井原すがこの想い

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感銘を受けた別れの挨拶 ・ 春ですね~~

2018年03月13日 | 政治

 

急に春めいてきて、ついこの間までの震えあがるような寒さが嘘のようです。日中は20度にもなり夕方も車の温度計は19度を指していました。山口からの帰りに寄ったSAでは、早咲きの桜が迎えてくれました。

3月は卒業や退職など別れの季節でもあります。県庁でも多くの職員が長年の勤務を終えて、また新たな途へ旅立って行かれます。私が所属している土木建築委員会でのあいさつに感銘を受けました。今日はご本人の了解を得ましたのでご紹介させていただきます(前置きなど省略しました)。

 私は昭和56年4月に土木の技術職として入庁し、最初の赴任地は今は無き豊田土木事務所でございました。当時の状況を・・と思い昭和56年の職員録を見てみると、当時の土木事務所の数は14でございました(今は8)。加えまして生見川と椹野川と周南(末武川)に総合開発事務所があり、それぞれ生見川ダム、荒谷ダムそして末武川ダムが建設中であったことがうかがえ、大変懐かしく感じたところです。以降これまで37年間を過ごしてまいりました。37年の内訳は、18年が本庁勤務19年が出先事務所でした。本庁勤務においては道路行政を中心に携わらせていただきました。
 出先事務所での思い出といえば、本会議においても話題となっておりました、下関市豊北町の角島大橋の建設に平成8年から4年間担当主任として携わらせていただいたことです。私が2度目の豊田土木に赴任した平成8年時点で、橋脚は28本のうち8本、上部工は1780メートルのうち150mができているという状況でした。それから4年間で、下部工はすべて完成し、橋桁も角島までつながりました。当時は今のように有名な橋になるとは思いもしませんでしたが、毎日海上の現場に行っていたことを懐かしく、そして現在の状況を大変うれしく思っており、それだけ思い出と思い入れが強く、今でも角島ゆうやけマラソンには毎年参加しております。
 
勤務した37年間の土木建築部の公共事業当初予算を見てみますと、入庁した昭和56年が840億円、ピーク時が平成8年の1,711億円そして来年度が約600億円となっており、ピーク時の35%、昭和56年と比べても71%です。予算が伸びる時代と減っていく時代を経験した私にとっては何とも言いようのない気持ちでございます。一方、土木建築部の土木技術職員数をみると、昭和56年は542人、ピークは平成12年の564人そして現在は429人という状況でございます。こちらも時の流れを感じずにはおられません。
 今年度から平成33年まで5年間、山口県は、行財政構造の改革期間ということで、土木建築部にとってもしばらくは厳しい時代が続きます。このような中、無粋な私は、後輩に送る言葉も持ち合わせてはおりませんが、是非土木建築部全体で一致団結し、そして技術を持った行政マンとしての自信と誇りを胸に秘め、是非ともこの難関を突破していただきたいと思っておりますし、私も今後は違う視点で県政を見させていただき、外から微力ではありますが、できる限りの応援をさせていただくことをお誓い申し上げます。
   ~中略~
意は尽くせませんが、以上で私の最後の答弁とさせていただきます。本当にありがとうございました。
 

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