ロード・マーシャル時事報告場

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徹底追及

2017-11-30 04:41:04 | Weblog
野党は森友学園の件についてなお追及を続けている。

実によいことである。

このようにして国の意思決定を遅らせ、血税を無駄にしつづけてこそ、現在日本に期待していない身としては嬉しい。

この調子で野党は足をひっぱりつづけて日本を「俺が苦しいんだからお前も苦労しろ」という方向へ是非持って行ってもらいたい。
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村から出てけ

2017-11-28 04:11:24 | Weblog
「現日本社会に期待していない」とか、それに付随して現日本社会に対してネガティブなことを述べると、

「嫌なら出ていけ」

と抜かす阿呆がいる。
本当、どこの村社会だろうか。

ほら、どっかの首相が言っていたではないか。

「日本は日本人だけのものではない」

と。そして大部分の日本人がそれを支持したことを忘れたとは言わせない。

当ブログとしては、搾り取れるだけ搾り取る所存でいきたい。
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忘年会

2017-11-26 13:51:02 | Weblog
会社の忘年会などの飲み会ほどバカバカしいものも無い。

何故残業代も出ないのに、会社の人間に気を使いながら数時間も終業後夜遅くまで“接待”せねばならんのか。

ついでに言えば、酒が飲めぬ身なので、烏龍茶で4000円ぐらい払わなければならないのも法外である。

この忘年会が事業所・グループ・チームと何度もあること自体もナンセンスだ。

というわけで今年は通院を盾に会社関連忘年会をすべて拒否するものである。


「会社の円滑な人間関係が~」とか言うバカは、就業時間内にそれが出来ない能力の描けた人間であることを自覚すべきである。
また昨今話題の「ワークライフバランス」に則っても、このような「ムダ」は真っ先に排除すべきものである。
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情報の氾濫

2017-11-24 04:17:34 | Weblog
生活においても、インターネット等において情報の氾濫が起きていると言われている。

これは実は、科学の世界にも当てはまる。
少なくとも生物学には。

一つの事柄に対して、いくつもの説(例えばうつ病の原因等)が提唱され、それを裏付ける論文が出ている。
これらの論文は、端的に言えば、「部分的には正しい」。

生物学は(他の学問も同様に)恐ろしく複雑であり、複合的要因が大きい。
従って、確かにそれは「部分的」には正しい側面もあるのだ。

生物学を応用する薬学・農学・工学等でもこの事象は観察されている。
新しい技術により新しい切り口により事象が観察できるとなると、それぞれの切り口ごとに新しい「解釈」は可能である。

「一酵素一遺伝子説」はもはや過去のものと言えるかもしれない。
いや、厳密に言えば「一酵素一遺伝子説のモデル選びが正しかった」というべきか。

このように日々複雑化していく昨今、最もやってはいけないのが、一つの解釈・説に固執することである。
民間企業について言えば、「トクホ」に代表するように、市場・ニーズ・販売に合致する研究「のみ」がなされることが多い。
またそれらの企業へ原料を供給するメーカーもそれを支持する研究をせざるを得ない。

結論ありきの研究ほど無意味なものはあるまい。

前回の日記では「受け取り手」についての問題を提起したが、「発信する側」についても、皆が同じ方向を向いていれば、思わぬところから足元を掬われるかもしれぬ。

バスに乗り遅れるな→三国同盟→敗戦&「国民は騙されていた」という名の責任逃れ

同じ流れが観察できるかもしれない。

同様の理由で、国が「役に立つ研究」を選び積極的に「仕訳け」することは、自ら鉢の木の根を切る行為に等しいともいえる。
役に立つ、を追及してばかりで足元が疎かだから、日本は科学的に(ついでに言えば社会的にも)後進国なのだ。
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理学と企業による科学的記述

2017-11-22 04:19:48 | Weblog
理学という学問領域を学んだ身として、民間企業で未だなじめぬ表現がある。

再現性が取れた程度で、報告書等で「確認された」と記述することである。

こればっかりは学閥的な何かかもしれないが、理学畑の当ブログとしては、科学において「確認」とか「であった」という言葉を用いることほどアヤシさを醸し出す言葉は無いと考える。

学生時代読んでいた論文のDiscussion項目でも、"May"や"perhaps"が多かっただけに、「百歩譲って“示唆された”だろう」と、言いたくなる。

逆に言えば、如何に研究予算を組もうとも、企業という利益追求(=成果追及)である限り、それらの研究内容は、少なくとも我々の領域から見れば「結論を性急に出している怪しい領域」ともいえる。

よく「学び」の“質”が議論されるが、こういった深さまで掘り下げて議論すべきではなかろうか。


追記

平沢進の「parade」と「映像の世紀」を掛け合わせたMADをみたが、狙いすぎである。
北京オリンピックとのコラボの方がもっとよい。
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特攻隊

2017-11-20 04:19:00 | Weblog
「必死に守ろうとした人たち」と美化するバカもいるが、あれは単なる技術力の不足である。
加えて言えば、そのような状況を作った政治の不備であり、それを受け入れた国民の大罪である。

沖縄戦で補強されるまでもなく、日本への原爆投下は当然の帰結である。
またその後、原爆投下によってドイツよろしく分割されずに済み、実質日本が恩恵を受けた事実も認めねばならない。
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打上花火の歌詞

2017-11-19 05:25:46 | Weblog
替え歌として、ピカドンと北朝鮮関連が使えそうな候補となる。
いつか実施するかもしれぬが。
それだけ。

なお、北朝鮮の核開発については水爆に結実するよりもダーティボムを推進する当ブログであるが、普通に現在の核爆弾でダーティボムの機能は満たせる。
興味深いことに、アメリカの1947年(終戦直後であるな)のビキニでの実験報告書には、

「核汚染が短時間ないし長期に渡って生命を脅かす範囲を、それも目に見える境界線を持たず生み出すことによって、汚染と死の懸念は常に生き残った者に付いてまわり、何千から何百万にも及ぶ避難民は交通を麻痺させ、更にはその避難民が身に着けている衣服や荷物が汚染を拡散させる懸念、そして汚染地域からの避難民への独特な心理面での危険が生まれる」

と示唆しており、その前年のビキニ実験ではこれらの点を加味して核兵器は、

「戦略上このような汚染は大都市や工業地域の活動に影響を与えるという点で核兵器は優れている」

と結論している。

核・ダメなどと言っているのは、日本の猿どもぐらいではなかろうか。
このような深刻な被害をもたらすからこそ、抑止力は成立し、平和が訪れるのであるが、さて、上記2つの記述のうち上については、終戦直後に福島原発避難民の境遇を予測している点で非常に優れた考察と言える。
そして、予測通りの行動をしている現代日本人は、半世紀以上前の仮定に沿って行動している。
戦後になっても日本の社会は変わらないし、これからも変わるまい。
一億総特攻で民族浄化したほうが良かったのではないかね。

このような事を述べるとすぐ「不謹慎だ」から「非国民」まで色々な方面から意見が出るが、日本人は一度第二次大戦と終戦という観点について、言葉だけでなく実際に「グローバルな視点」で国際社会がこれをどのように評価しているのか、いい加減考えたほうがいい。


パッと光って咲いたキノコ雲見ていた
きっとまだ終わらない夏が

(ピカドンからの、終戦後なお変わらぬあのころからの社会)
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空耳?

2017-11-16 04:17:30 | Weblog
精神薬には「狙ってつけただろ!」
という商品名もある。
例えば、「メデタックス」(名称変更して現在「サワイ」)などである。

しかし、あくまで「空耳」的な部類を超えない可能性もある。
というのも、ロシアの攻撃ヘリに「アリガートル」というのがある。
「アリゲーター(ワニ)」の意味なのだが、少し間違えたら小林製薬が開発してそうで怖い。

あったらいいな!
パルチ、紛争、戦争に「アリガートル」!
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「自殺について考える」とか

2017-11-14 04:33:04 | Weblog
標記の件、座間の事件とも相まってちょくちょく記事を見かける。
共通するのは、「若者の自殺」というカテゴリー別けだ。

まあ、それは確かにあるのかもしれない。
しかし一時期、本当に消えてなくなりたいと考えていた当ブログとしては、いささか賛同しかねる。

最近は何かあるとやれ「若者」が「SNS」がと「極端な関連性」を指摘している輩が多い。

そういった層もあるのかもしれないが、そもそももっと根源的なところを追求しないで方法論に走るのはいかがなものか。
そして「根源的追求」は「最近の若者は違う」で蓋をするあたり、片腹痛い。

これでは自殺者も、自殺が動機による事件も後を絶つまい。
そしてそのたび、似たような記事が並んでいれば、社会は全く進歩しないのだろう。
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いわたりましょう

2017-11-12 13:23:14 | Weblog
よく駅の階段にある広告で「高齢者や体の不自由な人をいたわりましょう」的なことが書いてある。

良い心がけかもしれないが極論を言えば、それをしたほうがいいと「強調」するからには、
それをしたくないという世の中の「本音」がある。

前回の日記に通じるが、真に差別なき世界(もちろんあり得ないことではあるが)ならば、そのような「概念」すら形成されずに物事は済んでいる。

それをなるべく強制力を持って行うという事は、強制しなければ差別排斥へと流れるからである。

これは、一障害者として云々ではなく、ヒトとしての性である。

その事実に目を向けず、性善説よろしく上記広告とか、「明るい社会」とか、言っていることに違和感を感じてならない。

事実に蓋をして、ただただ強制力を以て「形だけ」を作っているに過ぎないのではなかろうか。

事実を事実と言わず建前で隠す。
そんな社会、遅かれ早かれ消えたほうがよろしい。
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