本日は研究室の報告会があった。
報告会といえば、恐怖の代名詞。
ジャーナル会に告ぐ受難。
徹夜の決定。
結果(Figure)の緊急作成要求。
進まない実験を進んでいるように見せかける欺瞞。
そしてー、
10畳30人で数時間。
机なし(教授有)、風なし(排熱ファン有)、エアコン1台(教授方向専用)
とまあ、発表するも聞くも非常に疲れる催し物である。
この報告会というものは、各研究室に存在するものであるが、その形態は研究室ごとに著しく異なっているものだそうだ。
私が配属している研究室は、この分野の中ではマンモス研究室なので、質疑応答含め一人約15分、説明はパワーポイントを用い、報告書は教員以上のみ配布、質問は主として教授が発表者にし、それ以外は報告会終了後各実験室で行われる。
1回の報告会は約15人が報告し、残りの15人は次の報告会というサイクルで1人1月に1回の頻度、すなわち2週間に1回の頻度で土曜日午前中が報告会となる。
慣れない内は、質問もせず言葉も発せず、澱んだ空気の中、いすのみが与えられた状況下で、身動すらままならない漆黒の空間の中で数時間も黙って座り続けるというのは、ある種の拷問となって発狂しそうになったものだが、人間の適応力とはすばらしいもので、今では開始2時間目にして意識が体を離れて空想へとトリップして、もはや苦痛とはならなくなった。
これをある種の限界を超えたというのか、はたまた意欲がないというのかは大いに議論の余地があると思うが、どうせ研究室の中で異端の実験をやっている私にとっては、他人の研究などあまり参考にならぬ・・・・・と、信じている。信じたい。
なお、以前研究室の先輩方は、
「ウチの研究室は発表の場だけは多いから、プレゼンとかは上手くなるよ」
と、言っておったが、
1ヵ月、特に基礎研究における1ヵ月などではフィギュア1枚ぐらいしか有用な絵は得られないわけであり、当然薄っぺらい内容なわけであり、毎月あることによる惰性で、むしろ質が低下しているのではないかと、私自身は考えている。
まあ、1人15分なので、条件検討と実験手法を変更しまくり、珍しくデータをたくさん用意した場合に、いかに発表を簡潔にまとめるか、そしていかに報告書を簡潔にまとめるか(こちらは用紙代による制約である)、ということについては、それなりに「練習」できるのではないか。
またこれとは逆に、基礎研究期間1ヵ月という状況下でもいかに進歩のない研究を、あたかも進捗状況が順調で、興味深い事象が明らかになりつつあるかを強調することについてもかなり「練習」することができる。
特に後者は准教授に配属している私は、准教授直々に指導を受けており、事実この指導により組替えプラスミドが3ヶ月間連続で作成できていないという、いったい何十年前の研究状況ですか?という驚異的進捗状況のなさを乗り切ったというのは、密かな誇りでもある。
前置きが長くなった。
というわけで今日はまあ、報告会であったのだ。
今回の報告会では、4年生が初めて報告を行い、研究室配属から今までかけて行ってきた変異株分離(配属された人は練習がてら全員やる)について報告を行っておった。
彼らはというと、まだ初々しくて、過度に緊張していて、つたない説明、多くの用語ミス、そして必死に教授の質問に答えようとするその姿勢、報告書とプレゼンを真剣に作成するその姿、ああ、なんと懐かしいのであろうか。
私にもこんな時期があったのか。たった1年前だよコンチクショウ。
たったの1年であれほど慣れてしまうものなのか。
確実に向上ではなく慣れであるな。
空想にトリップしかけていた私の意識も、ついつい現実に引き戻され、懐かしい情景に、今度は一年前の記憶にトリップしていた。
あの頃が懐かしいのは、その1年でいろんなことがあったからだろう。人というものは、向上せずとも経験だけはしていけるものだ。
私が初めて報告会を行ったのは、教育実習から帰った直後であった。
教育実習で学んだことを、この場で発揮するのだ、と意気込んでいたものの、
まだ何も知らない私にとって教授の繰り出す質問は難解極まりなく、
苦し紛れの
「やってみようと思います」
という答えに
「お前は政治家みたいな物言いをするな」
と突っ込まれた事―。
そしてやはり、ミュータント株分離から離れて、初めて自分の研究を立ち上げたとき、件の“3ヶ月コンストラクション”を作ることになったあの日々。
そう、周りの同級生が、普通にプラスミドを扱っている中、なぜか私はpETベクターを使うことになった。
DNAをゲルにアプライしたことのないこの私が、である。
pETベクター、それは史上最強の発現系(記憶による)。だがプラスミドを大腸菌から回収しても、通常の10分の1の濃度しか取れない欠点を持つ(30μg/ml程度)。今ではたいした問題ではないが、何もかもはじめての私は、ゆえに制限酵素処理&電気泳動&ゲルからの抽出処理などをしている間に、ふと気がつけば、サンプルをアガロースゲルに全量流してもバンドが検出できない、トランスフォームしても大腸菌が生えてこない、などの事態が続出した。
しかし一方でpETベクターゆえの利点もあった。
まず濃度が薄いのでシークエンス時の加えるDNA量を厳密に調整でき、おかげで塩基配列読み始めのピークが誰よりも美しかったこと。
最強の発現系&EGFPを組み込んでいたために、タンパク発現用の大腸菌にトランスフォームし、コロニーをプレート上に出現させた際、シグナルが漏れ出し、まだ何も処理していないのにプレート上で勝手に発現、EGFPの蛍光によってコロニーが黄緑色に光りだし、インサートチェックするまでもなく導入株のピックアップができた
こと。
いざ発現させたら生産量が多すぎて、目一杯回収してもまだ廃液が黄緑色に光っていたこと。回収液に至っては市販の蛍光ペンなんかよりも黄緑色だったこと―。
なんとなつかしい・・・。
と、このようなことをトリップした意識は思い出していたのである。
長々とまとまりもなく書いてきたが、その意識で私はどんなに長くなろうとも、そしてどんなに専門外の者がわけがわからなくとも、必ずこのことを日記に記そうと決意したのである。
報告会といえば、恐怖の代名詞。
ジャーナル会に告ぐ受難。
徹夜の決定。
結果(Figure)の緊急作成要求。
進まない実験を進んでいるように見せかける欺瞞。
そしてー、
10畳30人で数時間。
机なし(教授有)、風なし(排熱ファン有)、エアコン1台(教授方向専用)
とまあ、発表するも聞くも非常に疲れる催し物である。
この報告会というものは、各研究室に存在するものであるが、その形態は研究室ごとに著しく異なっているものだそうだ。
私が配属している研究室は、この分野の中ではマンモス研究室なので、質疑応答含め一人約15分、説明はパワーポイントを用い、報告書は教員以上のみ配布、質問は主として教授が発表者にし、それ以外は報告会終了後各実験室で行われる。
1回の報告会は約15人が報告し、残りの15人は次の報告会というサイクルで1人1月に1回の頻度、すなわち2週間に1回の頻度で土曜日午前中が報告会となる。
慣れない内は、質問もせず言葉も発せず、澱んだ空気の中、いすのみが与えられた状況下で、身動すらままならない漆黒の空間の中で数時間も黙って座り続けるというのは、ある種の拷問となって発狂しそうになったものだが、人間の適応力とはすばらしいもので、今では開始2時間目にして意識が体を離れて空想へとトリップして、もはや苦痛とはならなくなった。
これをある種の限界を超えたというのか、はたまた意欲がないというのかは大いに議論の余地があると思うが、どうせ研究室の中で異端の実験をやっている私にとっては、他人の研究などあまり参考にならぬ・・・・・と、信じている。信じたい。
なお、以前研究室の先輩方は、
「ウチの研究室は発表の場だけは多いから、プレゼンとかは上手くなるよ」
と、言っておったが、
1ヵ月、特に基礎研究における1ヵ月などではフィギュア1枚ぐらいしか有用な絵は得られないわけであり、当然薄っぺらい内容なわけであり、毎月あることによる惰性で、むしろ質が低下しているのではないかと、私自身は考えている。
まあ、1人15分なので、条件検討と実験手法を変更しまくり、珍しくデータをたくさん用意した場合に、いかに発表を簡潔にまとめるか、そしていかに報告書を簡潔にまとめるか(こちらは用紙代による制約である)、ということについては、それなりに「練習」できるのではないか。
またこれとは逆に、基礎研究期間1ヵ月という状況下でもいかに進歩のない研究を、あたかも進捗状況が順調で、興味深い事象が明らかになりつつあるかを強調することについてもかなり「練習」することができる。
特に後者は准教授に配属している私は、准教授直々に指導を受けており、事実この指導により組替えプラスミドが3ヶ月間連続で作成できていないという、いったい何十年前の研究状況ですか?という驚異的進捗状況のなさを乗り切ったというのは、密かな誇りでもある。
前置きが長くなった。
というわけで今日はまあ、報告会であったのだ。
今回の報告会では、4年生が初めて報告を行い、研究室配属から今までかけて行ってきた変異株分離(配属された人は練習がてら全員やる)について報告を行っておった。
彼らはというと、まだ初々しくて、過度に緊張していて、つたない説明、多くの用語ミス、そして必死に教授の質問に答えようとするその姿勢、報告書とプレゼンを真剣に作成するその姿、ああ、なんと懐かしいのであろうか。
私にもこんな時期があったのか。たった1年前だよコンチクショウ。
たったの1年であれほど慣れてしまうものなのか。
確実に向上ではなく慣れであるな。
空想にトリップしかけていた私の意識も、ついつい現実に引き戻され、懐かしい情景に、今度は一年前の記憶にトリップしていた。
あの頃が懐かしいのは、その1年でいろんなことがあったからだろう。人というものは、向上せずとも経験だけはしていけるものだ。
私が初めて報告会を行ったのは、教育実習から帰った直後であった。
教育実習で学んだことを、この場で発揮するのだ、と意気込んでいたものの、
まだ何も知らない私にとって教授の繰り出す質問は難解極まりなく、
苦し紛れの
「やってみようと思います」
という答えに
「お前は政治家みたいな物言いをするな」
と突っ込まれた事―。
そしてやはり、ミュータント株分離から離れて、初めて自分の研究を立ち上げたとき、件の“3ヶ月コンストラクション”を作ることになったあの日々。
そう、周りの同級生が、普通にプラスミドを扱っている中、なぜか私はpETベクターを使うことになった。
DNAをゲルにアプライしたことのないこの私が、である。
pETベクター、それは史上最強の発現系(記憶による)。だがプラスミドを大腸菌から回収しても、通常の10分の1の濃度しか取れない欠点を持つ(30μg/ml程度)。今ではたいした問題ではないが、何もかもはじめての私は、ゆえに制限酵素処理&電気泳動&ゲルからの抽出処理などをしている間に、ふと気がつけば、サンプルをアガロースゲルに全量流してもバンドが検出できない、トランスフォームしても大腸菌が生えてこない、などの事態が続出した。
しかし一方でpETベクターゆえの利点もあった。
まず濃度が薄いのでシークエンス時の加えるDNA量を厳密に調整でき、おかげで塩基配列読み始めのピークが誰よりも美しかったこと。
最強の発現系&EGFPを組み込んでいたために、タンパク発現用の大腸菌にトランスフォームし、コロニーをプレート上に出現させた際、シグナルが漏れ出し、まだ何も処理していないのにプレート上で勝手に発現、EGFPの蛍光によってコロニーが黄緑色に光りだし、インサートチェックするまでもなく導入株のピックアップができた
こと。
いざ発現させたら生産量が多すぎて、目一杯回収してもまだ廃液が黄緑色に光っていたこと。回収液に至っては市販の蛍光ペンなんかよりも黄緑色だったこと―。
なんとなつかしい・・・。
と、このようなことをトリップした意識は思い出していたのである。
長々とまとまりもなく書いてきたが、その意識で私はどんなに長くなろうとも、そしてどんなに専門外の者がわけがわからなくとも、必ずこのことを日記に記そうと決意したのである。