壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

雀と年の暮

2008年12月09日 21時37分37秒 | Weblog
 隣の家の軒先に並んで、餌を待っていた雀たちが、最近、ぱったりと姿を見せなくなった。冬眠しているわけはないし、どこかで元気に過ごしていればいいのだが……。

        食堂に雀啼くなり夕時雨     支 考

 『続猿蓑』などに入集した句で、季語は「夕時雨」で冬。
 時雨は、初冬の頃に昼夜の区別なく、また陰晴にかかわらず、時折、降りすぎる急雨をいう。「食堂(じきどう)」は、寺院の七堂の一つで、衆僧の食事をとる所である。多く本堂の東廊につづいて、食事のときの合図に叩く魚板などを廊下に掛けてある。禅寺などに多い。

 おそらく七堂伽藍の整った大きな禅寺の境内であろう。夕闇の迫る頃、急に冷たい時雨がさっと降り出して、屋根や庭を濡らしていく。
 餌をあさっていた雀が、その雨をのがれて食堂の軒下に群れて、チュッチュッとひときわ騒がしく囀りたてている。

 雀に小家の軒は、古風の付合であるが、夕時雨を背景として、大寺院の食堂の軒に雀の啼く情景をとらえたところに、この句の新鮮さがあり、詩趣の深いものがある。

        鳥共も寝入つてゐるか余呉の海     路 通

 元禄四年(1691)刊の『猿蓑』に入集する句である。
 世の放浪児である路通は、今宵の宿も決まらないまま、暮れようとする冬の近江路をとぼとぼ歩いている。と、前方には鈍色に光る余呉の湖が開ける。その静かな湖面に点々と黒い影が浮かんでいる。水鳥は寒さにかたまってもう寝ているのだろうか。湖面はただ暗くひっそりとしている、の意である。

 この鳥は「浮寝鳥」(水鳥)で、冬の季語となる。「寝入つてゐるか」はこの場にふさわしく、水鳥にも話しかけるような“さすらい”の路通の身の上を考えると、いっそう味わいが深い。
 『去来抄』には、芭蕉が「此の句 細みあり」と褒め、作者の心情のこまやかな屈折を「細み」と評した、有名な句である。

        いねいねと人にいはれつ年の暮     路 通

 これも『猿蓑』に入集する句である。
 いつの時代も師走は忙しく、どの町家でも、坊主や浪人を相手にはしていられない。乞食生活の路通も、俳諧を縁にあちこちと泊まり歩いていたが、年の暮だけは忙しさに迷惑がって、どこへ行っても断られた。行くあてもなく、途方に暮れた素直な気持を詠んだ句である。

 「いねいね」は「去ね去ね」で、「出てゆけ、あっちへ行け」の意である。季語は「年の暮」で冬。
 当時、路通が同門の間に不評で嫌われていたのは、自分の意志の弱さからくる怠惰、また、そうした人につきものの思い上がりなどで、師への恭順の心を欠いたのが、その理由であろう。「人のふり見て、我がふり直せ」と、つくづく思う。
 この句は、嫌われ者のさびしい孤独感がひしひしと感じられ、俳味もあって面白い。これも、「同病相憐れむ」か……。(反省!)


      わが影を収めて冬木昏れゆけり     季 己