正しい食事を考える会

食が乱れている中どういう食事が正しいのかをみんなで考え、それを実践する方法を考える会にしたいと思います。

NHKのTV番組にさかのぼり日本史にみる食の大切さー先祖がどの世にコメを増産しようとしたか・・・ 

2011-10-25 | 食事教育
NHKのTV番組にさかのぼり日本史というのがあります。それが何故食のブログに出てくるのかと言うことは、TPPも食と考えてここで書いています。
日本史は「食の確保の歴史」とも思うのです。下記のNHKの紹介記事の中に「計り知れない「農の益」」というのがあります。また「三年間飢饉が続いても持ちこたえられるだけの備蓄がなければ国としての体を成していない」と言った老中もいたのです。
TPP参加を考える前に、外国が何を言おうと、食の確保を図るべきです。それが如何に高くても最低でも60%に食糧自給率(食料自給率ではありません。主食となるものです。穀類の自給率です。今は25%と言われています。)外国が日本に食糧を輸出しないと言っても少なくとも1年は絶えられる料を確保すべきです。
そして、先人達が新田を開発し如何に食糧を確保したのかそれを考えるべきです。食は命なのです。そして自然を守り、環境を守るのです。アメリカの食糧による日本支配を許してはならないのです。その他「幕末に渡来した外国人は一様に、東洋の外れの小さな島国の人々の満ち足りた様子に驚嘆した。彼らが目にしたのは、「拡大・成長を追い求めない成熟社会」、「質素倹約を旨とする、つつましくも心豊かな社会」だった。こうした江戸・徳川期の“安定社会”はいかに築かれたのか」という言葉の中に、日本人のすばらしさを知るのです。


NHKにHPから

戦乱の時代に終止符を打ち、260余年に及ぶ泰平の世を築いた徳川政権。
幕末に渡来した外国人は一様に、東洋の外れの小さな島国の人々の満ち足りた様子に驚嘆した。彼らが目にしたのは、「拡大・成長を追い求めない成熟社会」、「質素倹約を旨とする、つつましくも心豊かな社会」だった。こうした江戸・徳川期の“安定社会”はいかに築かれたのか。じつは、"泰平の世"の裏では、数々の対外危機や、地震、津波、噴火などの自然災害が頻発し、社会は幾多の試練にさらされていた。しかし幕藩体制は、そうした危機を乗り越えるたびに社会構造を転換させ、社会の安定につなげていったのだ。
「民の生命と財産を守る社会を、長い年月をかけて築き上げたところに江戸時代の歴史的な価値がある」という磯田道史さんを案内役に、徳川の安定社会がいかに築かれたのかをたどる。

磯田 道史(いそだ みちふみ)

茨城大学准教授
近世社会経済史



1825異国船打ち払い令

1808間宮林蔵
樺太探査1806
~08露寇事件 始まる

1804レザノフ、長崎来航
通商要求1792ラクスマン、根室に
来航
1778ロシア船、蝦夷地にて通商を求める。
翌年松前氏、要求を拒否

1830フランス7月革命
1814~15ウィーン会議



1806神聖ローマ帝国
滅亡1804ナポレオン皇帝
即位

1789フランス革命

本放送:10月4日(火)22時00分~22時25分 再放送:10月11日(火)5時10分~5時35分、13時05分~13時30分

「素朴で絵のように美しい国」「専制支配が行われている日本において、個人は立憲的なヨーロッパの諸国家よりも多くの権利をもっていた」・・。・明治維新前後に来日した欧米人が、日本に独特の印象を抱いていたことが数々の滞在記に記録されている。それは、徳川の世になって200年後、全国で町人文化が華開いた文化文政期がもたらした江戸の姿だ。しかし、その爛熟の最中に、対外戦争の危機があった。19世紀初頭、蝦夷地でロシアと一触即発の事態となった露寇事件(ろこうじけん)だ。徳川幕府はただちに東北諸藩に出兵を命令。軍事衝突の緊張はピークに達する。しかし結局、紛争を回避しようとする松前奉行の上申を幕府が聞き入れ、衝突は回避へと向かう。
徳川体制を覆しかねない危機を乗り越えることで、民の生命・財産を守るという価値観を再認識し、江戸時代後期の町人文化の醸成につなげた時代を見つめる。


斜里町のねぷた祭り
7月22日、北海道斜里町で津軽藩士殉難慰霊祭がとりおこなわれました。式には斜里の関係者のほか、弘前市からも多数の関係者が参列しました。
今からおよそ200年前の1806年、ロシアが樺太や蝦夷地を次々と襲撃する露寇事件が勃発し、東北諸藩の三千の兵が蝦夷地に出陣。斜里の警護に赴いた70名の津軽藩士たちが、寒さと栄養不足のために命を落としたのです。
この史実がはっきりと分かってから、昭和48年に斜里町の人々によって津軽藩士殉難慰霊碑が建立され、毎年慰霊祭が行われてきました。この慰霊祭にあわせて、青森県津軽地方の風物詩、ねぷた祭りも行われ、大小15基の山車が北国の夏の夜を練り歩きました。
(番組ディレクター)

宗谷岬(北海道稚内市)

日本最北端の地、宗谷岬です。露寇事件が勃発したのは、ここからわずか40km先の樺太・クシュンコタンです。その後も、宗谷・利尻近海では日本の商船がロシアに襲撃される事件が繰り返されました。江戸幕府は東北諸藩に蝦夷地警護を命じ、宗谷を拠点にロシア船からの攻撃に備えました。
今回の収録は台風12号が近づいているなか、宗谷岬を見下ろす展望スペースで行いました。


1789棄損令発す1788天明の大飢饉
(1783年から続く)1787天明の打ちこわし1783浅間山大噴火
1772田沼意次、
老中となる 1796清 白蓮教徒の乱1789フランス革命

1776アメリカ独立宣言

本放送:10月11日(火)22時00分~22時25分 再放送:10月18日(火)5時10分~5時35分、13時05分~13時30分
天明3年(1783)、信州の浅間山が噴火。火山灰が各地に降り注ぎ、農作物に大きな被害をもたらした。食べるものを失った農村は悲惨を極め、餓死者が続出。この後9年に及んだ飢饉により、全国で百万人以上が亡くなった。困窮のあまり村を捨てて都市へ流れる人が後を絶たないなか、幕府は、民の命を救う政治へと転換を迫られる。磯田道史さんは「徳川時代の根底に流れる民を考える政治。その大きな起点となったのが天明の飢饉であり、幕府と諸藩が連動して政治改革が進められ、民政が重んじられていった」と語る。天明の大飢饉を契機に、徳川幕府は政治改革を進め、民のための「仁政」、福祉に力を注いでいく。
幕藩体制の根底を覆しかねない未曽有の飢饉を乗り越え、幕藩体制後期の安定につなげていった幕府政治の転換点を描く。


新しい防災対策「郷倉(ごうくら)」
東京都葛飾区立堀切小学校に、「郷倉(ごうくら)」と呼ばれる貯蔵庫が残っています。これは、江戸時代後期の天明の大飢饉以降、凶作・災害用の備えとして全国各地に設置されたものの一つです。当時、政治の実権を握っていた老中松平定信は「三年の蓄え無きは国に非ず」と述べました。これは、三年間飢饉が続いても持ちこたえられるだけの備蓄がなければ国としての体を成していない、との意味です。定信はこの考えを実行に移し、凶作や災害に備えた米穀や金銭の貯蓄を奨励しました。

葛飾区の郷倉には、現在町内の祭りで使う御輿や水害時の備えとして土のうが納められています。3月11日の東日本大震災の直後、地域の人々はこの郷倉の中を点検し、備えに不備がないか確認したと言います。郷倉の保存活動をする町内会の原さんは、「震災が起きて、かえって郷倉の重要性を再認識することができた」と話していました。
物理的な備えの大切さはもちろんのこと、こうした地域のつながりが生きていることが重要だと改めて感じました。
(番組ディレクター)

浅間山・鬼押出し園

天明3年、浅間山大噴火による溶岩流は、はふもとの鎌原村を丸ごと飲み込みました。
浅間山のふもとに広がる鬼押出し園は、天明3年の浅間山大噴火による溶岩流が生み出した場所です。黒々とした大きな溶岩の塊がそこかしこに広がり、噴火の激しさを感じさせてくれます。

1742公事方御定書を
定める

1722上米制、新田開発を奨励する1717大岡忠相を江戸町奉行に登用1707宝永の地震・津波 1756~63七年戦争

1740~48オーストリア継承
戦争


1700~21北方戦争

本放送:10月18日(火)22時00分~22時25分 再放送:10月25日(火)5時10分~5時35分、13時05分~13時30分
戦乱が終わり、経済の繁栄を極めた元禄期。列島の各地では新田開発が進み、米が増産。人口も急拡大するなど、右肩上がりの経済成長を続けた。しかし、この繁栄に終わりを告げる出来事が起こる。宝永4年(1707)に起きた宝永地震と巨大津波だ。マグニチュードは推定8.7。東海地震、南海地震、東南海地震が連動して起きた巨大な地震だった。地震の後にやって来た津波は、和歌山県から四国沿岸部を中心に、村々を壊滅させた。これを機に経済成長は終わりを告げ、停滞を余儀なくされていく。この低成長時代に、社会は一転して「量的な拡大から質的な充実を求める社会」へ転換を図っていく。巨大地震を機に、低成長に見合った社会構造への転換を成し遂げた江戸中期の歴史を見ながら、現代にも通じる教訓を探る。


計り知れない「農の益」
石川県加賀市の旧家には、「農事遺書」という先祖伝来の書物が伝わっています。およそ300年前の宝永年間、この地方の大きな農家だった鹿野小四郎が、田の耕し方、肥料の施し方、病害虫の対処法、稲の刈り方など、自らの実験に基づく科学的な農業の心得をしたためました。たえず年貢の増加を意図する領主に対し、当時の人々は自らの取り分を確保するために生産量を上げる努力が求められました。この書物を書いた鹿野小四郎は、農業には限りがないことを説いています。「まさに農の益は計り知れない。物にはすべて限りがある、しかし農業は土地から物を生み出すものであり、やり方によって限りがない。」現在の当主、鹿野邦夫さんと夫人の富子さんは、書物を残した祖先の教えを受け継いでいきたいと話していました。
(番組ディレクター)

沖新田(岡山市)

岡山市の児島湾沿岸に広がる広大な田園地帯、沖新田です。ここは江戸時代前期の元禄年間、海を干拓して誕生した岡山藩の藩営新田です。その大きさはおよそ2000ヘクタール、南北4km、東西5kmに及ぶ、当時国内最大の新田でした。今もここには広大な農地が広がり、多くの稲作農家がいます。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿