壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

博士審査展・金大容

2008年12月06日 20時50分57秒 | Weblog
 「さすが“博士審査展”」と、うなってしまった。特に、展示室1・展示室2では……。

 「東京藝術大学 大学院美術研究科 博士審査展」が、今日から同大学美術館で始まった。
 まず地下二階の展示室1から観させていただく、まるで自分が審査するように。
 金大容(キム・デヨン)さんの、「粉青流掛面取壺」に深い感動と共感をおぼえる。高さ40センチ前後の作品が5点展示されているが、そのうちの2点に、とくに心奪われ、釘付け状態。
 つぎに、金さんの「博士論文」を読ませてもらう。
 「無為自然の壺 ―朝鮮陶磁への回帰―」と題して、研究の目的、本論、結論と非常によく勉強されたことがわかる。
 「無為自然の壺」と言うのはたやすいが、いざ実践するとなると、これほど大変なことはない。技術だけではダメで、“こころ”が伴なわなければ絶対と言ってよいほど、出来ないであろう。

 韓国陶芸界の若きスターの一人である金さんが、来日し、藝大で学ばれたのは、現代の韓国陶磁に危惧を抱き、朝鮮陶磁の“こころ”を、日本の茶道の中に見出したからではなかろうか。その“こころ”を具現化する手段として“面取り”を学ばれたのであろう。丸い壺と面取りの壺とでは、陰影が微妙に違う、いや、はっきり違う、と言ってもよかろう。

 金さんは、マイスターと呼んでもいいほどの技術を持っている。その技術を誇示することなく、無心で土を練り、轆轤を廻す。轆轤を廻しながら、形は土のなりたいようにしているらしい。成型が出来ると、壺の中に手を入れ、指で中から面取りをすると言う。この方法は知らなかった。
 つぎに、釉薬を掛け、窯の中に入れる。このとき唯一、壺をどこに置くかで、計らいが入る。あとは火の神・窯の神にお任せする、ということだ。
 たとえて言えば、横山大観の「無我」に相当するのが、金大容さんの「無為自然の壺」、つまり「粉青流掛面取壺」であろう。

 金さんに、「なぜ、赤松を使わないのか」と愚問を発したら、「使いたいのですが、一窯焚くのに赤松は、30万円ほどかかってしまう」と答えてくれた。だから廃材や安い薪を使っているとのこと。
 そうして、一窯焚いて取れる作品は、一つがやっと。今回の展示に当たって、5回、窯を焚いたという。
 赤松で焚いた金さんの作品を観るのが、今から楽しみである。
 金さんが学位を得られ、作品買上げになることを祈るが、はたしてどうか。学位を得られることは間違いないと、変人は確信している。また、変人の特に気に入った二つの作品のうち、一点は学校買上げになる予感がするので、もう一点は、ぜひ譲って欲しいと、お願いをしておいた。

 その他で感服したのは、保存修復・日本画の雁野佳世子さんの、次の作品、
    「源誓上人絵伝」シアトル美術館本の現状模写
    「源誓上人絵伝」東京藝術大学本の現状模写
    「源誓上人絵伝」想定本の再現制作
 保存修復・彫刻の益田芳樹さん、保存修復・工芸の劉潤福さん、日本画の中村愛さんの研究および作品。

 博士論文発表会もあるので、あと数回通うつもりでいる。

   ※雁野さんの「雁」の字は、正しくは、雁垂れの中がフルトリではなく鳥。


      海越えて来る風 窯の日向ぼこ     季 己