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RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語 (小学館文庫)
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「RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語」から見える主体性とキャリア (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 【終章】 大悟は、電車の運転が楽しくてしかたがないという肇の姿から、自分自身のことを問いかけます。一つの大きな事件をきっかけにして、肇は退職願を出しました。大悟という若者を前にして、肇自身が責任を取ろうとした行動は、肇にとって当然の結論だったのかもしれません。プロ野球への道が閉ざされ、半ば自棄気味に運転士になった大悟にとっては、肇とともに、地域の人たちのために働くということが、実は自分自身にとってのなかみをつくっていく行為となっていたのでしょう。 一方、将来の仕事に、不安を感じていた倖も、肇の姿を通して、働くということへの意味を感じ始めていました。絹代の世話を献身的にしてくれた介護士の森山さんの姿から、倖は、将来の自分を見つけ出していたのです。 ************************* 【倖は、介護士の森山の姿を見て、自分の夢を託せる仕事を見つけたと感じていた。働くということは誰かの楽と楽しみのためにある。父からそんな言葉を聞かされたことがある。だから「働く=端楽(はたらく)」なのだと。 自分のためにではなく、誰かの笑顔のために人生を使うこと。それは自分の楽と楽しみのために人生をただ消費していくことよりも、ずっと充実した幸福感をもたらしてくれる。倖はその幸福感は、「母親が子供を見つめる目の中にある幸福感」なのだろうと思う。婆ちゃんの、父さんが運転するバタデンを見送るときのその目の中にある幸福感。子供が幸せそうにしているのを見守る充実感。同じことを仕事は感じさせてくれるべきだ。そう思った。そんな仕事がどこにあるのかと考え、道に迷いそうになっていた倖が見つけた、自分の将来。それが介護士、森山の中にあるように感じていた。】 【肇は倖のことを思い、由紀子のことを思う。由紀子がこの病院に通っていてくれたこと。倖が婆ちゃんの看病を通して、他人への奉仕を仕事にしようと考え始めたこと。それをあの、「あなたを諦めている」と言ったときの由紀子の冷めたため息や、「だったら何?」と会話を遮断した倖と比べてしまう。 何が変わったのかと、肇は問う。 何が変わったのか。と肇は問う。 心の中にいるもうひとりの自分が「それはおまえさんがだよ」と答える。「変わったのはおまえさんなんだよ。世界ってやつはそれを見ているおまえさんの心が映っている鏡だ。スポーツの試合を観戦しているとする。勝者の側に身を置けば最高の試合だったが、敗者の側に立てばぶざまで最低な試合になる。同じ試合結果なのに心の置き場が違うと世界は正反対の色合いになる。だからおまえさんが変われば世界も変わる。見ている世界が変わる。当然のことだろ?」肇の心の中に住む、もうひとりの自分がそう言った。」】 ******************** 【「やっと乗ってくれたね、俺の電車に」 「うん」 笑うと、由紀子は少し言いづらそうにして下を向いた。そして思い切ったようにして再び肇の目をとらえる。 「・・・・・実はね。ずっと私、悩んでたの。私たち、このままでいいのかなって」 東京と島根に離れ離れのままで、互いに夢見た仕事をしていて、家族なのに一緒に暮らしてなくて、本当にこれでいいのかなあって。そう言いたいのだろうと由紀子に肇はドキリとする。やっぱり不自然よ。分かれましょう。そう切り出すのではないかと。心臓がはね上がった。しかし、由紀子はやわらかな笑みの中で続けるのだった。 「でもいま、あなたが運転している姿を見て安心した。私たちはこれでいいんだってそう思った」 肇は由紀子を見つめる。由紀子は続ける。 「このまま私たち、夫婦でいいんだよね?」】 **************** 私は、この錦織さんと小林さんの小説を読み終え、私が研修会等で訴えてきた事に対して、揺るぎない確信を得ることができました。 「依存的なあり様」から「主体的なあり様」をめざして!! 人間の成長とは、まさに、このことではないかということなのです。依存的なあり様から生まれる攻撃性、侵略性、破壊性というものが、実は、肇の中に宿っていたのでしょう。多分、それは、肇が初めて仕事を選んだ段階で、そうであったのだと思います。成績優秀・スポーツ万能のエリート人間であったとしても、依存的だったのです。あるいは、依存的なあり様を受け入れなければならない現実に負けた姿だったのではないでしょうか。 49歳からの肇のあり様の変化というものが、義務教育の中でなぜ実現できなかったのか。ものごとは、そんなに単純ではありません。作者の錦織さんが、故郷の島根を去り、今こうして島根にもどってこられたことと共通点があるのでしょう。 しかし、それでも、子どもへの教育を通じて、「主体的な人間」に育つためのノウハウやツールが必要とされているのは事実です。「いじめ」や「不登校」の問題は、解決の糸口がない、解決不能な問題であると論じられることが多々あります。けれど、依存的なあり様から「いじめ」や「不登校」が生まれてくるということも事実なのです。となれば、肇が主体性を会得したプロセスを学校教育の中に組み込むということさえすれば、このような課題が解決する方向へとベクトルを向けることができるのです。そのゴールが「人間としての幸せ」だからです。誰もが願い、誰もがめざす方向であるからこそ、可能だということなのです。 「もしドラ」でドラッカーが言っていました。「自らの事業は何かを知ることほど、簡単でわかりきったことはないと思われるかもしれない。・・・・・・しかし、実際には、・・・・・わかりきった答えが正しいことはほとんどない。」 このドラッカーの言葉は、「ものごとを表面的に見たらダメですよ。その奥底にある本質を見極めて、そこをえぐり出すことが大事なのです。」という事を言っているのです。つまり、「学校って何するところ?」その答えが「勉強するところ」・・・・では、ダメってことなのです。 ここに、実は、「主体的な人間になること」それは、「端を楽にするところ=端楽=働く」ということだったのか、と私は気づきました。そして、そのゴールが「しあわせになる」です。「もしドラ」の記事を書いていたときに、気づいたフレーズのなかみを、ここで発見することができました。つまり、主体的になること自体が、自分もまわりの人たちも幸せにできるということなのです。 日本の教育のカリキュラムの中には、そんなことが一般的ではありません。ここに問題があります。「いじめ」がなくならないのも、「不登校」や「長欠」が増え続けていることもここに問題があるのです。 いみじくも、年末のニュースにこんな記事がありました。(以下の記事を情報メモに載せています) ********************************* 《「RAILWAYS49歳~」を地でいっている人が・・》 びっくりしました。Railways49歳~を地でいってる人たちがいました。 自腹700万円で、養成費を自己負担して、「いすみ鉄道」(千葉県大多喜町)の公募で訓練生となった40~50歳代の元会社員4人が、ディーゼル列車の運転資格である国土交通省の「動力車操縦資格試験」に合格されたそうです。 http://sankei.jp.msn.com/life/news/111221/trd11122122170016-n1.htm(産経新聞) 40~50歳台の方たちですが、ほんとうに切り換えポイントをご自分で換えられたのですね。 すごい! この項、おわりです2012/1/10 ****************************************
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