ロード・マーシャル時事報告場

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自由・国家・平等

2015-09-23 07:48:48 | Weblog
自由主義、全体主義、共産主義の違いは、自由・国家・平等のどれに重きを置いているかの違いであると考える。
そんなわけで、これまで当ブログは全体主義を標榜してきたが、どうも違うようなので、そこのところは注意したい。


機械化・マニュアル化と発達障害者の未来

さて、法哲学を専攻した友人と久々に会話する機会があったので、今後の日本の状況、とりわけ発達障害者の状況について議論してみた。
私の考えでは、発達障害者が元来好むとされていた「決まりきった反復行動」は次々と機械化されていき、発達障害者は今後ますます暮らしにくくなるのではないかという悲観的なものであったが、友人は異なっており、機械化・マニュアル化により95%の秀才を大量に作り出すことはできても、100%の天才は作り出すことはできない、その意味で、彼の言葉を借りれば「可能性は多様性」という点で、必要足りうるものである、というものだった。むしろ、機械化・マニュアル化は、たとえば「伝統工芸」のようなものだけでなく、「コミュニケーション」にも及ぶものであり、発達障害者はその恩恵を受けて、相補して社会に出ていくことができるのではないかとのことであった。

まだあまりうまく自身の中に落とし込めていないが、なるほどそういう考え方もあるのかとは思った。
もちろん、以下に示すように全部が全部発達障害者にとって良いということにはならない点は注意が必要である。


一流のゼネラリスト

上記の話つながりで、友人が脚本家を目指す者と会話する機会があったそうで、その話についても意見を交換することができた。その中で友人が印象に残った点として、

「人間的だったり、その他ほかのことはダメダメであっても脚本能力だけは他の追随を許さない脚本家」がいたとしてどうなるか、という疑問に対する答えとして、
「脚本家として成功するためには、自分の脚本を他人に改編されることを認め、譲歩する能力、他人とうまくやっていくコミュニケーション能力が必須。したがって、真に有名な脚本家は一流かつゼネラリストであって、脚本能力だけ高くて他はダメという人間はそもそもこの世界で残り続けることはできない」という受け答えを挙げていた。

一流かつゼネラリストにならなければならないという点は、なかなか厳しいものである。上記コミュニケーションの機械化・マニュアル化があったとしても、ではそもそも「一流ではなかった場合」はどうなのか、コミュニケーションの相補は必ずしも万人に定量的に働くものではないので、そういった場合はどうなるのか、たとえば科学技術分野において博士取得者のうち大学に定職として残れるものは1/40で残りはピペドになってしまう現実、という点について問うてみると、友人もやはり「兼ね合いが難しい」とのことであった。
だからこそ、たとえば「初音ミク」のような“アマチュア”でも発信できるツールの広範化が希望的側面において重要である。


自由主義について

ふと私は疑問に思うことがある。友人との議論の中で、友人は普遍的な原理として自由主義を標榜しているのだが、
たとえば共産主義は独裁により階級社会がはびこり破たんした。
全体主義は言わずもがな。
はたして、自由主義だけ成功したといえるのだろうか。
単にこれは残った結果に過ぎないのではないか、と思うのである。
古代ローマ帝国は「帝国」と名はついていても、皇帝は市民の機嫌ひとつで交代する実質の衆愚政治であった。
慶應義塾大学を卒業して特攻隊として散って行ったとある若者は、自由こそ普遍に強いものとしていたが、古代ローマ帝国の末路を観るに、主義主張は時代の趨勢も含めた上での相対的なものなのではないかと私は考える。


あとは適当な普段の記事であるので、読み飛ばしてもよろしい。


熱い被害

高学歴バカについての記事。

学歴はいいのに人として欠けている…「高学歴バカ」はなぜ生まれるのか
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1806786?news_ref=nicotop_topics_topic

高学歴バカの特徴が熱い発達障害者(アスペルガー)への非難となっているな。
しかし、こういった非難を続ける彼らこそ、空気に流されて理解しようとしない愚か者である(発達障害者が優秀であるとは言っていない)。


語源

アビる(かなり古いな)、佐野る、などの単語が造語されているが、考えてみれば、自衛隊マニアの聖地のひとつである千葉県の「習志野」だって天皇の「篠原に習え」という発言が語源になっているのだから、なかなか面白い。
同様に、私は「野々村」を「知る」として、「ののしる」の語源・由来に一つ付け加えてみてもいいのではないかと思う。


自然との対話

あの耄碌ではたして自然と対話出来るのかはなはだ疑問であるが、科学的に考えると自然は無目的であるから、そもそも対話できない。
その意味でやはりかの会は宗教であると認識してしまう。



北方領土

北方領土交渉をロシアが打ち切ったようだが、安保の牽制であったのだろう。憲法九条制定以来、竹島に続き本土失陥が相次いでいるが、きっと左の人は「きれいな侵略」として相手にしないのだろう。
そういう輩を排除する意味では、安保は「仕方がないが当然」ではなくて、有効足りえている。
コメント
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