気が重いよ…伊那篇

落ちるところまで落ちた男の日記

北の湖理事長死去

2015-11-22 09:20:16 | 鶴竜・御嶽海&大相撲
金曜日の夜、衝撃が走りましたね。
NHKの番組を見ていたら、ニュース速報で、「日本相撲協会の北の湖理事長が死去!」とテロップが流れました。
だって、九州場所中、毎日福岡国際センターに詰めていたでしょう。
差し違い2度目の式守伊之助に、3日間の謹慎を命じたのも理事長。
白鵬の猫だましに、苦言を呈したのも理事長だったですよね。
人間って、そんなに急に死んでしまうものなのでしょうか。
逆に言うと、そんな最悪の体調不良にも拘わらず、最後の最後まで理事長職を全うした北の湖さんって凄いですよ。
あの、ニュース速報には本当に驚きました。

横綱・北の湖と言ったら、昭和50年代、無茶苦茶強かったです。
立合い一気の押し、もの凄い威力でしたね。
左四つになっても、無類の強さを発揮しました。
また、勝負が決まった後もふてぶてしいのです。
負けた相手に手を差し延べることは一切無く、そそくさと背を向けて勝ち名乗りに向かうのでした。
そんな北の湖を評して、「江川・ピーマン・北の湖」というコピーが流行りましたっけ。
(大鵬は、誰にも愛され「巨人・大鵬・卵焼き」)



私は、当時、小学生―中学生―高校生です。
この伊那の地に住んでいたため、もっぱらテレビ中継で大相撲を見ていましたね。
美男力士の貴ノ花や若三杉や千代の富士が吹っ飛ばされると、世の女性からブーイングが起きたものです。
まさに、憎らしいほど強かった!です。
私は、昭和58年に高校を卒業して上京。
同59年2月に蔵前国技館で開催された「日本大相撲トーナメント第8回大会」で、やっと北の湖を生で見ることが出来ました。
残念ながら、休場がちの現役末期の頃ですがね。
このときは、私は蔵前国技館の力士食堂でアルバイト。
北の湖を始め力士たちに食事の配膳を行っていました。



昭和60年1月に現役を引退。
一代年寄・北の湖を襲名し、同年12月に北の湖部屋を創設しました。
私の知人に、初期の北の湖部屋の力士だった人がいます。
昭和61年5月に入門した炎玉さん。
最高位が三段目西81枚目、平成2年5月限り引退しています。
この炎玉こと、尾川正己さんは、後に故郷の山口県で特定郵便局長に就任しました。
それが、私の特定郵便局長時代とだぶるのです。
ほぼ同時期に就任し、ほぼ同時期に辞めています。
なんという偶然。局長在任期間は共に約5年でありました。
尾川さんは、今は相撲研究家として活動しています。
訃報に接し、さぞかつての師匠の死を悲しんでいることでしょう。



私が最後に、北の湖理事長を生で拝見したのが2年前の初場所でした。
その場所は、横綱・日馬富士が優勝。
優勝賜杯を理事長が渡しています。
今日、その日馬富士がまさに優勝しようとしています。
しかし、もう北の湖理事長は賜杯を渡すことが出来ません。
合掌。


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