ロード・マーシャル時事報告場

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求める人物像

2015-09-30 20:23:26 | Weblog
たまに就活や転職のメールが届いてくる。
内容は、「会社に使い捨てにされない方法」から「人事が見る面接のポイント」までさまざまであるが、
「求める人物像」は大体ポジティブにかためられている。

しかし、元来「そういう考えにすらなれない」(空気を読めないアスペルガー含む)精神障害者に対してこれは、事実上の死刑宣告を突きつけられるに等しい。

残念ながら日本はまだまだ精神障害に対して理解が少ない。
「癌で入院します」なら「お大事に」なのに、
「精神病で入院します」なら「ふざけるな」なのであり、
「ウチにさえ来なければいい」としてあとはのたれ死ぬのを黙認しているのが「人のために、地球のために」な会社の実態である。

以下に敬遠される理由を2つほど挙げてみた。

1.身体的不調が見えないこと
足がない人間に歩けと「無理難題」を言えないように、目に見える障害ならば理解しやすいが、五体満足であるのに「障害です」とくると、昔の私のような想像力のない人間には理解できないようなのである。

2.中長期的会社の利益面
精神病は不定期な出勤になりやすく、そのような者に仕事は任せられず、結果「暇」が増えてますます休む口実が出来てしまうという無限ループがある。しかし会社も利益団体であるから、例え150%の能力を出せるけど不定期に来る人と、80%程度でコンスタントに来る人とでは、圧倒的に後者を選ぶし、人間の感情的にもそれが正しい。

まあ、実は他にもたくさん理由があるのだが、書いていても無駄である。
実際問題日本の世の中は精神的に後進国であり、そのような中で我々は生きねばならない。

手っ取り早い方法として、社会を変えるという選択肢がある。
しかしこれは本人たち以外の賛同・理解者は少ないため合法的な手法では限界がある。これからは一定数の精神障害者を会社は雇わなければならない世の中になるそうだが、それでもコスト面で考える限り、「堂々と違法」したり、「使い潰し」たりして障害者をとっかえひっかえ入れ替えするだけだったりするだろうし、障害者が実際に職に就けても、周囲の不理解により障害者にとって良い環境ともいえないかもしれない。

世の中を見ていると、こういう人たちに対する世間の理解はほとんどといってよいほど無く(健常者側からすれば「これだけしているのにまだ言うか」なのであろうが)、偏見は極めて多い(ネットでは鬱で会社を辞めて転職しにハローワークに行くと、「鬱はねぇ、嫌われるよ」といわれた者もいる。病気というファクターを通しているだけであって、「あなたはねぇ、嫌われるよ」と言われているも同義であり、その意味であからさまな差別である)。

であれば、やはり苦しみながらも、それでも、地道に通い続けなければならないのが現状出来るベターな方法ではなかろうか。
他人は何もわかってくれないことを受け入れて、自分を変えるしかない。

そんなわけで、当事者になってずいぶんかかって気づくこともある。問題は、そうなったときにはすでに精神的余力がなくなって過去の自分の発言にも責任を持てなくなることであるな。



次の話題


哲学的ゾンビ

哲学ゾンビという言葉を知った。調べるのが面倒臭い奴は以下のマンガの例を参考にすると良い。
http://world-fusigi.net/archives/8161653.html

生物学を中心とした科学においてはもう古典的すぎるこの手の話をわざわざ取り上げたのは、なお私に理解力がないならであるが、マンガのほうを採用して、私が感じた疑問は2つ。

第一に、この哲学的ゾンビにもう一度「意識だけを殺す毒薬」を与えたら、また服用するのだろうか。
たぶん、少なくとも外見上は行動は変わらず、また環境もかわらないはずだから、するはずである。
なんという無限ループ。
それって、哲学的ゾンビである必要なくね?

第二に、毒薬を服用したからといって、少なくとも外見上変化はなく、環境に対する行動も変化がないはずである。となればそれは結局苦しんでいることに観測側からみれば変わりはないのではないか。やっぱり無限ループ。

生物学の発達が著しい現在、科学は単に我々の意識や物事のとらえ方だけでなく、「忘れ方」にもメスを入れてきている。話題に出しておいてなんだが、そっちのほうが私としては気になる。



HoI2マルチシナリオ


私のHoI2復帰はまだまだ先だが、マルチプレイでドイツプレイ確実なのは以前述べたとおりである。ソ連が戦争する気満々のプレイヤー、かつ日米英がコミュニティを形成しようとしている雰囲気において、ドイツプレイはなかなかに厳しいものである。

そんな中、ふと第二次大戦開始と同時に、ポーランド侵攻をせずベルギーやルクセンブルクを突破、先に迅速にフランスを占領する、というプランを思い描いた。

このプランについて、私なりに検証したい。

メリットは二つある。
第一に、ポーランドを「緩衝国」とすることで、その背後に存在するソ連の影響を薄めることができる。
第二に、プレイヤー率いるイギリスによるAIフランスへの増援を最小限に抑えることができ、「電撃戦」を実行できる。

問題点として、
第一に、ソ連がセオリーを意識しない場合、ソ連によるポーランド占領となりベルリンの地政学的な観点も含めて以降非常に厳しいプレイを強いられる。
第二に、少なくともデンマークはそれまでに占領しておかないと、イギリスプレイヤーなどがポーランドに増援を送り込みかねない。そうなるとフランス戦より厄介になるし、かといってデンマークを占領しておけばアイスランドが連合国側の手に落ちることになり、その後イギリス本土を占領してもなお、「大西洋の壁」を意識しなければならない。

どうやら、その場しのぎのプランのようであるな。
まあ、どう出すかはその時の楽しみとしよう。



最後に、どうでもいいので最後にしたが、私の「私特有」の認識の仕方を紹介する。

日中、ふとニコニコ動画はじめてのチュウなんだが大丈夫か?【エルシャダイ】が頭の中で流れてしまう事がある。
しかし途中から、歌詞が以下のようになってしまう。元ネタについて知りたければNHKの「人間は何を食べてきたか」を観るべきである。


"神は言っている―"
"ここでタヒねと―"

話をしよう
あれは今から364000年前だったか
いや、昨日の出来事だったか
まあいいノック(笑)

彼には364000通りの名前があるから
なんて呼べばいいのか…

確か最初に会ったときは
イー…何とか

あれ↑は確か
イー…
…まあいい

「そんな装備で大丈夫か?」
「大丈夫だ」
「問題ない」
「大丈夫

まあ…イイ奴だったよ

はじめての ビュットナーさん
トマスさん36歳
変わらぬ食卓です

アジアの民と食とターギ
セク・クアンタさん

カツオのだし汁に似たココナッツを焦がし
今カンボジアは内戦のさなかですが
ニジェール川の内陸三角州


はじめてのエンリケさん
バナナの葉には殺菌作用が
ソンボロ、ナマズ

ハニャック村虫糞茶
そのまま食べてしまいます
黄土高原の民(切望)

20ヘクタール
の大丈夫(大丈夫)じゃない
羊の肉さえあればあとは何もいらない
イワシのカレー炒めです



くだらない内容の日記ばかり書いてきたが、これほどくだらない日記はそうめったに出るものではないので、これはこれで貴重である。
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コモドゥスにはなれない私だから

2015-09-28 06:22:42 | Weblog
映画「グラディエーター」のコモドゥスを、私はこれまでなんとなく好きだった。

彼の一貫した、自分本位な考え、他人を思いやれない思考、大げさに「私ってこんなに不幸なのだ、それはあなたのせいだ」としてつけこむ常套手段、それに陶酔している自我、そして何より自分の望んだことをしてくれなければ悪い奴であり罰せなければならない、そして相手への効果的な攻撃の仕方、というものが私にもあるからだ。

コモドゥスが作品中でどのような人物かは、コモドゥス論に詳しく書かれているので、あえて書かないが、コモドゥスがどのような人物であったかを簡単に記すならば、極めて自分本位で他人に鈍感、順位づけで自分を誇示したいが本当にそれをしてしまうと負ける不安がある(その時点で半分負けているが)があるから相手を選んで不毛な戦いで自己満足し状態を悪化させつづける人、といえよう。おそらくそれだけでは全部は語られず、またそれですべてをカテゴライズすればコモドゥス像はずれてしまうのだが。
コモドゥスは、極めて幼稚であるのだが、それは首尾一貫していて、賢い。そこが私がコモドゥスと違うところである。

だが、私は安易にコモドゥスに共感した。
この映画を観たのは、私が中学高校の時だった。
私は安易にコモドゥスを理想化し、そして私自身の心の安寧を得るためにコモドゥスと同化することで自己アピールをしたのである。
その点で、コモドゥス論に書かれているように、私は、コモドゥス論の言葉を借りるならば、「「赤毛のアン」の「アンの幸福」に出てくるヘイゼル」タイプの人間である。
コモドゥス論によれば真にそのような人はそんなことを全く感じることはなくむしろ、そうでない人が「私ってそうかも」と感じるということだが、私自身においてはこれは部分的に異なっている。
私は、明らかにヘイゼルタイプの人間なのだ。

映画の中のコモドゥスに共感したのも、似た部分を見出していたからに他ならないが、それは自分本位の考えでの行動であったり、そのための手段としてしか相手を観れないという点である。

私は、他人を「自らを誇示」するために利用し、他人に尽くす喜びを知らず、自分本位に、それでいて自らが描いた幻想に浸りきった人間である。
それでいて、私はそのようなタイプの人間としては中途半端で、情に流されやすく、コモドゥスほどの徹底した自分本位のための冷徹さもそれを行う勇気も持ち合わせていない。

そんな中途半端な自分を「理想化」したコモドゥスに勝手に当てはめて、共感した気になって、通ぶっているだけ、というのが私の実情である。

とどのつまりはヘイゼルタイプの人間同士で発生した「自分の存在価値を示すための不毛な戦い」を行い続けたに過ぎない。

私は幼稚である。

勝手に幼稚で自分本位な側面を持つコモドゥスに共感し、私にはない彼の能力を付け加えて幻想を抱き、それによってコモドゥスと私の類似点を強調して現実の私を見ず、勝手にその幻想を威張り浸りきって、履き違えている中二病のなれの果てともいえよう。

コモドゥス論を書いた方が指摘したヘイゼルタイプの人間に近いながらも、中途半端に善き「人間的」であり、それから目を背けてヘイゼルタイプになりきってそれを威張っているに過ぎない。

映画「グラディエーター」でのコモドゥスを演じた役者の背景や冒頭の戦闘シーンにケチを言ってみたりしながら登場人物のコモドゥスに共感する、実に中途半端な、幼いままの姿、それがありのままの私である。

映画の最後のシーン、音楽に何か感じるものがあるとしても、それは主人公マキシマスタイプに分けられる人間の感じるそれでもなければ、コモドゥス(ヘイゼル)タイプのそれでもなく、だからと言って単にこの映画を深く考察しないで評価している人間でもない。

微妙な意味で小賢しい、それでいて拙い、あくまでも部分的にコモドゥスと当てはまるだけの私が、持ち前の白黒思考でコモドゥスに勝手にのめりこんで哀愁を感じていると履き違えているに過ぎないし、またその幻想に浸ってそこから何の進歩もしていないのだ。

わたしはコモドゥスに部分的にしか似ていないし、強がってコモドゥスを演じていても、私はコモドゥスになれない。
だから、私は私自身の世界を作り上げる必要があるだ。
コモドゥスと私の類似点を見つけて「心の通じる相手」としてその世界での上位の地位にとどまることで安心するというのは、実に不毛であり、自体を悪化させるだけのことだ(幸いなことに、コモドゥスは映画上の架空の存在なので、私と彼とは実際には争うことはない)。
私は私をきちんと見つめて、嘘ぶっている姿から変わらなければならない。
ヘイゼルタイプの人間である私にそれができるかはわかりかねる。
だが、そもそも私は完全なコモドゥスではないし、そもそもそれは不毛で悲惨な結末を招くに過ぎない。
だから私は変わらなければならない。そもそも、コモドゥスにはなれないのだし、私は別人なのだから。
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航空戦艦から見た世界

2015-09-26 22:08:02 | Weblog
航空戦艦とは、その名の通り、戦艦を航空母艦に改造したものである。

その名とは裏腹に、航空戦艦の実情は、
微妙な性能の戦艦を、
微妙な能力の空母に、
無理やり改造したものであるので、
航空機や搭乗員の補充すらままならなかった旧海軍においては、まさしく微妙以下の性能しか発揮しなかった。

とはいえ、末期にはその微妙な搭載能力を活かし、
雀の涙ほどの物資を、
完璧に日本へ強行輸送を成功させるなど、
微妙なりに当時の実情と合わせて使われていた。

しかし現在、その名は「ひゅうが」「いせ」として全通甲板を持つヘリコプター搭載護衛艦として海上自衛隊に受け継がれている。
ひゅうが型は海上のプラットフォームとなるべく、第二次大戦までの「日向」「伊勢」とは言葉の意味合いからして一線を画している。


よく右の人が、
「日本も戦略原潜を持つべきだ」
と言っている。

そもそも「戦略原潜」とは何かといえば、
普通の一般人が考えるように魚雷を発射するだけの潜水艦ではないのである。
再突入体を10個程度持ち(すなわちミサイル1つで10個程度の目標を攻撃できる)、
射程1万キロ程度の、
核ミサイルを20発程度搭載した原子力潜水艦が、
一般的な「戦略原潜」である。

そして、この「戦略原潜」は1隻用意すれば「抑止力」となるわけではない。
少なくとも、任務中、補給・練習、予備など、3~4隻体制で運用して初めて「抑止力」となる点は重要であって、
そこのところを昨今の厳しい財政事情を理解しないまま主張している輩も少なからず存在すると思う。

この前友人と話していて国防→戦略原潜、という話の流れになったのだが、
一般の人はあれかな。
「ミサイルは浮上してから発射している」
とか思い込んでいるのだな。

そのような手段は、百日以上連続して潜航できる、という原子力潜水艦の究極の特徴である「ステルス性」を無視しているので愚手である。
実際は水中からミサイル発射するのである。

最近は潜水艦発射型核ミサイルの核弾頭をはずして、「通常兵器」として運用し、即応性のある武器として使用しようとする動きもあるようだ。
ロシアなどは「核弾頭と通常弾頭の見分けがつかない」としてあからさまに反対している。

核弾頭の代わりにタングステンのロッドを数千発仕込むということも計画されており、10m級の半数命中半径を誇る精密さと合わせて、市街地攻撃支援にも使おうとか、さらに半数命中半径を高めるためにGPS誘導させようとか試されているようだが(現在のミサイル誘導には天測航法が使われているという)。


このような運用の変化を見てみると、巡航ミサイルと任務がかぶりそうであるな。


巡航ミサイルの始祖であるV-1(ナチス・ドイツ)はごく初歩的な誘導装置で、「ロンドンに落ちれば上出来」であった。
現在の「トマホーク」巡航ミサイルは、航続距離約2700kmである。
潜水艦からも発射できることも相まって、人類が居住している90%の地域を攻撃可能である。
敵のレーダー網をかいくぐるために地上数メートルを飛行し、その精度は「ビルの窓をすり抜けられる」といわれている。


よくライトノベルなんかで「始祖が最強」と祭り上げられているが、常識的に考えればその後続のほうが強いのが普通だ。


軍隊ものといえば、最近「るろうに剣心」の志々雄軍のことにも触れておかなければなるまい。

「たかが手投げ式の炸裂弾だ!
 外装は壊せても内部までは破損せん! 」

正論なのに、まさしく、「なぜああなった」だが、現代の軍事から考えるに、
当時の知見の限界ではあったのだろうが、ボイラー・タービン・変速機を左右でシフト配置方式にしなかったことも、「煉獄」喪失の一員であろう。
また、欠陥戦艦を売りつけられたとも考えられ、その場合はポンコツを売った縁が悪いことになり、その原因を作った剣心によって、志々雄の計画は狂わされたともいえよう。

もちろん正論を用いるならば、以下のコピペも忘れてはならない。


5 : 風吹けば名無し : 2011/10/30(日) 23:19:24.31 ID:NoscZeOP [2/6回発言]
るろうに剣心の舞台となったのは明治11年 時期はすこし違うが明治8年の海軍の予算は350万
イギリスから買った鉄甲艦扶桑のお値段は約100万円となっている。

9 : 風吹けば名無し : 2011/10/30(日) 23:23:57.90 ID:NoscZeOP [3/6回発言]
手榴弾一つで沈むようなクソ船と比較はしたくないが大体同価値として志々雄軍の予算はだいたい170万ぐらい

11 : 風吹けば名無し : 2011/10/30(日) 23:25:53.17 ID:NoscZeOP [4/6回発言]
明治前期の一万円は今にして一億円くらいの価値がある
よって志々雄軍の総予算は170億円ぐらいだったのでは全国支配には結構キツイがいい線言ってたと思う

13 : 風吹けば名無し : 2011/10/30(日) 23:29:57.29 ID:NoscZeOP [5/6回発言]
全国支配をするとなると必然的に海軍よりも陸軍を相手にしなくてはならない
明治九(1876)年迄に陸軍は歩兵16個連隊(内近衛連隊2)、騎兵2個大隊、砲兵9個大隊、工兵9個小隊、輜重兵6個小隊、海岸砲9隊の戦力をそろえ
54,000名の兵員数となっている。ちなみに総予算四千万(4000億)wwwかてねぇwwwww


客観的に考えて、戦艦1隻で黒船再来に賭けるしかなかったのかもしれないな。そう考えると、志々雄軍はむなしい。


そんなこんなで本日は珍しく左翼批判にならない日記を書いてみたが、「それだけ」だとつまらないので、ネタ動画を。

【赤い東方】 Russian Apple!!
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8741050

下赤コメントが示すように、深読みをすればいくらでもできてしまう点が、ロシアの真に恐ろしいところである。
一例をあげるならば、ロシアのKGB(ナチスのゲシュタポに相当)は冷戦中、傘型銃で猛毒を撃ち込み、暗殺を実行した、または未遂したといわれているし、
1940年にはトロツキーをピッケルで殺している(いわゆる「メキシコにおける人材発掘」)。

傘型銃とか、名探偵コナンの世界もびっくりであるが、実際あったそうなのだからしょうがない。よくコナンの世界のアリバイ作りがひどいと言われているが、そもそも論としてあの世界は「高校生が小学生になる」STAP細胞もびっくりな世界であって、我々の住む世界とは違うのである(現実世界であれば殺人に連続的に関与しているコナン一味が真っ先に容疑者として上がるだろうしな)。


もうひとつ、動画を紹介して終わろう。

出遅れて【組曲】 『世界史』を歌ってみた【かえる】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1670526

中国歴代王朝をはじめとする古代のやっつけ感がすごいが、その「やっつけ感」こそが世界史履修者としては面白く感じてしまう。
投稿された時代も古いが、単語の羅列で世界史の要点を押さえてはいるので、案外テスト前なんかに聞くと効果があるかもしれない。
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祖国とゴジラ

2015-09-24 19:17:24 | Weblog
欧州を中心として難民問題がアツいので、「昔」の難民動画を視聴してみた。

映像の世紀 ~民族の悲劇果てしなく~

である。
ざっと所感。

ナチス「ユダヤは欧州から出ていけ!殺すぞ!」

イスラエル「アラブはパレスチナから出ていけ!殺すぞ!」

なんという無限ループ!
現在のドイツの難民収容施設に旧ナチス強制収容所の一部が使われているらしいが、最高の皮肉である。
クリーンなディーゼルエンジンの排気で最終解決でもするのかもしれないな。


さて、イスラエルと中東の問題に限って言えば、これは「祖国なきための悲劇」であり、その意味でも主権を持った国家の後ろ盾がないと我々はいともたやすく悲惨な目に合う。
シールズのバカ者はそこらへんがよくわかっていないから、アジア的優しさあふれるポル=ポトさんに邂逅するとよい。

ポル=ポトさん曰く、
「笑ってはいけない。それは現状に満足してしまっているから
 泣いてはいけない。それは過去を懐かしんでいるから」
だそうだが、

その結果が「メガネは粛清(虐殺)対象」、国民の33%を虐殺、なのだから、本当に朝日新聞は当時からおかしな報道をしていたといえる。

ワタ○の目指すところはここらへんなのであろうな。

ポル=ポトの失敗は、元来性善説的観念の社会主義を無理やり「当てはめよう」としたのみならず、「新しいもの」という、「既存=悪」としてしまった点である。
シールズの若者はこんな安泰な国家で胡坐をかいて主張する暇があるのなら、カンボジアで自己反省(左では「統括」というのか(笑))をかねて、地雷除去をお願いしたい(ポル=ポトは地雷を究極の兵士と評していたので)。


第二次大戦後のにおける難民問題には大体冷戦対立が微妙に絡んでくるのであるが、この冷戦の引き金を作った(アカを支援し勢力拡大の余地を与えた)のは、人種主義者なルーズベルトだったりするので、これは因果応報というやつであるのだが、「代理戦争」の名のもとに発生した難民にとってはたまったものではない。

やはりルーズベルトは畜生の類だったのだ。


このような中で、残念ながら我々が現在までに得られている対処法は限られたものしかない。
ナショナリズムをあおるのである。

前回の日記で自由主義だけが現在までに生き残った理論であるのと同じように、ナショナリズムを用いた対処法もまた、現在までにほぼ唯一有効足りえた手段なのだ(応報という燃料を投下してしまうのだが)。


そんなわけで、自由主義を標榜している西側各国が現在における難民問題についてどう対処するのかは、興味があるのだが、不法入国している難民を足蹴りしているようでは、欧州の現状は第二次大戦時から変わっていない。


当ブログは全体主義を標榜していたが、ふと「国家に重きを置いてないじゃん」という結論に思い至ったので、原点に立ち返り「甘え原理主義」を新たに標榜するものである。


ここまで書いておいてアレだが、庵野監督のゴジラが「シン・ゴジラ」というタイトルになってしまったようだ。
我々もまた、文化難民としてモスラやキングギドラが出るかもしれない、ハリウッド版ゴジラにいよいよ逃げなければならないのかもしれない。


追記:ドイツ語っぽく便意を伝える
http://www.nicovideo.jp/watch/sm471271

「クソ」がつくほどくだらなく笑える作品であるが、この作品の元となったスレッドでは、出産における陣痛をこのスレッドを見て笑って乗り切ったという者がいる。
万が一それが事実ならば、何がどう出るか本当に判らないものである。
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自由・国家・平等

2015-09-23 07:48:48 | Weblog
自由主義、全体主義、共産主義の違いは、自由・国家・平等のどれに重きを置いているかの違いであると考える。
そんなわけで、これまで当ブログは全体主義を標榜してきたが、どうも違うようなので、そこのところは注意したい。


機械化・マニュアル化と発達障害者の未来

さて、法哲学を専攻した友人と久々に会話する機会があったので、今後の日本の状況、とりわけ発達障害者の状況について議論してみた。
私の考えでは、発達障害者が元来好むとされていた「決まりきった反復行動」は次々と機械化されていき、発達障害者は今後ますます暮らしにくくなるのではないかという悲観的なものであったが、友人は異なっており、機械化・マニュアル化により95%の秀才を大量に作り出すことはできても、100%の天才は作り出すことはできない、その意味で、彼の言葉を借りれば「可能性は多様性」という点で、必要足りうるものである、というものだった。むしろ、機械化・マニュアル化は、たとえば「伝統工芸」のようなものだけでなく、「コミュニケーション」にも及ぶものであり、発達障害者はその恩恵を受けて、相補して社会に出ていくことができるのではないかとのことであった。

まだあまりうまく自身の中に落とし込めていないが、なるほどそういう考え方もあるのかとは思った。
もちろん、以下に示すように全部が全部発達障害者にとって良いということにはならない点は注意が必要である。


一流のゼネラリスト

上記の話つながりで、友人が脚本家を目指す者と会話する機会があったそうで、その話についても意見を交換することができた。その中で友人が印象に残った点として、

「人間的だったり、その他ほかのことはダメダメであっても脚本能力だけは他の追随を許さない脚本家」がいたとしてどうなるか、という疑問に対する答えとして、
「脚本家として成功するためには、自分の脚本を他人に改編されることを認め、譲歩する能力、他人とうまくやっていくコミュニケーション能力が必須。したがって、真に有名な脚本家は一流かつゼネラリストであって、脚本能力だけ高くて他はダメという人間はそもそもこの世界で残り続けることはできない」という受け答えを挙げていた。

一流かつゼネラリストにならなければならないという点は、なかなか厳しいものである。上記コミュニケーションの機械化・マニュアル化があったとしても、ではそもそも「一流ではなかった場合」はどうなのか、コミュニケーションの相補は必ずしも万人に定量的に働くものではないので、そういった場合はどうなるのか、たとえば科学技術分野において博士取得者のうち大学に定職として残れるものは1/40で残りはピペドになってしまう現実、という点について問うてみると、友人もやはり「兼ね合いが難しい」とのことであった。
だからこそ、たとえば「初音ミク」のような“アマチュア”でも発信できるツールの広範化が希望的側面において重要である。


自由主義について

ふと私は疑問に思うことがある。友人との議論の中で、友人は普遍的な原理として自由主義を標榜しているのだが、
たとえば共産主義は独裁により階級社会がはびこり破たんした。
全体主義は言わずもがな。
はたして、自由主義だけ成功したといえるのだろうか。
単にこれは残った結果に過ぎないのではないか、と思うのである。
古代ローマ帝国は「帝国」と名はついていても、皇帝は市民の機嫌ひとつで交代する実質の衆愚政治であった。
慶應義塾大学を卒業して特攻隊として散って行ったとある若者は、自由こそ普遍に強いものとしていたが、古代ローマ帝国の末路を観るに、主義主張は時代の趨勢も含めた上での相対的なものなのではないかと私は考える。


あとは適当な普段の記事であるので、読み飛ばしてもよろしい。


熱い被害

高学歴バカについての記事。

学歴はいいのに人として欠けている…「高学歴バカ」はなぜ生まれるのか
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1806786?news_ref=nicotop_topics_topic

高学歴バカの特徴が熱い発達障害者(アスペルガー)への非難となっているな。
しかし、こういった非難を続ける彼らこそ、空気に流されて理解しようとしない愚か者である(発達障害者が優秀であるとは言っていない)。


語源

アビる(かなり古いな)、佐野る、などの単語が造語されているが、考えてみれば、自衛隊マニアの聖地のひとつである千葉県の「習志野」だって天皇の「篠原に習え」という発言が語源になっているのだから、なかなか面白い。
同様に、私は「野々村」を「知る」として、「ののしる」の語源・由来に一つ付け加えてみてもいいのではないかと思う。


自然との対話

あの耄碌ではたして自然と対話出来るのかはなはだ疑問であるが、科学的に考えると自然は無目的であるから、そもそも対話できない。
その意味でやはりかの会は宗教であると認識してしまう。



北方領土

北方領土交渉をロシアが打ち切ったようだが、安保の牽制であったのだろう。憲法九条制定以来、竹島に続き本土失陥が相次いでいるが、きっと左の人は「きれいな侵略」として相手にしないのだろう。
そういう輩を排除する意味では、安保は「仕方がないが当然」ではなくて、有効足りえている。
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おっぱいぷる~んぷる~ん(ただただご覧ください)

2015-09-21 13:53:04 | Weblog
「相当閣下とゆかいな仲間たち」と称されるほどに、嘘字幕で180度雰囲気が変わってしまう「ヒトラー ~最期の12日間~」であるが、あの「超有名どころのシーン」は実は大変絶望的状況であることや、あの発言の日本語訳について以前記したと思う。

普通にあの状況は絶望的であり、これは「ヒトラー ~最期の12日間~」の文化メガネをはずしても変わらない。
たとえばロシアのドキュメンタリーから状況を見てみても、むしろ冷静に視聴できる分、より絶望感が半端ない。

ドキュメンタリー:独ソ戦 第8回「ベルリン攻略戦」3/5
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14888455
ニコニコ動画、コメント翻訳、途中から

エルベ川対岸に展開する連合軍がもう見え始めている点がより悲壮感をあおっている。


話は飛んで、よくネット上でのコメントで「なんという~」というものを見る。
私の場合、ソクーロフ監督の「太陽」、昭和天皇ヒロヒト(イッセー尾形演じる)の声で認識してしまう。
詳細については、「ただただご覧ください」。「なんという」奇跡。
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意識高い系とルンペンプロレタリアート

2015-09-18 23:18:40 | Weblog
「意識高い系」という言葉をネットで見るようになってから結構経った。
中にはツイッターのT氏のような「典型例」も観察される。

「なにをもってなにをするか」ということについて、自由主義であれは個々人の自由である。

しかし、彼らが大好きな「クリエイト」という言葉の割に、彼らが残したものは、少なくとも現段階では少ない。
むしろ、既存のものをまるで掠め取って成果に仕上げたようなものが多い。
その意味において、彼らは無産市民なので、ルンペンプロレタリアートである。

そう、マルクス大先生曰く、「あらゆる階級の中のクズ、ゴミ、カス」ということである。

もちろん、ここは共産主義でなければ、マルクス(笑)の妄言に付き合う必要はないし、
重ねて言うが、自由主義ならば価値体系は自由である点は強調したい。
したがって、このマル(笑)の言葉を真に受けて反発する者がいれば、すなわち彼ら自身が古典的共産主義に感化されているという証拠でもある。


さて、共産主義は「あらゆる主義の中でクズ、ゴミ、カス」なのは大粛清・飢餓輸出などキリがないが、
ではその真逆の全体主義がよいかといえば、少なくとも現行日本においては十分に議論される必用がある。

根本的な話、極端な右も左も行き着くところは同じなのであって、この振れやすい針をいかに調節維持していくか、ということが本来なされるべき議論の根本である。

そういったことを全くせずに、反発勢力には極端で対抗しようとする野党しかいないあたり、日本の野党は終わっている。
彼は絶対、ガンジーもキング牧師も尊敬していないはずである。
尊敬していれば、そんなことはしないからだ。
山本太郎、お前のことだよ。
その他にも大勢いるがな。

まあ、そのうち彼ら自身が彼らの大好きなゲバルトをやってくれるので、我々はその抗争の危険を「享受」しながら、冷ややかに彼らを見つめる、というのが日本人らしい解決方法であろう。

調べていたら、民主党はその名とは裏腹に、暴力と独裁の政党だったのだな。
http://alfalfalfa.com/articles/131641.html

津田弥太郎、お前のことだよ。
同じオツムの「仲間」に囲まれて、もう周りが見えなくなっているのだろうな。

このようなわけで、民主党は偽善を繕わずに最初からそういう政党ですと正直に言っていれば、投票することを考えなくもなかったのにな。


さて、このような暴力と独裁とを持つ2つの政党がぶつかればどうなるのか、といえば「ターニャの日記」になるわけである。

少なくとも中国共産党や北朝鮮は独裁体制であるし、ロシアも自ら国家資本主義を標榜している事実上の独裁である。
我々が現在、ターニャの日記のような運命を辿らないで済んでいるのは、こちら側が同様に独裁体制でないからであって、
現在の日本共産党や民主党のような独裁野党が外交に出ようものなら、当然「ターニャの日記」は我々に降りかかることになる。

ちょっと考えればわかろうものであるが、あいつらはバカだから仕方ないのだ。
偏差値28だしな。

「学歴と人間偏差値は関係がない」

というのが彼らの主張であるが、少なくとも科学の観点からみるとこのような主張をするに妥当な根拠が必要なのであるが、彼らはそれを出せないばかりか、

「学歴と人間偏差値は関係がある」

という主張を打破する論拠も持っていないでただ主張しているだけなので、非科学集団である。

彼らが非科学というオカルトに走って「主張」しか繰り広げられない不毛な世界にいるのは、単に彼ら自身の無知故なのである。



追記 タバコ税について

現在様々な観点から(自由主義者にとっては悲しいことに)「効率」が重視されている。
たとえば、「日本国民の睡眠の質」について統計をとって、「睡眠障害によって発生している日本の損失は毎年3兆円以上である」としている分野もある。
自由主義から考えればこれは実に不毛な主張であって、まことに「効率主義」が世の中を席巻しているのが現状である(同時に睡眠導入剤をはじめとする「睡眠産業利権」とでもいえる別の「資本」の成り立ちを否定する話でもある)。

しかしこの流れに乗っかれば、タバコの増税はきわめて妥当な話である。

タバコの害悪と、それがもたらす癌などの疾患をはじめとした経済損失が非常に膨大なことになるのはすぐにわかる話である。
拡大する医療費をはじめとして、不特定多数に危険因子を与えるタバコについて、その使用者からその対価を補てんするというのは、極めて合理的な話である。
道路特定財源制度のようなものと考えれば判りやすい。

しかし現状、タバコの「損失」に対してかけられている税金は極めて不当なものと言わざるを得ない。
したがって、タバコ1000円のような増税についての強い論拠となるし、タバコ税の使用は医療費を中心とした分野に補てんされるべきである。

このような中、愛煙家の中には「いいの?デモするよ?」などというコメントも見受けられる。

タバコ増税に反対するという主張においてタバコをボイコットする、という意味でデモをされるのなら、嫌煙家のみならず彼らの健康、さらには社会福祉財源の改善といった意味からみてもこれは極めて魅力的な提案であるので、ぜひそうしてほしい。

もちろん、彼らのデモにおいてそのような希望的観測だけを用意するのはあまりに不備である。
我々の希望通りのデモにならなかった場合(たとえばそれは暴力を伴うことも予想されよう)、我々もまた彼らに対して「デモをする」権利がうまれると考えるのが妥当であろう。
そうして、無限の「デモ応報」ループが繰り広げられるのである。

ベトナムに揺れるアメリカで反体制派(若者・学生)と体制派(ブルーカラー)のデモの衝突のような場面が様々な点で見られるのである。

日本はアメリカの50年後を行っているな。


なお、当ブログは全体主義を標榜しているが、全体主義にも「何に重点を置くか」という点においてそれぞれが異なり、むしろ「右翼」と「左翼」はその意味で本質的に同義であと当ブログは考えていることを強調する。


津田弥太郎、お前のことだよ。

なお、国会議員ではない、全国の山本太郎氏、津田弥太郎氏に、本ブログは「心中察する」という言葉を表明したい。
また、こんなくだらない落書き記事でも、偏差値28の頭だと不快感が発生するのかは、興味が持てる。
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灼眼の政党(追記「ゴジラ」(1998))

2015-09-16 20:01:40 | Weblog
最近なんというか、適当な表題が多いな。
少し気を付けたい(普段は精査されているか、といえばそうではないが)。

以前レギオン繋がりで少し触れた「灼眼のシャナ」であるが、調査を進めていくとどうやらこの物語、「存在の力」なるものが重要なキーワードであるそうだが、我々現実世界の人類も遅れてはならない。

厳密にとらえるならば、質量はエネルギーであり、核融合・核分裂によって得られるエネルギーは実は、「質量」をエネルギーに変換しているともいえる。

そんなわけで、我々は我々自身の方法で、「存在の力」を恒常的なエネルギー供給源にしたり、あるいは破壊的な兵器として運用していたりするのであるから、よくわからん化け物どもが来てもたぶん大丈夫である。

さて、ざっと本日の日記を書き始めて、まあ実は常々思っていることではあるのだが、パソコンにしろスマホにしろ、「誤変換率」があまりに高すぎて閉口している。
おそらくこういった言語入力ソフトは学習機能などを有していて、使用頻度の高いものを優先的に候補に挙げているのだろう。ところが、時々ふと、一度も使用したことのない単語・漢字が候補に挙がってきてしまうことがある。
急いでいるときなど、そんな「どうでもいい候補」にかまっている暇はないので、特にスマホにおいては確実に文章を入力したいので、同じ漢字などを有する異なる単語を入力して対応している。そして、この時の事がいやに鮮明に学習されて、この混乱に拍車をきたして無限ループを生じていると考える。
言語入力ソフトのようなものを作っている人は、こういった意味での「ドラマチック理論」をそもそも採用してほしくない。

さて、SEALDsの若者たちが騒いでいるようだが、大体こういう主張をしているやつは、自分の主張が通ったら、
「この国の政治を動かしているのは俺たちだ」
とエリート面して保守に走るからタチが悪い。

ちなみに政治つながりで、民主党の事務所に
「アベ政治を許さない」
とデカデカと文字が貼ってあったが、現行法および制度から考えるにこれは、

「国民の政治への参画(すなわち選挙結果)を許さない」

ということになるので、民主党はやはり独裁党である。

何よりも「アベ」とわかりやすくカタカナで「認識」させている点でもう国民をバカにしている(おそらく奴らにはその自覚すらないのだろう)。


次の話題に吹っ飛ぼう。

腸内環境・腸内細菌至上主義が昨今優勢気味である。
大体こういうものはフードファディズムや自然至上主義と結びついて、

「有機農法(略)こそ正義、現代医学は悪、変えるためには」

というステキ理論飛躍と絶対懐古主義になっていくのだが、

腸内環境において「自然に」、バクテリアが他菌を排除する抗生物質に似た物質(バクテリオシン)を分泌して腸内環境下での優位を目指していることについて、
というか、「抗生物質」はバクテリオシンの汎用バージョンともいえる、という点については、
「こういった“腸内細菌が作ってくれる抗菌物質”のおかげで私たちは健康」
という好意的な解釈しかしていない点について、民主党並みの不信感がある。


最後に、追記部分である。

ハリウッドで昔作られた、

「ゴジラ」(1998)

は、興業的には成功を収めたものの、中身は「酷い」の一言に尽きることは、諸君らもよく知っていよう。
しかし、これを手掛けた監督は、

「興行収入はゴジラ史上一位、他より上である」

といった旨のコメントをしている。
その理論で行くと世界で一番美味い飲み物はコカ・コーラになって、海原雄山大激怒のフードファディズムへと話は突進してしまうのだが、そこは置いといて、
普通に「ゴジラ」(2014)に興行収入を追い越された現在、「ゴジラ」(1998)の評価は自身の主張する観点からも地に落ちたとみて間違いない。
もちろん、「ゴジラ」(2014)やその続編についての評価・議論に、この事実はなんら影響を与えない事は強調しておく。
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修羅の国からの共産党からの生物学からのJ・モノー&ミーム

2015-09-14 19:42:28 | Weblog
共産党勢力が合法的に「反安部勢力」を名乗れるのならば、
同様に、当ブログも「反福岡勢力」を名乗っていいはずである。
まあ、何もできないので文句垂れているだけだがな。

当ブログは昔、反福岡主義であった。
おもに民度の関係からである。

そういうわけで、福岡を破壊したスペースゴジラの誕生に間接的に寄与した白神博士について、
栄誉称号を与えたい。

当ブログで「偉大なる」をつけているのは、これまで以下の3つであった。

・偉大なるモフ・ターキン(誤訳由来)
・偉大なる将軍様(将軍様も共産党員)
・偉大なるロード・マーシャル様(宇宙以下略)

そんなわけで、新たに

・偉大なる白神博士

を追加したい。

まあ、実際どうだと言われればそれまでであるが、調子に乗る共産党主義勢力のイメージダウンにつながれば、うれしい。

もちろん、共産党が本当に日本の政権を取ったら、今のSEALDsの学生さんたちは問答無用で戦車で轢き殺されるのだがな(誇張なし。詳しくは天安門事件参照)。

生物学を学んだ観点から言えば、これは数的ではなく学閥的な理由から共産党が嫌いになるのは仕方のないことである。

共産党こそは、自身の政治主張のために、「メンデルの遺伝の法則」から始まる生物学という「事実」を「第二次大戦以降も」公然と否定し続けたおバカ集団である。

より端的に言えば、単に学問を拒絶しただけでなく、生物学による農業への寄与すらも拒絶して、世界の農業生産にダメージを与えたという観点から考えても、

「人類の飢餓より党のメンツが大事」

という集団なのである。
そんな集団の口から「きれいごと」がせきを切って流れている時点で、詐欺以外の何物でもない。

共産党勢力は豊かな現代社会にはびこる寄生虫なのである。

「腐った肉を切るとそこには何が!?
 蛆虫がいるはずだ!!
 それが共産党!!」

というマニフェストをもとに、当ブログは活動を続けていきたい。

共産党はNIMBY(「必要性は認めるが俺の近くでやるな」という主張)ですらない時点においてお察しなのである。


さて、せっかく生物学に触れたのだから、政党批判ではなく何かまともなことを言えという点については、以下の文章で対応したい。

大学時代、スネア仮説について学んだが、あれはいったいどうなったのであろうか。
複雑すぎてまだ検証しきれていないのかもしれぬ。
案外、生物は「我々の偏見の主観」を見事に裏切るほど「無目的に自由な」ものであるから、
セントラルドグマ(中心命題)の崩壊がそうであったように、この仮説が提唱するような単純なものではないのかもしれない。

赤の女王仮説もまた、どうなのであろう。
wikipediaに書かれていることからも周知の事実であるが、この仮説では「性の存在」は説明できても、「雌雄の存在」は説明できない。
なぜ我々が「我々」なのか、という説明を生物学に求めるならば、この仮説もまた更なる検証が必要と考えられる。


本日の日記を締めくくるにあたって、最後に、
「偶然と必然」の著者ジャック・モノーが安易に社会主義に走った点と、
「利己的な遺伝子」の著者リチャード・ドーキンスが「ミーム」という突飛な概念を出して競争論的に「遺伝子(ジーン)」に対抗しようとした点について、

両者とも「科学的事実に対する人間的理性の反逆」を試みている時点で、ちょっとそれはどうよ、と当ブログは考えていることを表明して終わりたい。
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パンツァーファウストはあと1本しかありません、虎の子ですよ

2015-09-12 18:08:18 | Weblog
表題は、Hellsingのかませ犬だったゾーリン・ブリッツ支隊内での発言であるが、

末期ドイツのベルリン防衛に駆り出された民兵ですら、1人1本以上のパンツァーファウストがあったことを考えると、非常に残念に感じてしまう発言である。

飛行船墜落前から、あいつらかませ感が出ていたな。
ベルナドット隊長は犠牲になったのだ。(ナルト感)


さて、以前ドイツが「80cm列車砲」をどうして作ったか、という話をしたと思う。
その時、「フランスのマジノ線防衛の為」と述べたが、

ではなぜフランスはドイツとの国境に地下鉄まで完備しているマジノ線をこしらえてまでドイツに備え、
また第一次大戦後ドイツに、特に大砲について厳しい制限を与えたかといえば、

一言でいえば
「トラウマ級パリ砲」
のためといえる。

パリ砲とは、第一次大戦時にドイツが運用した超巨大列車砲である(射程130km)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E7%A0%B2

この兵器の運用目的は実に単純で、フランスの首都パリのどこでもいいから砲撃することで、フランス人に心理的攻撃を行うことであった。

ドイツといえば機械類をはじめとした物質的なイメージになりがちなのだが、案外、第二次大戦中の報復兵器(V-1、V-2)といったことも考えるに、心理的攻撃手段に訴えていることが多い。
まあ、そんなことをしなければ戦局を変化・打開できなかったといえばそれまでであるが、少し意外な感のある話だ。


なお、パリ砲や、ナチス・ドイツ時代の報復兵器V-3(当時開発中)は、湾岸戦争で破壊されたイラクのムカデ砲に大きな影響を与えた(というかV-3はムカデ砲そのもの)時点において、湾岸戦争勃発前のイラクとアメリカの力関係がよくわかる。

ムカデ人間が出来上がる以前に、大砲はムカデ化が研究されていたことは、軍事が芸術の先を行ってしまった事例の一つといえよう。
もちろん、ムカデ人間を「芸術」ととらえるかどうかは、個々人の「自由」に帰する点は強調しておきたい。
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