壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

大晦日

2008年12月30日 17時42分09秒 | Weblog
 平成二十年も残りわずかとなった。「光陰矢のごとし」というように、月日の流れは淀みなく早い。ことに年末ともなると、誰もがそれを痛感する。そして過ぎし月日を思い浮かべる。このような感慨を、俳句の世界では「年惜しむ」という。

        大晦日定めなき世のさだめかな     西 鶴

 諸行無常、老少不定などといわれるように、何一つ定めのないこの世だけれど、借金取りに責め立てられる大晦日だけは、毎年きちんとやってくる。いわばそれは「定めなき世のさだめ」というべきだ……。

 大晦日は一年間の貸借の決算期で、
 「世の定めとて大晦日は闇なる事、天の岩戸このかたしれたる事なるに、人みな常に渡世を油断して、毎年ひとつ胸算用ちがひ、節季を仕廻ひかね……」
 と、『世間胸算用』に活写されている。

 句は、『新葉集』雑下に見える、
        君はなほ 背きな果てそ とにかくに
          定めなき世の 定めなければ
 の歌のパロディーであるが、宇宙の絶対的真理としての「定めなき」と、人為的に設定された貸借決算の「定め」という、次元の異なる二つの《定め》を、同一次元内に結び合わせ、「定めなき世のさだめ」と逆説的にもじった点に、西鶴の独創性がよみとれる。
 そして、この独創性が、やがて生み出される浮世草子の前兆として、きわめて予感的であったことはいうまでもない。

 『好色一代男』をはじめ、『好色五人女』、『日本永代蔵』、『世間胸算用』など数多くの浮世草子の作者として名高い井原西鶴は、本業はプロの俳諧師であった。
 寛永十九年(1642)に大坂の商家に生まれ、自称十五歳で俳諧の道に入り、元禄六年(1693)に世を去るまで、「難波俳林松寿軒西鶴」が、その肩書きであった。
 宗因入門は、寛文中期ごろといわれている。
 延宝元年(1673)、『生玉万句』の興行により俳壇に雄飛したが、そのころすでに異端の俳諧師として、貞門派から阿蘭陀流と呼ばれていたらしい。
 貞享元年(1684)、一昼夜に二万三千五百句の矢数俳諧を興行するなど、話題に事欠かない町人俳諧師であった。

           辞世 人間五十年の究り、それさへ
            我にはあまりたるに、ましてや
        浮世の月見過しにけり末二年     西 鶴

 西鶴の辞世の句である。西鶴は、元禄六年(1693)八月十日、五十二歳でこの世を去った。
 「末二年」とは、人生五十年から生き過ごした終わりの二年間をいう。
 人生は五十年と言い伝えるのに、わたしはもう五十二年も生きながらえた。人麻呂の辞世になぞらえていえば、浮世の月を末二年だけ余分に見過ぎてしまったことだ、というのである。
 人麻呂の辞世とは、
        石見がた 高津の松の 木の間より
          うき世の月を 見はてぬるかな
 の歌をさすものと思われる。
 まことに淡々とした心境であるが、八月十日のこの日は、「末二年」目の名月を仰ぐにはまだ日がある。
 西鶴は、あるいは中秋の良夜まで生きながらえうると考えていたのだろうか。


      年惜しむ伊坂ワールド読み返し     季 己