私は日蓮正宗に入信してからは、過去の自身の創価学会の半生、歴史の全てを否定するかの如くに過ごして来た。創価は大嫌いになり、邪教と忌み嫌い、毛嫌いする。
私にとって、創価とは、最もやってはいけない、最も危なく、御住職様も時々御説法で批判、非難なされているのを見ても、そうだ、その通り、と、創価の話の時は耳をダンボにして、聴きとる事に集中する。それは、わたしにとり、大変に勉強になり、為になり、心して耳を傾け、拝聴する。有難い。
とは言っても、創価は宗内ではかなりイメージが悪い。
しかし、数年前の、コロナ問題以前に、日蓮正宗総本山富士大石寺に登山する際、支部総登山でバスの車中で隣同志になったON寺さんという中年女性の方と一緒に語らいしゃべった際、私はかつて、邪教創価学会の信者だったんです、というと、「へー、wainai君は『学会人』だったんだ」と言われ、何だか持ち上げられている気がして、こちらも悪い気はしなかった。あの頃の信心も役には立ち、何一つ無駄じゃないと。
「学会人」というその誇り高き言葉が、嫌味が無く、ちゃーんとその女性が、私の過去・経歴をも包み込み、なーんにも、卑下、他人より自分が劣っているなんて思わなくてもいいんだよ、と言われている気がした。
日蓮正宗には、過去、元々、色々な宗教に属して来た人々が大勢いる。元をたどればほとんどが他宗他教の信者ばかりだ。元々の生え抜きの日蓮正宗法華講の信徒なんて、珍しく、居るにはいるが、数える程しかいない。
創価の間違った教義に付き従う必要は全くないが、その訓育された、集団鍛錬、牙城会等にいた人たちはその教育の一部は、全て無駄にはならない。むしろ、日蓮正宗側に付いた時、それらは貴重な財産・武器となる。
将棋の世界、勉強で、将棋駒の「歩」が相手の陣地に入り、「と金」に生まれ変わるのと同じである。「歩」の駒兵が捨てられる事無く、新たに勝利を呼び込む新たな将軍、殿様、武将の元、家来家臣臣下の兵士として再び再利用、再生し、蘇り、生まれ変わり活用されるのと同じである。それが大日本の将棋だ。
むしろ、それら過去を生かして、その今まで体験して来た過去の宗教と対決する為、折伏の勉強の糧を自分は過去から培い、何一つ、無駄は無いんだよ、とその女性にズバリ言われたような気がした。
創価に対して皮肉の意味で感謝と、私を一人の人間として認めてくれたあの女性に感謝したい。
以上。よしなに。wainai