"道をひらく"(松下 幸之助 著)を読む。
"思い悩む
人間は神さまではないのだから、何もかもが見通しで、何もかもが思いのままで、悩みもなければ憂いもない、そんな具合にはゆかないのである。 悩みもすれば憂いもする。迷いもする。わからん、わからん、どうにも判断がつかん、どうにも決心がつかん、そんなことが日常しばしば起こってくる。 碁ならば、わからんままに石を打っても、別に人に迷惑をかけるわけではないけれど、人と人とがたがいに密接なつながりを持つこの世の中で、わからんわからんと思い悩んだままで仕事をすすめたら、とんでもない迷惑を人に与えてしまう。 わからなければ、人に聞くことである。己のカラにとじこもらないで、素直に謙虚に人の教えに耳を傾けることである。それがどんな意見であっても、求める心が切ならば、そのなかから、おのずから得るものがあるはずである。 おたがいに、思い悩み、迷い憂えることを恥じるよりも、いつまでも己のカラにとじこもって、人の教えを乞わないことを恥じたいと思うのである。"(松下幸之助「道をひらく」より)
今日は私にとり、とても人疲れしたというか、いっぺんに、訪看さんと、相談室の長の方が二時台、三時台と来られて、私は大わらわで迎えた。
その時、相談室の長の方は、ちょっと辛口な受け取り方で、そうやってムスッとした私の対応で、誰も喜ぶ人などいない。もっと、相手の顔を見て、笑顔位見せたら、と言われて、成程、と思うが、私なりに、何かしら、言い訳じみた態度、対応となってしまう。
本来ならば、相談室の長の方は、水曜が私へのPCのエクセルの講義の日だったが、その日はあいにく長の方は出張で、本日の相談の日となった。
そこで、最初の訪看さんは、私の体調を心配されて、最近は、コンビニ食と、カップ麺ですか、と言われて何でわかるのかと思っても、私から直接、コンビニで食事を調達している事は聞いているし、ゴミ箱に、昼食べたカップ麺のゴミを見れば、一目瞭然だ。
それに加えて、心配なさったのが、私の睡眠時間の取り方で、昨日など、夜中の一時頃寝たというと、少し時間をせめて夜0時以前に出来ればベストなのにな、とは言われた。
そして、来週は通院ですね、と言われた。
そこでも、私は色々と話したが、私にとっては大事な事でも、後に話す、相談室の長の方は、自慢しいだと言われてしまった、私が元々。
そして訪看さんが帰られ、すぐさま今度は、相談室の長さんが来られた。
そして冒頭の、洗礼のような、お客様を迎える態度について、すぐに私の事を叱られた、というか御注意、御忠告を受けた。私なりに、これ程叱ってくれるのは、私の母親以来である。
だいぶ長い事、話した気がする。その場では、私の買い物が、問題になった。
私が、何台もラジオ機器を持っているにも関わらず、又買った事に、その方はショックを受けたようだった。それが病気だと。
成程、とこの時も、私は膝を叩いて唸った。そういう見方があるのだ。これは私が増長し、慢心であったと。
普通の人ならば、ラジオは一台二台で済むはずである。それが私と来たら、それが際限が無い。これが無ければ、今頃、お金が少しずつ余裕が出来て、今よりも苦しくはならないだろうと。
私(長の方)だったら、そんなキーボードなんか買わずに、レストラン等で、フルコースの、美味しいものを食べる、と。
その方には、栃木のKさんも、信頼を寄せる所があり、その長の方への私の苦情をKさんに言うと、その長の方の言葉の中に、私(wainaiこと私自身 )が愚痴る言葉は、皆、私の脳が全てその愚痴、マイナス感情を聞いているのだと言っていたと言うと、その方はきっと、今の話題になっている脳科学者の中野信子さんの説とおんなじ事を言っている、だから、長の方を信頼しても良いのではないのか、とこう、栃木のKさんは言った。
それ以来、私も、これら、福祉相談室の方々を見直すキッカケを与えられたと自身で思うようになった。
今回のラジオの件でも、しばらく、私から、あれ買った、これ買った、との声が聞こえなくなったので、その相談室の長の方は私の悪い癖が治ったのかと思ったそうであった。しかし、今日、私は、それを裏切るような、やっぱり無駄遣い、買っていたのだと知り、それ程、怖くは叱られなかったが、白々しい自分が、まるで眼前にいるかのように、そこは意表を突かれる形で、私の目の前に迫って来た。
とにかく、私の無駄遣いは、これは福祉の方には、知られる所となり、私としても、恥じ入るばかりである。
この為に、善処をして、生活改善に取り組みたいと考え、望んでいる。
その他、この日、以前、私が迷惑をかけた、それぞれ、相談室、訪看さん、二名の方に、私からの謝罪状、詫び状も、私から事前に用意して、その場で渡させてもらった。
とにかく、恥をかく事の多い私であり、同じ失敗は二度と繰り返さない。
その事は、事の後先には、必ず気付く、気付かなくても、時間が経てば、必ず気付き、自らの行いに非常なる自省反省を加える。
一日二省三省の、私でありたいと、それら、不義理不知恩をこちら側からしてしまった方々には、非常に申し訳ないと、ここで改めて、謝罪を申し上げたい。
何だか今日は、謝ってばかりの日和であった。
※編集後記・追記
相談室の長の方と帰り際に、ピアノは習えない立場でしょうね、と私が言うと、勿論、と返され、そんな幾らかかるか、判らない位の、相場なんだと仰る。
その方は、親類家族に、音大卒がいる関係で、何でも音楽の事は御存知なのだ。
その長の方は、PCのエクセルも、今はただにしているけれど、そんなこと言うならば、有料にしちゃうよと言われて、私はあわてて、あれだけ、実際にマンツーマンで、手取り足取り、教えてもらうと、簡単にエクセルが習得できるのだから、ピアノだって、そうならば簡単に…、と言うと。
その方は、ピアノは、その技術を一つ一つ、積み上げてゆくのが、お金でそれらを買ってでも、習得してゆくのがピアノの世界である。PCの比じゃないと言う。簡単ではない道が、ピアノだと。練習量が、努力が必要であり、それを上回る程、お金が掛かる。ピアノの方が何よりも難しい。それを私などは、貧者のピアノ演奏家として、敢えて難行苦行の道を行っているんだなあと思う。
それを、だから、私が一人で、独学で習わないでやってゆくのも、一つの流儀なんじゃない?!とキッパリと言われて、まだこの、いばらの道は続くのか、との、遥か彼方にある、一人前に演奏ができる自分が、余計に遠くなったようで、しかしその、長の方は、やるからには、立派に正々堂々と真っ当にやってみろ、との、叱咤激励を受けたようで、私なりに今日のこの方々との会合と言うか、話しには、自己反省と教訓を先頭にして、興味と関心を引き、非常に勉強と収穫になったと実感した一日であったと思う事、大であった。
以上。よしなに。wainai、長文失礼。