十一月から二月までは、河豚(ふぐ)のもっとも美味な時期だという。
魚が苦手な変人は、もちろん、河豚料理は食べたことがない。忘年会によく河豚料理が出てきたが、河豚大好き人間が隣に来て、全部片付けてくれたので大助かりだった。
魚は食べなくても、知識として魚の勉強はした。句会で、人さまの句を拝見し、鑑賞するために必要だったからである。その時のメモや切抜きなどが、今、こうして役に立っている。
あら何ともなやきのふは過ぎてふくと汁 芭 蕉
「ふくと汁」は、「ふくと」と清音で読むのが当時の読みで、河豚の肉を実に入れた味噌汁のこと。
句は、謡曲などで一種、慣用句的となっている「あら何(なに)ともなや」(何だつまらない、というような軽い意味で、間投詞的に用いられている)を、何事も起こらなかったと、文字通りの意に用いたところに談林的技巧がある。
ただ、この句の場合、中七の「きのふは過ぎて」の措辞からみて、謡曲『芦刈』の「あら何ともなや候。此由をやがて申さうずるにて候。(中略)今とても為す業もなき身の行方。昨日と過ぎ今日と暮れ明日又かくこそ荒磯海」とあるのを踏まえているかと思われる。
「河豚は食いたし、命は惜しし」と言われるように、河豚に恐ろしい毒のあることはご存知の通り。何しろ、河豚の毒の強さは、青酸カリの600倍というのだから、驚きである。
河豚食うて仏陀の巨体見にゆかん 龍 太
河豚の毒に当たって死んでもいいから、河豚を食いたい、というのであろう。
河豚の毒に当たると、まず、唇や舌からしびれ始めて、手足が動かなくなり、チアノーゼを起こして、顔や指先が紫色となり、ついには呼吸が停止するという。
マコ(卵巣)とキモ(肝臓)に、テトロドトキシンという毒素を含んでおり、この毒にやられるわけである。ところが、河豚の卵巣から純粋に抽き出した、このテトロドトキシンを注射薬として用いると、神経痛や痙攣、または夜尿症に薬効があるというのだから、まさに「毒変じて薬となる」面白いことである。
ところで、今年は、『源氏物語』千年紀というわけで、『源氏物語』関係の書物が、ずいぶんと出版された。ただ、爆発的に売れたという話は聞かないので、やはり不景気なのであろう。ただ一人、瀬戸内寂聴さんだけが、全国を駆け巡っているのだけは目立ったが……。
その『源氏物語』の作者である紫式部の夫、藤原宣孝(のぶたか)が、河豚中毒のお蔭で、大当たりを取ったという面白い話がある。
紫式部は稀代の才女である上に、老父藤原為時や、すね者の弟惟規(のぶのり)を抱えて、なかなか適当な結婚相手が見つからず、ついつい婚期を逸して、数え年二十五歳となってしまった。
その頃、しきりに求婚してきたのが、遠い親戚に当たる藤原宣孝だった。宣孝はすでに四十九歳にもなる初老の既婚者だった。といっても一夫多妻の世の中、バツイチではない。
紫式部としても、ハイミスの自分をリードして、しかも家族の後盾となってくれるのは、世渡り上手な遣り手の宣孝より他にはあるまいと諦めて、長徳四年(998)に結婚した。
かつて、宣孝は、就職祈願のために家の子郎党を引き連れて、吉野の蔵王権現にお参りをしたことがあった。
修験道で有名な金峰山。ここへ参詣する人はみな、真白な浄衣姿で参るのに、宣孝一行は、きらびやかな狩衣・指貫あるいは水干姿で練り歩き、道行く人々の眼を驚かし、その派手さかげんは、遠く都まで語り草となった。
ところが、それから僅か十日経つか経たぬかに、筑前守藤原知章の一族が、任地筑前の国府に到着して間もなく、知章を除いて、子息をはじめ家の子郎党三十余人が急死したという報告が、都へ到着した。
そうして、後任者に誰を選ぶかという時、一座の頭に思い浮かべられたのが、蔵王権現華美装束の参詣で記憶に新しい宣孝だったのである。常識外れの才覚が認められ、まんまと宣孝が後任の筑前守に任命されたのだ。
この風変わりな逸話は、清少納言も『枕草子』に書いているが、その知章一族の三十数人急死というのは、実は、河豚中毒以外に考えられないというのが、大方の推定である。
集団河豚中毒事件の穴埋め人事が、思いもかけぬ宣孝の大当たりとなった、という一席。
ゆくすゑのあらまし見ゆる河豚の皿 季 己
魚が苦手な変人は、もちろん、河豚料理は食べたことがない。忘年会によく河豚料理が出てきたが、河豚大好き人間が隣に来て、全部片付けてくれたので大助かりだった。
魚は食べなくても、知識として魚の勉強はした。句会で、人さまの句を拝見し、鑑賞するために必要だったからである。その時のメモや切抜きなどが、今、こうして役に立っている。
あら何ともなやきのふは過ぎてふくと汁 芭 蕉
「ふくと汁」は、「ふくと」と清音で読むのが当時の読みで、河豚の肉を実に入れた味噌汁のこと。
句は、謡曲などで一種、慣用句的となっている「あら何(なに)ともなや」(何だつまらない、というような軽い意味で、間投詞的に用いられている)を、何事も起こらなかったと、文字通りの意に用いたところに談林的技巧がある。
ただ、この句の場合、中七の「きのふは過ぎて」の措辞からみて、謡曲『芦刈』の「あら何ともなや候。此由をやがて申さうずるにて候。(中略)今とても為す業もなき身の行方。昨日と過ぎ今日と暮れ明日又かくこそ荒磯海」とあるのを踏まえているかと思われる。
「河豚は食いたし、命は惜しし」と言われるように、河豚に恐ろしい毒のあることはご存知の通り。何しろ、河豚の毒の強さは、青酸カリの600倍というのだから、驚きである。
河豚食うて仏陀の巨体見にゆかん 龍 太
河豚の毒に当たって死んでもいいから、河豚を食いたい、というのであろう。
河豚の毒に当たると、まず、唇や舌からしびれ始めて、手足が動かなくなり、チアノーゼを起こして、顔や指先が紫色となり、ついには呼吸が停止するという。
マコ(卵巣)とキモ(肝臓)に、テトロドトキシンという毒素を含んでおり、この毒にやられるわけである。ところが、河豚の卵巣から純粋に抽き出した、このテトロドトキシンを注射薬として用いると、神経痛や痙攣、または夜尿症に薬効があるというのだから、まさに「毒変じて薬となる」面白いことである。
ところで、今年は、『源氏物語』千年紀というわけで、『源氏物語』関係の書物が、ずいぶんと出版された。ただ、爆発的に売れたという話は聞かないので、やはり不景気なのであろう。ただ一人、瀬戸内寂聴さんだけが、全国を駆け巡っているのだけは目立ったが……。
その『源氏物語』の作者である紫式部の夫、藤原宣孝(のぶたか)が、河豚中毒のお蔭で、大当たりを取ったという面白い話がある。
紫式部は稀代の才女である上に、老父藤原為時や、すね者の弟惟規(のぶのり)を抱えて、なかなか適当な結婚相手が見つからず、ついつい婚期を逸して、数え年二十五歳となってしまった。
その頃、しきりに求婚してきたのが、遠い親戚に当たる藤原宣孝だった。宣孝はすでに四十九歳にもなる初老の既婚者だった。といっても一夫多妻の世の中、バツイチではない。
紫式部としても、ハイミスの自分をリードして、しかも家族の後盾となってくれるのは、世渡り上手な遣り手の宣孝より他にはあるまいと諦めて、長徳四年(998)に結婚した。
かつて、宣孝は、就職祈願のために家の子郎党を引き連れて、吉野の蔵王権現にお参りをしたことがあった。
修験道で有名な金峰山。ここへ参詣する人はみな、真白な浄衣姿で参るのに、宣孝一行は、きらびやかな狩衣・指貫あるいは水干姿で練り歩き、道行く人々の眼を驚かし、その派手さかげんは、遠く都まで語り草となった。
ところが、それから僅か十日経つか経たぬかに、筑前守藤原知章の一族が、任地筑前の国府に到着して間もなく、知章を除いて、子息をはじめ家の子郎党三十余人が急死したという報告が、都へ到着した。
そうして、後任者に誰を選ぶかという時、一座の頭に思い浮かべられたのが、蔵王権現華美装束の参詣で記憶に新しい宣孝だったのである。常識外れの才覚が認められ、まんまと宣孝が後任の筑前守に任命されたのだ。
この風変わりな逸話は、清少納言も『枕草子』に書いているが、その知章一族の三十数人急死というのは、実は、河豚中毒以外に考えられないというのが、大方の推定である。
集団河豚中毒事件の穴埋め人事が、思いもかけぬ宣孝の大当たりとなった、という一席。
ゆくすゑのあらまし見ゆる河豚の皿 季 己