正しい食事を考える会

食が乱れている中どういう食事が正しいのかをみんなで考え、それを実践する方法を考える会にしたいと思います。

「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」霞が関の思惑“食糧と外貨の一挙両得”余剰農産物の受け入れ交渉

2010-09-02 | 食事教育
「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」霞が関の思惑“食糧と外貨の一挙両得”余剰農産物の受け入れ交渉

 昭和29年10月、余剰農産物受け入れ交渉に臨む政府使節団が渡米した。団長は愛知揆一通産大臣で、宮沢喜一議員、武内外務省欧米局長らにまじって東畑畑四朗農林次官も同行した。一行はアメリカの当局者と予備交渉を進め、11月に訪米を予定している吉田首相の到着までには大筋の合意をとりつける方針であった。彼らの出発に先だって関係諸官庁では何回も協議が持たれ、見返り資金の配分計画までを含めて日本側の腹案はまとめられていた。その内容は「受け入れ総額は1億3000万ドルを要望する。その三分の二は贈与、つまり、タダでもらう。残り三分の一を長期債権とし、その金額を日本側使用とする」というものであった。

 ワシントンに到着すると、すでに各国からの代表団が乗り込んでいた。日本以外に受け入れ申し込みをしている国は14もあった。その中で日本が提示した要望額の1億3000万ドルは、アメリカが初年度の総枠と考えている3億ドルの40パーセントにも達するものであった。しかも「贈与を三分の二。買い付け代金の全額を日本の使用分」とするのは、あまりにも虫がいいと一蹴され、交渉は初めから難行する。
 この交渉にあたって、アメリカ側には国務省・農務省・商務省・対外活動本部(FOA)・連邦予算局の関係五省で構成される余剰農産物処理委員会ができていた。委員長は大統領顧問のクラレンス・フランシス(バヤリースオレンジ会長)であった。PL480は農務省が所管する農産物を処理する法律であるが、その代金使用については各省の共菅で行うことを規定していた。
日米間の代表折衝が進み、日本側が妥協して次のような大枠まで煮詰まった。
 日本の受け入れ総額は1億ドル(当時の日本側要望は1億3000万ドル)とし、そのうち贈与分を15パーセント(同67パーセント)、買い付け分を85パーセント(同33パーセント)とする。
 だが、8500万ドルの円買い付け見返り資金の使用取り分をめぐって交渉は難行を続け、アメリカがわから日本政府が使えるのはその半分にも満たない3900万ドルにしたいと提示してきた。日本側は激しく抵抗した。吉田首相の訪米までにまとめあげたたかったが、これではMSAの二の舞で“手土産”にもならないではないか。
 アメリカ側もなかなか譲らなかった。それにはアメリカ内部の事情があった。交渉に出席しているどの省庁も、それぞれ独自に日本で行いたい事業計画を持っているために、仲間同士でこの円資金の分捕り合戦を演じ、容易に日本側の取り分を増やすことに同意しないのである。これでは何回会議を開いても埒があかないので、ある日の席上で、宮沢喜一氏は「一体こんあことまでして、アメリカのお手伝いをして、余った小麦を買う必要があるのかしらん」と大声で“ひとりごと”を言ってやったものだと、その著書に書いている。(東京―ワシントンの密談)備後会発行)。
 最終的には、日本にあまり買い付けたくなかったカリフォルニア米を含めるなどの妥協をし、日本側取り分を6000万ドルにすることで話はついた。日米双方の円貨使用の細目についても基本的な合意が出来、日米余剰農産物交渉は吉田首相を迎えた11月13日妥結する。そして正式には翌30年5月31日、重光外相とアリソン大使が余剰農産物協定に調印して発効するのである。
 この結果、日本は2250万ドル相当の小麦(35万トン)をはじめ綿花、米、葉タバコなど1億ドル(当時の360億円)ものアメリカ農産物を受け入れることになった。このうち55億円相当が、学校給食用の小麦・脱脂粉乳の現物贈与であった。円貨で買い付けた306億円のうち、70パーセントは日本側が電源開発(182億円)、愛知用水等の農業開発(30億円)、そして生産性向上本部などに配分した。残り30パーセントの92億円については、アメリカ側が駐日米軍用の住宅建設、第三国向けの物資買い付け、そして本論のテーマであるアメリカ農産物の市場開拓に使われることになったのである。
 当時の新聞報道を見ると、この市場開拓の一項には何の注釈もつけられていない。しかし、バウム氏たちのアメリカ小麦の宣伝事業は、この時、初めて日本で自由に活動する権利を、法的にも資金的にも保障されたのである。


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