとは全く断絶してしまっているので、この語句が、なんら実感として映ってこないのだから仕方なかろう。

 魂を肉体に鎮定させる時には、鎮魂法を行なう。その時、からになった状態の肉体に衣をかぶせるわけだが、その人から言えば、衣を頭からかぶって、じっとしているわけだ。すると、呼び迎えられた魂によって、魂がよりついて来たしるしに、ひっかぶっている衣が、神秘なさわだちの音を立てる。その神秘なさわだちが「さゐさゐ」という音なのだ。
 そのさわだつ声を聞きながら、じっと心を沈めている、鎮魂の神秘な宗教的経験の積み重なりがあって、それから「心をひたすらにひそめている」といったことの序歌として、「たまぎぬのさゐさゐしづみ」という類型が出てきたと思われる。

 ここでは、「しづみ」が本文にはいるから、それ以前の「たまぎぬのさゐさゐ」が、「しづみ」をおこすための序歌ということになる。
 そして、こうした知識によって内容の裏付けを行なえば、この歌の上の句も、特殊なよさを感じさせる。「さゐさゐ」という音声に、より来る霊魂による着物の揺らぐ音が感じとれる。
 余談になるが、先日の伯父の七回忌の法要の際、僧の読経が始まるや否や、二本の塔婆が、風も無いのにカタカタと音を立てて、ついには傾いた。読経を続けながら、僧が塔婆を直すと、こんどは、最後まで音を立てることがなかった。

 難解なこの歌と同じような歌が、東歌(あずまうた)にある。
        ありぎぬの さゑさゑしづみ 家の妹に
          もの言はず来にて 思ひ苦しも
 「さゐさゐ」も「さゑさゑ」も、あるいは「さやさや」「さわさわ」も、同じことである。「潮騒(しほさゐ)」の「さゐ」も同じである。鎮魂用語であり、神秘感をたたえた擬音だ。衣ずれの音にも、笹・荻などの葉ずれの音にも使う。
 「ありぎぬ」は、絹衣とも、鮮やかな衣ともいうが、よくわからない。
 「たまぎぬ」は、「霊衣」でもあり霊的な衣であろう。衣ずれの音から「さゐさゐ」「さゑさゑ」にかかる。枕詞的に使われている。現在の辞書では、「たまぎぬの」で、枕詞とある。
 その衣がさわさわと音を立て、また鎮静に帰することから、「さゐさゐしづみ」と言って、「もの言はず」の序歌に使われたものとも考えられる。「しづみ」を本文と取るか、説の分かれるところである。いずれにしても、「さゐさゐしづみ」は慣用的な呪文のようなものだったのだろう。

 出立のときのどさくさに、妻にやさしい言葉もかけないで来て、いま思いに堪えない、というくらいの意味であろうか。いまいち解釈が定まらないが、「たまぎぬのさゐさゐしづか」という表現は、快い語感を持っている。旅中の鎮魂歌であろう。


      紙芝居きて黄落をかがやかす     季 己

冬田

2008年12月02日 21時56分36秒 | Weblog
 このあいだまで、黄金の稲穂が波打っていた水田に、稲刈り、稲扱き、それから籾摺りと、忙しく立ち働く、一時のあわただしさが過ぎると、あとには水を落として黒々と干上がった刈田の面に、規則正しく稲の切り株が並ぶ。冬田である。
 麦を蒔き、また野菜などをつくる二毛作の田は、冬田とはいわない。

 裏作に麦を植える地方とは違って、一冬、刈田を遊ばせておく地方、ことに近年のように減反政策で、やむなく休耕を強いられている水田は、刈田というよりは、草ぼうぼうの荒れ田で、その無表情さには、見渡す限りの物寂しさ、荒廃をさえ、感ぜずにはいられない。

 さて、初冬の刈田では、稲の切り株に僅かな青みが残り、落ちこぼれた籾からは、ひとりでに生えてきたヒツヂが若やいだ彩を添えている。ヒツヂは、刈り取った後に再生する稲のことで、秋の季語となっている。
 落穂を拾うカラスが、我が物顔に田の畦を歩き廻ったり、稲塚に止まったりしているのが、初冬の野に一筆を添える眺めである。

        たのみなき若草生ふる冬田かな     太 祇

 短い冬の日差しを頼りに、いつまでの命と、青く萌え出したヒツヂの「頼み(田の実)」無さを詠んでいる。

        ひつぢ田や青みに映る薄氷     一 茶

 刈田のそこここに残る水溜りには、薄氷が張り始め、やがて厳しい冬と変わる。
 稲の切り株も青みを失い、稲塚の藁もすっかり枯れ色になって、冬一色となる。

        冬空は一物もなし八ヶ岳     澄 雄

 ひゅーひゅーと野面を吹きすさぶ北風は、どんどん雲を吹きちぎって、冬の空は、高く青く冴え返ってはいるが、遠くに連なる山々には、もう真白な装いさえ施されているようである。

        雨水も赤くさび行く冬田かな     太 祇

 昼になって、気温がゆるむと、刈田の水溜りの氷も溶けるが、赤く錆びた金気水(かなけみず)が澱んでいるばかりで、侘びしさを紛らすすべもない。

 冬田は、美しい白黒写真の味である。こまごまと整った光と影。荘厳なまでの美しさが、われわれの眼を魅きつけるのは、ことに暁と日没の頃であろう。

        家康公逃げ廻りたる冬田打つ     風 生

 田は、冬の間に地味を回復させ、春の耕しに備える。荒涼とした冬田に美を見出したのは、近代に入ってからであったという。


      落日の冬田を走る又三郎     季 己