ロード・マーシャル時事報告場

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微妙のニッチと懐疑主義からみる自由主義

2015-12-31 14:58:00 | Weblog
スター・ウォーズ EP7を観た。


いろいろとあるが、作品全体についてはまだ観ていない者もいるであろうから、語らない。


ただ、今回の悪役、カイロレンについては、「なんという当ブログ」という所感を得た。
映画「グラディエーター」のコモドゥスを薄っぺらくした感じであるな。
行動の傾向も似ている。

多くの者はカイロレンについて色々と意見があろう。
たしかに、カイロレンには、ダース・ベイダーのような圧倒さも、グリーヴァスのようなカリスマ(?)も、
はたまたグラディエーターのコモドゥスのような深さもない。

場合によってはスター・ウォーズ史上最も不人気なジャージャー・ビンクスに比類しうる存在かもしれない。

しかしその潜在的微妙さは、微妙好きのわたしにとっては「悪くない」キャラである。
ただ、どちらかといえばカイロレンとタメ口をきく敵組織司令官のほうがより、好きでもある。


年末ということで、自由主義者も参加する忘年会に参加してみた。
しかし私は、甘え原理主義であるが、同時に懐疑主義かつ「全か無か思考」の持ち主であるので、
昨今これだけの労力が割かれてなおあやふやな点、複雑さを包括する点を残し、妥協のように運用されている「自由主義」の思想にはあまりなじめないという結論を得た。
懐疑主義的にみれば、ポストモダニムズ、はたまた第二次大戦前のナチズム・共産主義の台頭にみられるように、

「現状に問題があるかもしれない」ないしは「ナチズム・共産主義という危険を産んでしまったこと自体」に、自由主義の弱点が孕んでいる様に感じてならないので、どうしても茶々を入れたくなるのである。

自由主義者は進化論に例えて自由主義について、他の主義と違って多くの検証や経験を生き残った「最善の策」などと自画自賛している。

例えば、共産主義はソビエト崩壊・東欧経済を見れば明らかだ、と。

しかし、バブルとその破滅を導いた罪、リーマンショック以降の経済問題、そして冷戦という比較的単純な構造ではなく、地域に広がる複雑な低強度紛争。

果たして自由主義は最善なのか、まだまだ議論の予知はあるとかんがえるのが妥当であろう。

懐疑主義の局地までいけば、そもそも「社会」を「より高いものへ目指そう」ということ自体が真に良いことである「べき」なのかも疑えるであろうが、まあそこは妥協なのであろう。

戦時中日本の特攻パイロットとなった自由主義者は当時の世界情勢を示して「自由こそ真理であり不滅」と遺書で書いていたが、案外、
「諸行無常」、「流行り廃れ」程度のもので、たまたま最近は「自由主義」が西側世界では流行っているだけで、いくつもサイクルを重ねていくのかもしれない。

「歴史は繰り返す」のであろう。

大正のデモクラシー的にポストデモクラシーに(乱暴にも)見立てて考えれば、次ぎにくるのは「激動の昭和」である。
まあ、しかしそれも流行り廃れであれば、各々は各々の行動を遂行していてもいいのではないか(懐疑主義の局地や自由主義の局地とは違ういみで)と思える。
別に信条や主義主張も、生命の神秘の実際と同じで、その程度のものでしかなく、価値を重く置き過ぎている事自体も問題かもしれない。

「その時」が来たら、各々はみずからの持つ信条を誇り高く抱えながら沈み行く船と運命をともにすればいいのではなかろうかと、半ば皮肉っぽく締めくくって、本年の日記を終わるものとする。

2016年は諸君ら各々にとって良い年であると、いいな。
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授業と眠気

2015-12-30 04:07:36 | Weblog
とあるブロマガで、「勉強で眠くならない方法」というものが紹介されていた。
それによると、

「判らないことをいきなりやろうとするから眠くなる」

のであって、

「判ることなら眠くならず、無理せず少しずつハードルを上げていくべし」

とあった。

しかし、「判るレベル」では

1.に飽きて眠くなるのではないか。

2.勉強に限らずあらゆる物事は連綿と続いているのではなく、時に断絶が存在するのではないか。

という2つの疑問が生じた次第である。

2.について言えば、断裂に直面した時は「少しずつのハードル上げ」は無理であり、どうしても「頑張るしかない」のではないかとも考えられる。

年の瀬であるな。
本ブログは今年後1回位は更新するかもしれない。
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学歴としてみるモンスター社労士その2

2015-12-28 07:01:02 | Weblog
以前、木全美千男氏について出身大学が南山大学経営学部卒ということで、学歴的に見れば、

「その程度の学力」

と評した。

これについて、

「昔は大学に行くこと自体がレベルが高い、今と比較はできない」

という意見もあろう。

しかし、結局真に高学歴ならば、地元の私立大学なんぞに行かず、せめて旧帝大は目指すべきであるから(予算的にもそちらの方が断然よい)、結局高いか低いかで見れば、やはり低学歴である。

そもそも南山大学の学校教育理念を学べていない点において、学力は察されるのである。

まあ、教育理念は「理想目標」であれば、なかなか「完全習得」は難しいかもしれないが、木全美千男氏については「人間の尊厳のために」の欠片も感じられないので、やはり落ちこぼれである。

追記

こういうブラックユーモアは、昨今のご時世・人権観念と相まってなおさらブラックで、アリだと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=eAqgXhblr-w
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結婚および子供を残す理由

2015-12-26 07:49:22 | Weblog
諸君らは結婚しているだろうか。

結婚や子供を残すことと、幸せについては様々な意見が飛び交うところである。

例えば、肯定的意見では、
結婚や子供を残し、家庭を養っていくことが自らの幸せである、とか、老後等において寂しくない、あるいは生活上より安泰である等

あるいは、否定的意見では、
「結婚して子供を残す」というもの自体がステレオタイプの価値観であり、生きたいように生きる事こそが人生を価値あるものにする等

さらにそれらに対して肯定的意見が

それは理想論であり、現実問題として等

と、まさしく千差万別かつ応報的な意見が繰り広げられている。

私としては、結婚して家庭を築き、子供を残す、という営みは、「子孫という自らの延長を通して可能性を継続させられる」からこそ価値があるのではないかと考えている。
すなわち、個人の限られた人生の中では実現できない様々な可能性を養育という過程を通して自らの意思をある程度反映させつつ子孫に託すという意味で、(「利己的な遺伝子」とは異なる)子孫を残すことには人間的な満足感を感じるのではないかと考えられるのである(もしかしたらそれが世代間での「ミーム」伝播かもしれないが)。

そう考えると、両親が自らが実現できなかった、または実現している目標を子供に強要するのも判らないではないが、それはむしろ未体験の可能性を潰す行為と言え、得策では無かろう。
とはいえ、悪い意味での想定外の子供の行動を助長すること(非行や、明らかに社会的に成功しないと判っていること)も、将来の子供の方向を決定づけてしまう点で可能性を減じていしまうので、これまた良くない。

ただ親に出来るのは、子供の取れる可能性の幅を広げるために、投資することであり、だからこそ、勉学に励ませ、習い事をさせ、良い大学、良い企業、良い結婚を勧めるのであろう。もちろん、何が「良い」なのかは、上記の二つの折衝案となるであろう。

逆に、一人で満足している者は、「なりたい自分になっている」のであるから、それ以上の可能性を残す必要も感じないため、そもそも結婚して子供を残す、という行為自体不必要なものである、となろう。

要するに結婚・子供を残す人々は中途半端、一人で大丈夫という人々はチャレンジ精神に乏しい、といえる。
意味を履き違えているな。

もちろん、そんな小難しく考える必要はなく、同期などが次々と結婚していく中で単に「寂しいから」とか、とかそれに対する「強がり」とか、別に「不満を感じていない」とか、そういったことでもいいのではなかろうか。

ただ、そういった場合、結婚願望者については、焦りは不安定な妥協を呼び、大きな後悔を残すことになる「可能性」もあるので、注意したほうがいいと考える。


さて、本日の日記は「らしくない」ので、口直しに共産党批判をまた展開するものである。

ソ連の書記長、ゲオルギー・マレンコフは「核兵器は世界の破滅を招く」という平和理想論を掲げた人物である。
しかし、これに対しソ連共産党自身が反発し、彼を没落させ党追放を行った。

ソ連共産党の本質(平和よりイデオロギーが大事)が見て取れる事案である。

このことは、「アベ政権を許さない」としている日本共産党にも(主張の節々に)脈々と受け継がれており、
やはり彼らは資本・自由主義とは本質的に異なり、むしろナチズムと同じカテゴリーの存在である、といえよう。
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山下達郎のクリスマス・イヴ

2015-12-24 06:23:46 | Weblog
幼いころ、エレクトーンを習っていたが、標記の楽曲をクリスマス会で演奏したことがある。

「雨は夜更け過ぎに 雪へと変わるだろう
 冴えない 懲りない」

まだ英語を知らなかった私は、こういう歌詞だと信じておった。

そんなことを思い出したクリスマス・イヴであるが、へんてこな日記を綴っていきたい。


おみくじ・儀式にみる宗教と最先端科学の共通性

おみくじに代表される「占いごと」は、何らかの理論・関連性を用いて、現実の事象の再現を試み、未来について予測する、という行為である。
これは、ともすれば「ラプラスの悪魔」存在の肯定に他ならず、量子力学とは相容れない話である。
(私も分野外なので疎いと予防線を張ったうえで)他方で宇宙物理学を中心に、万物の理論として統一場理論を求める試みが強力に行われている。
それらの意味においては、宗教と科学との間に共通項を見出すことが出来るかもしれない。
占いについては心理学も含めて考えなければならないところもあり、そういった意味では強引な共通化かもしれないが、要は「物の見方・捉え方」の違いだけであるということもできよう。

注意しておきたいのは、「自分の立地がどこであるのか」を認識しておくことである。
なお、それを認識したうえであるならば、当ブログのように意図的にコロコロと立場を変えるのも悪くないと思う次第である。


歴史ifについて

歴史に「もし」はないからこそ、我々は歴史を学び、「歴史は繰り返す」を回避しなければならない。そのために民主政治・自由主義に行き着いたのであるが、それでも「もし」を使えるのなら、1943年のクルスク会戦の突出部北方の攻守が逆転した戦いを、個人的には見てみたいと思う。

当時・当該地域では、

攻勢に出るドイツ軍の指揮官が、「防衛線の天才」であるヴァルター・モーデル、
対する守勢のソ連軍の指揮官が、「攻勢の得意」なニコライ・ヴァトゥーチン、

であった。それぞれが得意とする逆の戦闘指揮を強いられたのであるからして、これが逆の立場で始まっていたらどうなっていたのか、
おそらく戦争の趨勢に大きな影響はないが、「人類史上最大の会戦」をより盛り上げてくれるにふさわしい戦闘になっていただろうと思うと、少し惜しい。


武器の効率化の一例

戦争繋がりで武器の効率化の現代の一例を示してみたい。

近年の戦車では「多目的対戦車榴弾」という弾が存在する。

以前「成形炸薬弾」について述べたと思う。
誤解を恐れず極論するならば、徹甲弾の化学バージョンである。
しかし、戦場は時として、徹甲弾(装甲貫通重視)・榴弾(周囲への被害重視)の両方が要求されることが多く、どちらか一方だけしか用意していないと敵に全くダメージを与えられないこともある。
著名な例として、イギリスが企画したブレヴィテイ作戦において、イギリス軍戦車が徹甲弾しか有しておらず、ドイツの対戦車砲(88mm対空砲)を排除できず一方的に撃退されたことなどが挙げられる。

また、成形炸薬弾では、肝となる「メタルジェット」へ爆薬が寄与するエネルギーは30%未満しかなっく、残りは周囲に飛び散ってしまう。

多目的対戦車榴弾砲は、敢えて「メタルジェットへの爆薬エネルギー変換効率の向上を目指す」のではなく、この特徴を逆に利用し、「成形炸薬弾」と「榴弾」の両方の特徴を併せ持つ弾である。すなわち、成形炸薬弾ではあるのだが、70%以上の周囲に飛び散るエネルギーを利用して、榴弾としての機能も持たせる、というものである。

しかしながら当ブログで何度も述べているように、武器や戦術(これは災害時の救護活動にも関連付けられる)は、理想の効率の20%も行っていないのではないかと考えられる。


幸福実現党にみる博愛押し付け主義

幸福実現党が「愛してるから、黙っていられない」というポスターを掲示していた。
人はそれをおせっかいと言い、これは「博愛主義」の批判に代表されるような、古典的な問題を抱えていることを想起させる文言である。
博愛主義は、「主義」であるからして、「べき論」をして他者に強制を要求するものであり、その意味で「絶対主義」と同様として批判されているのである。
この「愛してるから、黙っていられない」も同様の想起を(少なくとも私には)引き起こされるので、類似の批判が出ないうちに幸福実現党は幸福実現のために、「べき論」から「自由主義(自由である「べき」と、自由で「あれ」の違い、という古典的な内容含む)」への転換・学習を行い、このポスターの文言を変更したほうがいいのではないかと、「おせっかい」を行ってみるものである。
まあ、宗教であるから無理かもしれぬが。


本日の日記もまた、宗教と科学の類似性、歴史ifおよび効率、そして博愛主義と宗教と自由主義、といつものように迷走しているが、まあこんなものであろう。

目下の不安は、一部ネット上において「スターウォーズ EP7」が酷評されている点である。楽しみたいがゆえにその酷評の内容を見れないのだが、はたしてエンターテイメントとして酷いのか、スターウォーズファンにとって酷いのか、それともあくまで一部の批判であるのか、気になるところである。
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学歴からみる「モンスター社労士」

2015-12-22 07:09:36 | Weblog
社会保険労務士の木全美千男氏のブログの記事

「すご腕社労士の首切りブログ モンスター社員解雇のノウハウをご紹介!!」

が炎上しているようである。
精神障害者としてこの件を見るに、「断固として、この敵討つべし!」であるが、
木全美千男氏の経歴を調べてみると、南山大学経営学部卒ということである。

学歴により人を見ることは最近あまりしなくなったが、敢えて今回適応してみると、
やはり学歴的に(偏差値50~55)

「木全美千男氏はたかが知れている」

のであるな。

むしろ、南山大学のモットーである「人間の尊厳のために」を学べていないあたり、レベルの低い大学のさらに落ちこぼれであったのだろう。

これで自らをして「すご腕社労士」と称しているあたり、大変痛ましいし、こういう「企業への裏口紹介」をしないと食っていけないレベルなのだなあ、と痛感する次第である。

木全美千男氏は、隠れたブラック企業の名店、オリンパスに勤めていればうまく機能したと思われる。

木全美千男氏はテレビの取材に対して、「心配をおかけした」と釈明しているが、
別に誰も心配していないので、木全美千男氏は存分に自身について「総括」するか、問題の「最終解決」を行うか、「再定住」処理されるべきであると当ブログは主張する。

一部には懲戒処分を要請する動きもあるようだが、案外こういう奴こそ、失職すれば日本共産党に共感して騒ぎ立てたりして、揚句オウムのようなテロ行為に走るのではないかと思う次第である。SEALDsも確か偏差値28だったし、お似合いのレベルである。
よかったな。偏差値50~55なら、偏差値28の中では神になれるぞ。
井の中の蛙だが。


共産党つながりでいえば、以前「共産党は無学の宗教である」と述べたが、「偶然と必然」の著者ジャック・モノーがせっかく自然について宗教または目的を排除して客観を重視し、「盟約を断ち切った」事を強調していたのに、最後の章で社会主義に行き着くあたり、結局何らかの「盟約の再建」をしたかったとも捉えることができる。
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正論と日本共産党

2015-12-20 18:53:24 | Weblog
本日のタイトルは、「正論」=「日本共産党」ではないので注意してもらいたい。

「正論」に対する反発記事があった
「言っていることは確かに正しいのだが、場にそぐわない」という件について、「空気読めよ」という怒りの抵抗の記事であったが、
正論が場にそぐわないという空気そのものが世界常識的に空気を読んでいないのではないかと指摘したい限りである。

「男たちの大和」で史実が感動的に描かれているかもしれないが(観ていないのである)、あれは海軍史上の「珍事」であり、また大和特攻の決定も偏に「空気を読め」という“だけ”のことであった「事実」を勘案するに、日本人の空気を読むという土着的風習はまだまだ強く支持されており、そんな中で「グローバリズムに打って出よう」等と言っているのをみると、

パプアニューギニアの奥地の部族が、伝統の踊りで観光客を集めて食っているのに似ていて、大変滑稽である。

パプアニューギニアの部族にはその自覚があるが、今の日本に類似の自覚があるかといえば、大変怪しいい。


さて、本日も日本共産党の街宣車が

「アベ暴走政治にストップを!」

と言いながら信号無視をしていた。

それを人は暴走と呼ぶ

益々日本共産党への信頼が減じた瞬間である。
彼らは「目的のためなら手段を選ばないマキャベリストであるが、マキャベリの君主論が「権威」について述べられている時点で、マキャベリストな共産党は大きく権威主義であることはすぐに推測できる。


共産党は政治として科学をもてあそんだ大罪人であるので、科学者ならば共産党を好きになるはずはまずない。

例:社会主義の正当性を示すために科学主義を無理やり結びつけた(マルクス主義)くせに、自身の主張にそぐわないとして戦後も遺伝学を否定しイセンコを擁護し続けた。

したがって、「識者」特に「科学者」として共産党を擁護する奴がいるならば、そいつは疑似科学者なので、大体怪しい商品を資本主義的に展開していたり、科学者というだけで他分野に素人なのに有識者ぶって本を出していたりする。

そう、共産主義とは虚像の理想論なのである。
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排泄にみる物質主義

2015-12-18 22:24:06 | Weblog
例えば諸君が好きな異性とデートや食事をしていたと仮定しよう。

途中、相手がトイレに立ったとする。

相手が戻ってきたとき、相手は物質的には「排泄」という行為によりいくらかの「欠損」をしていることになる。

しかし、相手の魅力はトイレに立つ前後でなんら変わらない。

これが、「好き」や「愛」の真骨頂であるかもしれない。

しかし、これが「オタク」になると、「お嬢様聖水」の如く「欠損分」までもが崇め奉られるのである。

これは広くオタクの間に物質主義が普及している例として悲しむべき(?)事例であろう。
神格化とも言え、その意味では神話の故事由来の「聖地」などを考えるに、物質主義は宗教にも根をおろしているともいえよう。

物質主義の極地は科学であるが、その科学から、

自身の存在自体をもテーマにした生物学が産まれたこと、
また理学という「応用に頼らない」知の探究が産まれたこと、

は誠に画期的な出来事であると考えられる。


本日は排泄という一見フェチから入った物質主義からの宗教への展開までであったが、いつも通りぶっ飛んでいるな。
「狂っている」ともいえるかもしれない。

話が脱線したついでなので、もう少し付き合っていただきあい。

「狂っている」、すなわち「狂気」は、シューティングゲームの「東方」では鈴仙・優曇華院・イナバというキャラクターの管轄する能力である。
しかし、「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」では、
(ブラックユーモア故に全員が狂っているという指摘もなされようが)たった一人の将軍(リッパー将軍)の狂気が人類滅亡を引き起こすことを考えるに、この能力は相互確証破壊の成立している現在においては大変な脅威である。
いやむしろ、相互確証破壊が成立している現在の世界そのものがすでに「狂気」の可能性も十分にある。

よく東方世界の「幻想郷」はこの世界から「隔絶されるべき対象」のように扱われているが、実際は逆やもしれぬ。


最後に、上記の流れと全然関係のないことをひとつ。

「究極の大戦型空母」と呼ばれる、アメリカ空母、エセックス級の次級、「ミッドウェイ級」がもし、太平洋戦線に投入されていたとしたら、日本軍将兵はどのような絶望のどん底に突き落とされただろうかは、たやすく想像できる。

しかし、ミッドウェイ級のさらに次、キティーホーク級の1世代前の「超大型航空母艦」、「フォレスタル級航空母艦」のネームシップ「フォレスタル」がベトナム戦争でズーニー・ロケット弾によるオウンミッドウェイ海戦もどきをやってしまったことを考えるに、
「ダメージコントロールの技術とノウハウが蓄積」されていても、それはまだまだ不完全なものであり、
案外旧日本軍でも少しは行けたかもしれない。
実際、終戦間際にエセックス級空母「フランクリン」および「バンカー・ヒル」が250または500kg爆弾により爆撃され、大破している。
それでも沈没しなかったことが両艦のダメージコントロールの優れているところと評価されているが、逆の考えも出来る。

軍事に関しては、効率の理想の2割くらいが実現できていれば上出来だろう(アフターバナーなどは妥協の最たる例かもしれない)。
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スパイダーマン エピソード1 (東映)

2015-12-16 21:11:20 | Weblog
いよいよスター・ウォーズ エピソード7の公開が近いが、シリーズの原点に立ち返り、
いま「スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス」を見てみると、

日本の東映のテレビドラマ「スパイダーマン」と案外なじむ。

クワイ=ガン・ジン「シス退治の専門家!」

とか、

アミダラ「すりかえておいたのさ!」

とか。

オープニングも「駆けろ!スパイダーマン」ではなく、
「賭けろ!TIE FIGHTER」にしてその歌詞にアナキンの運命を重ね合わせると、奥行きも増す。

そんな楽しみ方もある。

そういえば今日もプロ市民の共産党が街頭政治活動をしていたが、
彼らの親玉、今は無きソ連が満州でしたことを考えるに、奴ら頭に蛆がわいているとしか思えない。

ソ連の行った微笑ましい日常例
 機関車の先頭に全裸の女性を括り付けて機関車全力疾走

アカ、死すべし。
ドーモ。キョーサン・トウ=サン、クレムリン・スレイヤー(チトー)です。

なお、現在のユーゴを見るに、やっぱり道を外れてみても共産党はクソである。
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東洋医学ブームにみる西洋的二元論

2015-12-14 21:41:52 | Weblog
「西洋医学・薬物は科学という側面だけでしかものを見ていない」←わかる
「漢方は副作用が少ない」←まあ、言いたいことは判らんでもない
「漢方は万能である」←なんで?

西洋医学に拒絶感を示し、漢方・鍼灸などの東洋医学に「万能感」を感じる考え方は、二元論的な意味において、西洋の考え方と本質を同じにしているので、そういう輩は詐欺師か理解に乏しい信者である。

詐欺師ならばまだマシである。
マニュアル車の運転法を知らない者が渋谷の交差点を運転するように、馬鹿が盲信・行動することは、本人の自覚がないだけいっそう、危険な行為である。

漢方・東洋医学だけでなく、本質的に「二元論」を「無自覚」に行っている者こそは、「大衆」という。
そのような輩が政治を始めると、ヒトラーを大歓迎で選出してしまうのである。

別に日本の封建制度や儒教などクソ喰らえであるが、民主政治を生み出した西洋でもヒトラーの有様である。
第二次大戦敗戦から全てが180度変わるなど不可能である。
そんな中に適用された民主制度・自由主義を、我々は「無自覚」に「二元論」で運用しているのではなかろうか。

それは、「変わった」のではなく、「たちの悪い馬鹿」に他ならない。

ハンス・フォン・ゼークトは「勤勉な馬鹿は銃殺してしまえ」と言っている。
その精神は彼の軍事分野では聡明であったが、一方で左翼に対する即時軍事弾圧と、ナチスミュンヘン一揆への対応において、また日本と戦争中の中国の軍事顧問という外交に影響する立場においては、彼自身が勤勉な馬鹿であった可能性は捨てきれない。

様々な側面において、あらゆる局面において、「無自覚な二元論」を振りかざしてはならない。
せめて、「無知の知」くらいの謙虚さは必要であろう。
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